私は知事をしている時代に時々県下の高校や、時として中学校にお話しに行きました。若い諸君を勇気づける目的です。内容は学校の要請に応じて色々でしたが、一番多かったのは、タイトルで言うと「少し前に高校生であった者から○○高生諸君へ」と言うもので、自分が今までの人生で経験したことから判断して、高校を出て大学や社会に出たときどういう事態が待っているかと言う観点から、高校生の今何に力を入れたり、何を学んでおけばいいと思うかといった話を一番多くしたと思います。そういう話を全校生徒が体育館や講堂に集まっている前でするのですが、ちゃんと聞いてくれるかな、ほとんどの生徒が寝てしまうのではないかと心配していましたが、なかなかどうして皆熱心に聞いてくれて、後で少し時間を割いてお聞きした生徒さんの質問からも、ちゃんと聞いていて理解してくれていることがよく分かって、この子達はすごいなと感心しました。終わった後に大抵生徒会長さんなどがお礼の言葉を述べてくれるのですが、これがまた皆さんすごいレベルで、私がこの年の頃にこんな立派な話を出来たかとは到底思えませんでした。
このような講話で一番私が力を入れて話したのは、「諸君は今受験のことが最大の関心事であろうかと思うけれど、世の中に出てものを言うのは、どういう大学を出たかと言うことなんかより、『あいつはいい奴だ』と思われる人間かどうかと言うことだ、そういう人にはどんどんチャンスが開けてくると思う、高校生活は『いい奴』になる訓練をするところだ、そして、その要素の一つは『自分を超えたものに尽くすのは楽しい』と思えることだと思う。」と言うことでした。最後の点は和歌山県が高校生を対象に催していた「きらめき夢トーク」という、日本全体で活躍をしている著名人をお呼びして高校生とお話し頂く催しの中で、国際派官僚として活躍していた財務省の本田悦郎さんをお呼びしてお話し頂いた時彼が放った言葉のパクリなのですが。
そして、そういう時には、話の最後に必ず、「本当に役に立つ3つのアドバイス」というのを付け加えていました。この立派な若者達が健全に幸せな人生を送って欲しいという思いからです。
最近、東京大学公共政策大学院の宗像直子教授の授業の一コマを割り振って貰って、地方行政の講義をしているのですが、その時知り合いになった学生さんの一人が今年から経済産業省に入省すると言うので、このアドバイスを披露したところ、えらく受けたので、これはもっと多くの人に披露してもいいなと思って以下に述べることにいたしました。
アドバイスの第一は、「いつか終わるです」。我々は時として大変な重荷を背負ってしまいます。困難な任務を背負い込んだり、また、職場で嫌な人間関係に悩まされたりと、大変な目に遭います。私の場合も、法案作りで他の省庁との調整はいつまで続くのかとか、貿易摩擦の種が次々と降ってきてこれはどうなってしまうのだろうとか、コロナ対応の司令官である知事として、コロナの猛威はどこまで続くのか、それに耐えて無事県民を守れるのかとか、様々な困難に遭遇しました。いつまで続く泥濘みぞです。責任感の強い人ほどいつまで続くとも分からない困難に押しつぶされそうになるのですが、実際は終わりのない困難はありません。とにかく一生懸命やっていれば、いつかは何らかの結果が出て、「終わる」のです。満足の行く結果であったかどうかは別として。中には、上司とそりが合わないで悩んでいる人を見かけることもあります。でも、自分も上司もおそらくある時期が来ると異動で別れ別れになります。一生嫌な思いをしながら人生を送ると言うことはまずないと思うべきでしょう。いつか終わるのです。私自身も自分の職業生活を振り返ると、よくも次から次へとこんな大変なことがと思うようなことが次々と押し寄せてきました。でもすべていつか終わるのです。一生懸命対処していればいつか終わります。いつまで続くのかという困難さに押しつぶされて心や体を壊す人がいます。そういう人にもこの言葉はきっと役に立つと思います。
アドバイスの第2は、「まあいいか」です。人間は多くの失敗をします。悔やんでも悔やみきれない過ちも犯します。人から見たら大成功と言うような事例でも、自分としてはあそこはこうしたらよかったのにとうじうじと思い続けることもあります。しかしもう済んだことは仕方がない。どんなに思い悩んでいてもそのことは元には戻りません。新しい仕事や任務が次々とくるのですから、後悔の塊になっていると前へ進めません。過去の大失敗は将来の教訓として生かすことにして前に進めばいいのです。ただ、人間はそう簡単に過去の大失敗を忘れることが出来るほど無責任に出来てはいません。やはりうじうじとなって、心や体を壊さないとも限りません。そうならないように唱えるべき言葉が「まあいいか」であります。いささか無責任に見えたかも知れませんが、私はよく人にこの言葉を唱え、また部下などにそう思おうよと言っていました。
アドバイスの第3は、「倒れそうになったら倒れてしまえ」であります。人間は限界以上には働けません。責任感が強いとついつい無理をしてしまいます。組織や上司の苛斂誅求があったらなおさらです。そういう時は体が悲鳴を上げ始めます。体調が悪くなり、心も知能も体も能力が落ちてきます。そしてとうとう倒れそうになります。それでも真面目な人は人にそう言わないで頑張ります。しかし、人間も生物ですから、そうしていたらいずれ本格的に壊れてしまいます。そうなったら、本人にとって取り返しがつかないことになるのはもちろんですが、あたら有為な人材を失うわけですから組織も大いに困ります。それならどうすればいいかというと、倒れそうになれば倒れてしまうことです。周囲にも事情を説明して休養を取らして貰うべきです。周囲も理解してあげて、その分暫くは他の人がカバーしてあげるべきです。それをけしからんと言う人は少ないと思います。そして、回復したその人は今度は他の人が倒れたときにはカバーしてあげればいいのだと思います。
今もそうでしょうが、昔の通商産業省の一年生は大変忙しかったのです。総務課に配属された一年生は雑用一般に加え、国会事務のよく言えばコントロールタワーをやらされます。局に配分された質問を担当課に振り分けて、答弁を書いて貰って、要所のクリアーを受けてもらって、必要部数を印刷して、要所に届けると言った事務のコントロールタワーをしていました。コントロールをしながら、他局、他省庁と調整もしますし、自分でコピーをし、必要部数を揃えたり、大慌てで届けに行ったりという単純労働もやるわけです。しかも、これが深夜、明け方までほとんど毎日続くわけですから、さすがに疲れます。私はとうとうめまいが止まらなくなって、課の真ん中にあるソファーに寝転がりながらコントロールタワーをしていたことがありました。そうしたら、日頃はうんと厳しい先輩諸氏が心配して休ませてくれました。また、骨休めでしょうか、たまたま紙業課長が北海道のいくつかの工場に視察に行くことになっていたのに付いて行って来いと言うことになって、骨は休めるは、勉強にもなるはで、有り難いことでした。この場合は、私が倒れそうなのに倒れてしまわないで頑張っているのを見た上司が危ないと思って休ませてくれたから良かったのですが、時として痛恨の出来事も起こります。私が通産省の採用に関わった昭和59年入省の一人、及川淳君が体を壊して亡くなりました。それも、私が主席の課長補佐として配属されていた貿易局の総務課においてです。私が国土庁の官房総務課に移ってから新任の係長として異動してきた時、疲労で体をすっかり壊し、その後この世を去りました。東大経済学部に助教授で戻ってきた伊藤元重先生のゼミの初めての卒業生で、見るからに学者タイプ、体は細くて大人しいが意志は強そうで、先生には学校に残らないかと言われたけれど日本の経済発展に貢献したくて通産省に来たいのですと言っていた及川君です。その話を聞いたとき、私は及川君が哀れで哀れで泣きました。どうして倒れそうになったら倒れてしまわなかったのかと。当時貿易局は通常の貿易摩擦対策に加えて、東芝機械ココム違反事件を抱えていました。私が在職中に一度山があり、当時の畠山貿易局長がたちどころに厳しく処分を下し、しかもそれを米国の要路に素早く説明に回ったので、収まったかに見えました。私はやれやれと思いながら国土庁に移って、四全総のあとの実施法たる「多極分散型国土形成促進法案」の作成と成立に忙殺されていました。しかし、ちょうどその時、日本と同じ嫌疑を受けていたノルウェイの対応の悪さがきっかけとなって、東芝機械ココム違反事件が再燃し、前よりももっと大変なことになっていたのです。その渦中で、あまりにも責任感が強く、あまりにも真面目な青年が命を落としました。せめて、本人が倒れようとしないなら、私の一年生の時のように誰かが休ませてあげることは出来なかったものかと思うこともありますが、後で言ってもせんのないことであります。どんなことがあっても倒れそうになったら倒れてしまわなければいけないのです。
毎年4月1日和歌山県庁では新入生の入庁式があって、私は一人一人に辞令を手渡すとともに、訓示を述べるのですが、その中身として毎年必ずこの3つのアドバイスを入れていました。どの組織もそうでしょうが、県庁は人で成り立っています。最大の設備投資はこの入庁者を立派な職員として育てることです。心や体を壊して、それがかなえられなくなることは断固として避けなければなりません。若い有為の人を預かっている県庁として、その命や健康を奪うことがあっては断じていけません。その気持ちで、毎年この3つのアドバイスを申し上げていました。及川淳君を思い出しながら。
最近私が知り合いになったあの経済産業省の新入生も、私の話を聞いたあのかつての高校生達も、つつがなく立派に成長することを祈ります。