「ポーンだ」と「諸君の助けは借りないよ」~二人の黒田さんの言葉~②(全2回)
誰が、どのような意図を持って、日本農業新聞にこのようなことを漏らしたのか分かりませんが、農業品に関する限り、その記事はまったくの誤りで、我々通産省が農業分野の市場開放をアメリカ側に働きかけたことは一度もありません。
この頃、外務省と通産省は対外経済政策を担当すべき者はだれかということをめぐって対立していました。政府を挙げて行われていた行政見直しのうちの一つが対外経済対策だったためで、外務省は、これを外交一元化の名の下に外務省が行うべきだと主張し、通産省は、専門家である通産省がそれを担当するのがふさわしいと主張して、大議論になっていたのです。私の想像は、日本農業新聞へのリークは、その関係で、通産省に対外経済対策を任せたら、このように農民を外国に売るような、売国的行為が行われるから危険だと言いたかった人々が起こしたキャンペーンであったのではないかということでした。事実、外務省からは、ブロック書簡に書かれているようなことは通産省の権限の逸脱であって、けしからんことだ、天下に謝罪せよという要求がどんどん舞い込むようになりました。それに呼応して、日本農業新聞はもちろん、他のマスコミも、通産省は日米貿易摩擦を解決するために農民を売ったのではないかという追及を始めるようになりました。通産省はもちろん応戦するのですが、この問題への対応責任者は、通商政策局総務課と決められ、その担当課長補佐として、私は夏休み返上で暑い夏を過ごすことになりました。
先に述べたように、通産省が農業に関する市場開放に関与しようとしたことはなかったのですが、ブロック書簡に添付されていた約束事の多くが、黒田次長など通産省が米側と接触して、根回しとして伝えたものであることは事実です。そして、関税引き下げ案を記載した表の分量が全体の中でも圧倒的に枚数が多かったために、ブロック書簡に書かれている日本側の根回し活動がすべて通産省の仕業と見做される素地もあったというべきでしょう。つまり、黒田次長の「ポーンだ」がこんなところに影響してしまったのです。
実は、ブロック書簡に載っている、農業分野におけるアメリカに対する根回しを行ったのはだれかということは、私には100%推測がついていました。私はブロック書簡をすみずみまでチェックしていましたし、その年の初めからOECD閣僚会議までの間に各省要人がどのように動いたかもよく分かっていました。端的に言うと、その根回しをしたのは、外務省と農林省の大幹部だとしか考えられません。私は、このような根回し活動が間違っていたとは決して思っていませんし、それをされた人を非難するどころか、愛国者として賞賛すべきだと思っています。ただ、そのことと、身に降りかかった自らに対する嫌疑を晴らすことは別です。誰がどういう目的でブロック書簡を日本農業新聞にリークして、農産品の市場開放の打診をしたのは通産省だと言ったのか。対外経済対策の所管をめぐる争いを担当していて、通産省を貶めたい外務省の行政改革担当の人がまず考えられますが、ちょっと調べればすぐに「真犯人」は外務省の人であったと分かるようなことについて、そのようなことをするだろうか。また、外務省の本件に関する攻撃は、いつまでも無くなるそぶりもなく続けられたのですが、外務省なら、ブロック書簡をちらっとでも見れば、「真犯人」が身内の外務省大幹部であるということが分かりそうなものなのに、何でこのように執拗に本件で攻撃をしてくるのか。謎が残るなか、いつまでも外務省の攻撃はやみません。私は、外務省や農林省の先輩を傷つけてはいけないと思って、この「真犯人」に関することは封印をしながら、外務省の攻撃に対応していたのですが、外務省があまりにもしつこいので、とうとう堪忍袋が切れてしまいました。そこで、上司である黒田明雄通商政策局総務課長にこう申し上げたのです。「課長、これはもう真実を暴露するしかありません。でないと収まりません。農業問題をアメリカ側と議論したのは外務省と農林省の大幹部なのですから。外務省が何を考えているのかは分かりませんが、もうこうなっては身にかかる火の粉を払わざるを得ないのではないでしょうか。はっきり事実を世に公表しましょう。」
しかし私のこの提案は、黒田課長の受け入れるところとはならなかった。「仁坂君、それは言ってはならない。それを言うと、誰かが深く傷つくことになる。日本のために尽くしてきた人たちが傷つくことをしてはならない。」そうおっしゃったのです。私は、通産省への嫌疑を晴らそうといきり立っていた自らを恥じ、深く感動しました。
その後、外務省から、通産省の責任者が外務省に来て釈明をしてもらいたいという要求がありました。そこで黒田課長が出かけることになったのですが、約束の日の夜、担当の私は「課長、私も付いて行きましょうか」と言ってみました。その時に黒田課長が言った言葉が「諸君の助けは借りないよ。」でした。そして、たった1人で外務省に向かわれたのです。私には、その時の課長の後ろ姿が、例えは大変悪くて申し訳ないのですが、当時流行っていた東映のやくざ映画で主演の鶴田浩二が、果たし合いに1人で出かける時の後ろ姿に重なって、再び痺れるような感動を覚えたのです。
黒田課長は、若い頃から大変優秀な官僚で、通産省を背負って立つことを嘱望されていた方でしたが、何事にも筋は曲げないという方で、付けられたあだ名が「黒田筋雄」。法律にも明るいので、法制局参事官に出向され、それが終了して通商政策局総務課長として通産省に戻って来られたばかりでした。時にはカミソリのような切れ味で物事の本質を詰められる一方、たいていの仕事はおおらかに私などに任せてくれる方でもあり、報告に行くと、よくにやっと笑ってダジャレをおっしゃるのが「筋雄」と大いにミスマッチしていて面白く感じたものでした。付言すれば、黒田明雄さんは、またしても、私と同じ和歌山の桐蔭高校の出身です。和歌山県人としては大変誇らしいことなのですが、和歌山にもこういう背筋の伸びた「筋雄」さんがいたかと、アバウトな後輩である私はよく思っていました。
話がそれましたが、後で外務省の人に聞くところによると、黒田課長は1人で会議に臨み、そこに集まった20人ほどの外務省の人達と大議論を展開されたそうです。外務省側から提起される意見には全て堂々と答え、外務省の指摘に論理的な欠陥がある場合はそれを厳しく指摘して「詰め倒し」、まるで法制局の参事官に法案の審査で詰められているようだったとのことでした。
このブロック書簡事件の後始末は、その後も延々と長引き、日本農業新聞の追及も留まるところを知りませんでしたが、その後内閣改造があり、通産大臣をしておられた安倍晋太郎さんが外務大臣に就任するに及び、安倍外務大臣が「私の通産大臣時代のことをあげつらって、私の顔に泥を塗ろうとするのか」とお怒りになることによってようやく収束しました。
私はその年の夏休みが全て潰れ、毎日毎日この問題に朝から晩まで奔走しましたが、その代わりに、またとない貴重な経験をすることが出来ました。とりわけ、通産省の二人の「黒田」先輩のなされた行動に対する感動と敬意が、後々の自分の行動に影響を与えることになったのは大変な幸運だったと思います。そして、そういう先輩が他にもたくさんいたのがあの時の通産省であった、と今も私は思っています。
そして長い年月が経ち、私は和歌山県知事になっていました。知事として多くの職員に指令を出し、その活躍を束ねていくのが私の仕事です。はるか昔に、若かった私があの黒田眞通商政策局次長に資料の取り扱いを慎重にと頼んだように、官僚組織の中で生活をしている人たちは何事にも慎重です。県庁にいると様々な難しい問題にぶつかり、それをどういう風に考えていったらいいのかということを皆で一生懸命考えることで、対応方針やそれに関わる様々な資料が出来上がります。私は、常にそれを公表して人々の意見を聞くべきだというふうに主張しました。それに対して、職員は、まだ不確定な要素がたくさんあるので、それを公表するのは控えるべきではないかと諫めてくれ、言わば「殿ご乱心を召さるな」というような意見をたくさん述べてくれたものです。その時に私が職員に話すのは、きまって、あの貿易摩擦真っ盛りの時の「タフネゴシエーター」通産省通商政策局黒田眞次長の活躍と、そして日米貿易摩擦を軽減することに役立たせるために作った資料をまだ先方に渡さないようにお願いした、まだ若かった私に対して、黒田次長が言い放った「そんなものはポーンだ」という言葉でした。職員は色々考え、うまく行かなかった時に引き返せるように、あるいは責任を追及されることを恐れて、何事も前に進むことを尻込みします。せっかく作った資料も公表には慎重になります。私がよしこれで進もうと決断し、表に打って出よう、材料は全部公表してしまおうと言った時に、うまく行かなかった時にどうするんですか、もう少し様子を見ましょうと進言してくれる職員がたくさんいます。有り難いことですが、リスクを取らなければ前には進めません。前に進むのは県民の幸せのためだから、リスクを取って前に進めばいいではないか。責任は知事が取ればいいのだから。職員が苦労して作った資料は我々の考えを証明するものだ。それなら公表したほうがずっと説得力がある。私はそのように職員を説得することが何度も何度もありました。そしてその最後に、職員を鼓舞するため発する言葉が、あの時黒田眞さんが発した、こんな資料は世に「ポーンだ」だったのです。
また、県庁の仕事でも時々揉め事が生じ、和歌山県では、これを解決するためにトップである私が自ら乗り出すことがよくありました。おそらく都道府県知事の中では、問題が起こった時に、自分が直接出向いて相手を説得したり、お願いしたり、論破したりすることが一番多かったのは私ではないかと思います。もちろん、その時は職員と事前に十分準備をしますが、先方に出かける時はだいたい単独で出かけました。大企業の社長に会いに行く時も、大変高名な学者や有力な国会議員と議論しに行く時もそうです。職員は心配して「私達も付いて行きましょうか」と言ってくれるのですが、その時にニヤッと笑って私が発する言葉は、あの時、黒田明雄通商政策局総務課長が発した「諸君の助けは借りないよ」でした。ある時は、県の危機管理局が発注した防災システムを落札した某電機メーカー社員のその後の蛮行に対して、訴訟を起こすと言って怒っている職員を止めて、社長に直接談判に行ったこともあるし、逆に和歌山県職員の方の蛮行で迷惑を受けた某損害保険会社から訴訟を受けそうになって、もう一度考え直してくれないかとお願いをするために、社長を訪ねて行ったこともありました。職員の不手際を責めている暇があったら、自らが出撃して、先方と交渉し、責任感から精神的に追い込まれそうになる職員を楽にしてやるのも、トップたる知事の務めと思っていたからです。そんな時、一人で先方に乗り込む私がいつも思い浮かべていたのは、あの夜、一人で外務省に乗り込まれる黒田明雄さんの後ろ姿でした。