ばらまきと選挙

 目下我が国は参議院選挙の真最中です。各政党とも有権者の心をつかもうと政策のPRに余念がありません。私がよく精査していないせいかもしれませんが、広く多くの人を対象にして、給付又は減税の形で薄く広く恩恵を及ぼすというものが目につきます。ひょっとしたら、私が接しているメディアが等しく皆そういう側面ばかり報道するからかもしれませんが。先日ある会合であった人が、「どの政党も国民が稼いだお金を国民に広く薄く配ってしまうばらまきばかりで、将来のためにこういう点に投資をしようということを言っている政党が皆無なのは嘆かわしい」と言っておられました。私も実は同じような思いでいます。
 ばらまきはけしからんと人々はよく言いますが、選挙のような場合には、実際にすぐ何かいただけるような政策を唱える政党には人気が集まるような気がします。これが一番端的に出たのは、もうだいぶん前になりますが、当時の民主党が大勝して政権に就いた時の選挙だったと思います。農業者への所得補償と子ども手当をうたって有権者の心を大いにつかみました。その時は、長年続いた自公政権に対する飽きないし反感があったこともあって、マスコミもこの辺の政策を大いに話題にしていた記憶があります。客観的な表現をいたしましたが、いやらしく言うと、これ等の政策を大いに取り上げて人々の心をそちらに誘導したように思えました。テレビを見ていて印象的だったのは、インタビュアーが若いお母さんにマイクを向けて、子ども手当をどう思いますかと聞いている映像です。そのお母さんは「貰えるものならば貰いたいです。」と答えていましたが、この人はおそらくそれを唱える民主党に投票したのではないかと思います。この報道を見て、そういうことかと気が付いて、それでは投票に行かなければと考えた大勢の他の親御さんたちも含めて。
 農業者も、農業所得補償なるものをくれるというのなら貰えるように今回は民主党に入れてやろう、いつも入れている自民党も最近はたるんでいるのでお灸をすえねばな、と多くの人が民主党に投票したと思います。
 もちろん、あげるというのなら貰っておこうと人々が考えるような政策はばらまきです。しかし、世の中はいいことばかりではすみませんから、民主党政権が出来てから、これ等の政策は幾分は実現しましたが、全体の子育て政策をどう作り変えるのか、農業政策は基本的にどうあるべきかという議論はしていませんから、今までの政策はそのままにしてその上に広く薄く上乗せする形でした。だから、有権者はお金がもらえてうれしいけれど、それによって世の中がある方向のほうへ動き出すということはありませんでした。つまりばらまいただけなのです。それでもこのばらまきの総額は広くまいたわけですからかなりのものになって、財源不足が生じました。あの有名な事業仕分けという行政改革もそのような財源不足対策という側面もあるでしょう。もちろん、これは、無駄な行政を整理し、財政の健全化を図るという本来の意義はあったことは確かですが、結構乱暴に議論がされたので、数々の名場面が繰り広げられた割には、財政の健全化を図るという目的からすれば、整理された予算総額はそう大きなものにはならなかったということが多くの人の記憶に残っていることです。
 実は和歌山県では、このばらまき政策とそれを実行するための行政改革で、全体として相当打撃を受けました。分かりやすいのは農業分野です。農業所得補償は行われましたが、それは大票田の米農家にだけでした。和歌山県は農業への特化が他県より大きい農業県ですが、その中身は極めて特異で、コメの生産は全体の8%しかありません。果樹が60%以上を占めている県なのです。果樹農家には一円も来ないぞなどと選挙の時には誰も言いませんので、多くの農業者は自分たちもたくさんもらえると思って投票をしたと思いますが、細々と米を作っている兼業農家にごく少しずつ(対象者数は多いのですが、それぞれの生産額は僅少ですからほんのちょっぴりずつだけ)、和歌山県の主力選手の果樹栽培者は一円ももらえませんでした。そればかりか、この米農家への所得補償に必要な財源を捻出するために、果樹などの生産に必要な投資的経費がバッサリ削られてしまったのです。果樹生産も儲かるときもありますが、斜面に作られた果樹園を維持し、生産のための設備などにお金をかけていかないと生産が続きません。このため、県費による助成もありますが、国の予算措置に支えられてのことだったのでした。それがガクッと減ってしまったのですから、あの時の打撃は大変なものでした。政府の助成がなくなったからといって設備への投資に手を抜くと、将来にとんでもない科が来ます。国費が出ない分だけ、県で必死に補おうとした記憶があります。さらに腹立たしいのは、コメに向けられた所得補償がただのばらまきで、何らかの政策的誘導効果が全くないものであったことです。和歌山県が苦しんだとしても、国民の主食であるコメの生産が国の助成によって飛躍的に生産性が向上し、生産力が増強されたというのなら国民の一人として我慢をすべきなのかもしれませんが、実施された政策はそのような効果が全く期待できないものなので、ただ和歌山県がひどい目にあったというだけで終わってしまいました。それも当たり前で、コメに関する政府の政策は全く変えず、ただその上に所得補償を広く薄く乗っけただけなのですから。

 私は16年間も和歌山県の知事をさせてもらっていましたが、苦しい財政事情の中でも、このようなばらまきは謹んで、将来の和歌山県のためになる投資的案件にできるだけ予算を回しました。知事になるべく、故郷に帰ってきた私がびっくりしたのは、和歌山の衰退でしたが、もっとびっくりしたのが、県内の道路事情の悪さです。それもネットワークの観点が欠落しているような整備ぶりで、これでは経済活動も生活の利便性もかなえられないので衰退するのも当たり前だと思いました。そこで、道路投資にお金を回し、それも高速道路―幹線道路―都市計画道路というように整序をつけて、実施していきました。私は、もともとこのような建設関係の仕事に特別な思いと経験を、ましてや利害を持った人間ではありませんが、こうして建設投資に関する事業にお金を使いましたから、後世の人は私のことを、「土建知事とか道路知事とかいうだろうね。」と周囲の部下に苦笑気味に語っていました。もっともいくら「土建知事」でも、やみくもに県の財政を危機に追い込んではいけません。それで、おそらく全国の県の中では異例のことであったと思いますが、年に数回インフラ建設に関する「閻魔帳」審査をしていました。これは関係者が集まってどの建設プロジェクトを優先的に手掛けるか、それを何年で完成させるかを決めるものですが、そうすると、これらすべてのプロジェクトに要する年度別の予算総額が出てきます。その額がある年の財政負担可能額を超えていれば、プロジェクトの進捗計画を見直すのです。その際、ただ、工期を長くして単年度の負担額を少なくするのは能がありません。道路は完成して初めて意義を有するものなので、お金がないときは一つずつのプロジェクトを引き延ばすのではなく、既存プロジェクトの完成は急ぎつつ、新規着工を増やさないという形にするように努力していました。それにちょうど、二階俊博代議士の主導する国土強靭化政策が国の採用するところとなりました。この政策ですごいところは、国土強靭化政策に要する予算を「別枠」で拡張したことです。そうすると、河川や海岸の防災対策を急ぎたいと思って、政府の助成を受けようとしたとき、従来ならその分道路投資への予算を削られるところを、道路投資は別枠だから削らなくてもよいということになったのです。これはしめた!この機会に和歌山のインフラの遅れを一気に取り返そうと積極財政を展開しました。もちろん、県負担金の捻出のために県債発行額は増えるのですが、このような別枠の利用できるときはめったにない、それがあるうちに一気にインフラ投資を進めて、インフラを早く完成させて、それを利用する産業活動や生活の充実に資するようにすべきだ。完成すればあとは所要額が減っていくのだから、そこで財政を健全化するように支出をカットすればよいのだと言って、単年度での予算の仕上がりの健全性を重視する財政担当者の意見を退けました。もちろん「閻魔帳」でひそかに将来のそろばんをはじきながら。
 このような、将来の県の発展のための投資重視の政策は、それを進めてきたわたしの知事引退とともに大いに退潮しました。次の知事は財政再建を掲げて、道路投資などの予算を大いに削り、代わりに給食費無償化のような給付的予算を充実させました。もちろん思うところはありましたが、私はそれを批判することは慎んでいました。全体の政策パッケージに責任を持てるのは現に責任ある地位にいる人だけであって、前任者が偉そうに口出しをすべきものではないと思ったからです。
 ただ、一般的に言って、明らかに給付型の政策のほうが選挙でえらばれている首長には魅力的に映ることは確かでしょう。投資的予算は、その執行の時は、例えば道路建設のケースで言えば、直接裨益するのは建設関係の業者さんだけですから、給付型のように、多くの有権者が何らかの給付をすぐに受けられるので喜ぶという要素がありません。その投資が完成し、多くの人々がそれを使って行動し始めて初めてその利便性が多くの人に及ぶからです。したがって、給付型事業の予算付けは、選挙を意識している政治家にはとても魅力的に映るだろうし、投資的事業の場合は選挙を考えると、建設業者がその政治家の強力なサポーターというケースでもなければ、政治家がこれを採用するのはリスクがあります。建設関係で過去多くの利権―汚職といったことがあったことも一因でしょうが、今は一般的に不人気な政策なのです。その証拠に、インフラ投資の公共事業にはキャッチ―な悪口がいっぱいあります。「無駄な公共事業」、「箱もの行政」、「土建国家」・・・です。「コンクリートから人へ」というようなキャッチコピーが流行るはずです。しかし本当にそうでしょうか。経済活動や生活の利便はインフラの発達度合いに左右されます。これが劣後にある地域は競争に負けてしまうのです。いくらパンだけをまいていても、競争に負けて人口が減ってしまったら何にもなりません。
 しかし、建設利権が選挙の帰趨を握る時代が去ってからはや数十年、選挙を意識する政党、政治家が魅力を感じるのは多くの人への給付、それも多ければ多いほうがよく、薄くてもいいのです。要するにばらまきです。私は選挙への熱意に少し欠けたところがある知事でしたから、給付より将来の和歌山のための投資のほうが大事だと頑張っていましたが、政治家としては少し変わった人かもしれません。しかし、国民も、くれるものなら貰ったほうが良いというのは分かるけれど、そんなに薄くもらったからといって、本当にそれで生活がよくなるのか、現下の問題が解決されるのか、そろそろ気が付く頃ではないでしょうか。気が付きにくいのは、そこにのみ焦点を当てて、どの方法で給付をすればよいかばかり論じているメディアの影響であるような気がします。
 最後にもう一つ危険性を指摘します。ばらまきとしか思えないような給付型の事業は、多くの人に薄くではあるが裨益するものであり、いったんそれを手中にすると、それが既得権として、貰うのが当たり前になってしまいます。そうすると、いつか、選挙ばかりを考えているのではなく、この国の将来や、その地域の次代における発展を考える政治家が出てきた時、その政治家がこんなばらまきは意味がないと思ったとしても、いったん出来た制度を廃止して、既得権を引っ剥がすということは大変な労力を要することになるでしょう。この手の政策は、いったん作ってしまうと、それを元に戻すのには作った時の十倍以上の労力がいることになると思います。したがって、この手のばらまきが集積していった国や地方は、退廃と衰退しかないと言わざるを得ません。日本がそうなってほしくないし、私が心血を注いで県勢を挽回することに狂奔していた和歌山県もそうなってほしくありません。

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