ひとはなぜ戦争をするのか~高野山会議から

 7月10日から13日まで、今や恒例行事になった高野山会議が高野山で開かれました。東京大学先端科学技術研究センターが主宰して、和歌山県や関係市町村、高野山大学、金剛峯寺の協力で毎年この時期に開いているもので、私が知事の時代に始まったのですが、なにぶん知事の仕事をしていますと、いくら面白そうだとは言え、なかなか他の仕事をおっぽり出してこればかり出席するわけにはいかないので、初めか終わりの挨拶ぐらいしか出られませんでした。知事を辞めて時間が自由になった昨年からは、先端研のフェローにして頂いたこともあり、全部出ようという構えにしています。それにふさわしい内容で、素晴らしいフォーラムだと思いますので、是非皆さん、夏の暑い盛りに高野山ですし、内容が素晴らしいのでおいで下さい。私は昨年は本当に全部出たのですが、今年は家内が体調が悪く、出来るだけ側にいてあげたいので、だいぶカットをして出席しました。その中で、私として一番面白かったのは、先端研の杉山所長がコーディネーターをしたセッションで、タイトルは「Way war?:ひとはなぜ戦争をするのか?」でありました。
 杉山所長が自らコーディネーターを務めるだけあって、初めのプレゼンテーションに先端研のフェローで、物理学・脳神経科学の小泉英明さん、東洋文化研究所の中島隆博所長、後半のパネルディスカッションに上記の方々に加えて社会科学研究所の宇野重規所長、大学院理学系研究科の自然人類学の太田博樹教授、先端研のイスラム思想の池内恵教授、元朝日新聞の国際部先端研の国末憲人特任教授という理科系、文化系の研究所のトップ総出の東京大学をあげての豪華メンバーになりました。
 こういう問題であると、皮相な見方からすると、すぐに政治学、国際政治の世界になるし、そうでなければせいぜい心理学、精神分析の世界が少し絡んでくる程度だと思いましたが、高野山会議のこの布陣は、がちがちの理科系から文化の領域まで、本当のインターディシプリナリーな面々で、私の想像を遙かに超えていました。それもそのはず、このセッションのベーステキストになっているのがアインシュタインとフロイトで、自然科学の巨人と社会人文化学の巨人との対話から始まっていますから。しかし、このひとはなぜ戦争をするのかというテーマは、昔も今も人類にとって、最大の問題であると思いますし、今や人間の科学技術によってものすごい破壊力が伴ってきたことを考えると、地球に与える影響力からいえば、地球最大の問題であろうかと思います。そこで繰り広げられた議論は私にとってはとても面白かったのですが、先端研のメディアによって、詳細に紹介されるであろうと思いますので、ここで私が下手な紹介をすることはやめますが、議論が面白すぎて、杉山所長は次の高野山会議でもまた取り上げたいと言われるほどでした。私は不明にして、このベーステキストであるアインシュタインとフロイトの往復書簡については知らなかったので、帰宅後近くの書店で注文を出して入手し、読んでみました。講談社学術文庫から出ている訳本には養老孟司さんと斎藤環さんの解説がついていました。斎藤さんの方は解説らしい解説でしたが、養老さんの解説はそれ自体とても面白い視点が語られていたように思います。養老さんは、警世の批評家で解剖学者ですが、ゾウムシの採集家、研究者としても有名で、私が知事時代に和歌山県で全国植樹祭をすることになったので、そのコンセプトを作る際のアイデアを頂くための小人数の委員会を作った際に、昆虫の世界で令名が高い養老さんにも知恵をお借りしたいとお願いに上がりました。そうしたら、私を昆虫を少しは囓っているなと見抜くやいなや、養老さんの大好きなヒゲボソゾウムシの全国分布、特に紀伊半島と和泉山脈に分布している個体群の特異な変異についてノンストップで1時間半ご高説を聞かされて、付いていくのに頭が壊れそうになった記憶があります。(その後養老さんは上記委員会のために和歌山に来て下さって、委員会終了後すぐに、和歌山が誇るゾウムシの大家、当時和歌山県立自然博物館の的場績さんに案内してもらって、和泉山脈のヒゲボソゾウムシの採集に行ってもらいました。)
 養老さんは、このアインシュタインとフロイトの往復書簡を高く評価しつつ、様々な理由で扱われていないものがあると言います.その一つはナチの勃興のような政治情勢と人口であると。特に後者は説得的で、人口が増えることによって、生存権の争いが起こり、軍隊だけは膨張圧力が加わると指摘します。なるほどその通りだと思いましたが、さらにもう一つ、現代にあって当時になかったのは情報という側面だと言われます。それは、良い方から言うと、様々なアクション映画やアニメやゲームなどに派手な破壊場面があり、これによって人々はいわばバーチャルな世界でアインシュタインとフロイトが語っているような人間の憎悪と破壊欲動に対してカタルシスを得ていて、それが戦争の抑止に一役買っていると言われるのです。なるほどと思います。一方電子戦技術が発達して、相手の兵器を破壊する際など、ゲームをしているのか、本当に戦争をして人殺しをしているのかよく分からないというような点も指摘されていました。
 私は特に最後の点について、科学技術の進歩が戦争の発生と激化に与える影響を懸念します。例えばゲームの世界を想像してみると、私達は戦いをモチーフにした多くのゲームを楽しんでいます。相手を倒したり、破壊したりして、破壊の欲動を満足させているのですが、実際の戦争と違うところが二つあると思います。一つは簡単に相手を倒したり、消したり出来るということで、それがあまりにも手軽に出来るために、一つ倒してももっと倒したくなり、破壊の欲動が費消されてしまうことはないのではないかと思うことです。実際の戦闘では生身の人間が相手ですから、こちらもそうであるように、その相手にも家族はあり様々な思いもあるだろうと言うことを想像すると心が痛みます。それに戦争は社会にとってのおそらく最大のオペレーションでしょうから、いろいろな手続き、段取り、動員、準備等々たくさんの労力が要ります。そういうことを考えると、戦争を避けたいと言う心理も大きくなるのでしょうが、バーチャルな世界だとそういうものは問題になりませんから、破壊欲動を解消するつもりが、実は戦争が手軽に出来るんだという思い込みを助長しているのではないかという懸念を感じます。
 もう一つは戦争は殺戮ですから、味方にも犠牲者が出るし、相手を倒せば生身の人間が死ぬと言うことですから、生物学的な腐敗が進みます。私は罪深い昆虫採集家ですから、よく理解していますが、昆虫は捕らえて殺すと、体の腐敗が進みます。当然悪臭も漂いますし、あれほど美しかった昆虫の体の美しさも変化していきます。特に、トンボやバッタの類いは、美しさのもとは透明度の高い外骨格の向こうの肉の色ですから、生きていた時のように綺麗な状態で標本を作るのがとても難しいのです。チョウや甲虫は外骨格の色や鱗粉の色ですから、美しさは保たれますが、それでも腐臭は同じです。我々人間の場合は内骨格ですから、死んだ時の死体の腐敗のすさまじさは昆虫の比ではありません。(余談ですが、こういうことが分かっていれば、南京虐殺30万人というのは少なくともそのマグニチュードではあり得ないと言うことが分かるでしょう。)実際の戦争をするということは人を殺すと言うことで、このような腐臭の漂う死屍に自分達がなるか、相手をならせるかであります。片やゲームの戦いでは、相手に勝つと相手が瞬時に爆発して跡形もなくなったりして、実際の戦争における無残に腐敗していく死体などは登場しません。戦いというものが持つこの不快な醜悪さが感じ取られることはないのであります。戦争を描いたアニメや映画を見ていると、多くの兵士が倒されるところは描かれるけれど、その後の戦場における生体の腐敗するおぞましさが描かれることはありません。アクションもので派手にカークラッシュが描かれることはあっても、それで亡くなった名もなき警官ややくざ者や通行人などの死者のその後が描かれることはありません。こういう風にいわばバーチャルな世界での戦争や争いばかりを経験していると、あの生体の腐敗が進む時の不快な感情が頭に入らぬまま戦争を考えるような人が増えてくるような気がします。このように、「情報」という要素が入ったこの現代では、今までですら戦争をすることを止められなかった人類が、悲惨な戦争を避けることがさらに難しくなってきているのではないかと私は思います。
 私は昆虫採集などという虫の命を奪う罪作りな趣味と親しんできたので、かろうじて今まで語ってきたような情報の時代の新しい戦争の危険を感じることが出来ています。昆虫採集のようなよくないことは辞めなさいと親と社会に言われ、一見無害と思われたバーチャルな世界だけに親しんで育ってきた多くの若い世代は、かえってその危険が分からないのではないか、安易に戦争という殺戮を始めてしまわないかと危惧します。
 したがって、すべからくうんと若い子供達には昆虫採集をさせて、命とは何か、自然はどうなっているのかを身をもって体験させるべきであると、手前勝手な理屈を言っておきます。