前回からの続きです。(全2回中の②)
イタリアと言えば、もう一人の怪男児を思い出します。私がイタリアのミラノにいた1990年ころ、JETROのローマ所長であった安河内勢士さんであります。安河内さんは、あまり飾らない、ちょっと目には田舎のおっちゃんというタイプの人でありましたが、実は優秀な調査マンでもありまして、安河内さんが書いたレポートはいずれもものすごく精緻で、端々まで、データと論理で埋まっていました。安河内さんはイタリア語の専門家で、若いころからミラノセンターにも駐在し、本部でもイタリアを担当し、当時ローマ事務所の所長をしていたわけです。所長と言っても、日本人駐在員は一人の小さい事務所ですから、何から何まで一人でこなしつつ、イタリア人と身分にかかわらず濃密な付き合いをして、深くイタリア社会に入り込んでいました。当時のお友達の一人は孤児院の園長さんで、休みの日には孤児院に出かけ、恵まれない子供たちと遊んでいました。そのために頼まれて、彼は何人ものイタリア人孤児の名付け親を引き受けています。一方、そんな彼はあの有名なロマーノ・プローディーさんの心をがっちりと捉えていました。プローディ―さんはもともとはボローニャ大学の経済学の教授ですが、イタリアの世界は日本では想像もできないほど、アカデミアの世界と政治や産業界の世界が近く、立派な人はその間を行ったり来たりするのです。プローディ―さんもその一人で、ボローニャ大学教授からスカウトされ、IRIの総裁になり辣腕を発揮して大いに功績を挙げました。その後一度大学に戻り、次には産業大臣に抜擢され、また大学に戻り、今度はEU委員長になり、また大学に戻り、またまた選ばれてイタリアの首相になるというすごい人であります。そのプローディ―さんに目を付けたのが私の何代か前に通産省からJETROミラノに出向していた先輩で、JETROの有力者招へい事業を利用して、ちょうどIRIの総裁をやめて大学に戻っていたプローディーさんを一週間ほど日本に招待して、色々なところにご案内したのです。その時案内役をしたJETROの本部職員が安河内さんです。イタリア語の達人ということで任じられたと思いますが、おそらく経済学者のプローディーさんの目からすると、安河内さんの調査マンとしての並々ならぬ能力がよく分かったのかもしれません。また、何人もの孤児の名付け親になるという安河内さんのやさしさに参ったのかもしれません。(イタリアではこういうことを「シンパーティコ」と言います)それ以来、おそらくプローディ―さんにとって最も好きな日本人は安河内さんになったのではないかと私は思います。
私がこのことを発見したのは、私がミラノに赴任中プローディ―さんに会いに行った時です。その時はプローディ―さんは、今度は産業大臣を辞してまた大学に戻っていました。私は、JETROの職員としては、過去に知己を得た有力者にJETROを忘れないようにし、そして日本のことを忘れないようにするために、たまには『眼付け』をしに行かないといけないと思って、ボローニャ大学にインタビューに行ったのですが、正直私は軽くあしらわれたという感じがしました。ただ、その最後にプローディ―さんが「ところで、安河内は元気か。」と聞いてきたのです。安河内さんのことを語るその目は、私の質問に答えている目とは違いました。私は直ちに、この人は安河内さんを本当に好きなんだなと直感しました。
そして、安河内さんに続いて私も日本に帰って、そしてかなり年月が経ってから、イタリア大使館から食事の誘いがありました。その時私のカウンターパートをしていた経済担当参事官から、今度プローディ―首相が訪日するのだが、日本で招宴をするとき誰を読んだらいいと思うかと聞かれましたので、「プローディ―の一番好きな日本人を呼びなさい、それはJETROのある町の貿易情報センター長をしている安河内さんという人だよ。この人に会わせたらプローディ―の覚えがめでたくなるぞ。」とお教えしました。その招宴に私も呼ばれましたので出掛けたところ、ちょうど安河内さんが現れて、プローディ―のところに近づきました。そして二人は長くイタリア風の熱い抱擁。私は思わず心の中でガッツポーズ。安河内さんを推薦してやった参事官にほれ見ろと言ってやろうと探しましたが、大勢の参加客の中で見当たりませんでした。
その後、安河内さんからは推薦して下さってありがとうというお礼の電話を頂きましたが、安河内さんがこれを奇貨として日伊の関係改善に大活躍をしたという話は聞きません。おそらく当時の政府の関係部局がこれをうまく利用しようという構想に欠けていたのでしょう。少し残念です。
3番目の人はブルネイの主のような存在であった澤田紘さんです。私が大使として2003年から2006年まで赴任していたブルネイは人口が和歌山県の3分の1ぐらい、面積はほぼ同じくらいの小さい国ですが、昔からの産油国で、かつ三菱商事がシェルと組んでLNGの開発をして、その製品の9割を日本向けに輸出している国であったものですから、日本にとっても資源エネルギーの観点から大事な国ですし、ASEANの一員ですから、我が国の対アジア外交の観点からも重要な国です。三菱商事はこのLNGで大きな利益を上げていましたが、立派な企業ですから、LNG以外の分野でもブルネイに対する貢献を怠りません。その一つが牛肉生産のための牧場の経営です。ブルネイも当然牛肉は食べるのですが、当初はその全量をオーストラリアなどからの輸入に頼っていました。他の農産物もそうです。ブルネイ側としては国内で供給したいわけです。そこで乗り出したのが三菱商事で、「MACFARM」という牧場を作るのです。そしてその所長として白羽の矢が立ったのが、農業大学を出てからJICAの海外青年協力隊の一員として、インドでマハラジャの象の病気をアリナミンの注射で直してマハラジャに気に入られ、下へも置かぬ歓待を受けた経験を持つ澤田さんでありました。澤田さんは、長い、長いブルネイ滞在の中で、持ち前の人懐っこさと誠実な人柄でどんどんブルネイ人の心をつかんで行きます。その人脈は王族から大臣クラスは優にカバーしていますから、考えてみれば並みの大使などより行動半径と影響力は大きいわけです。そこで長いブルネイ大使館の歴史を紐解いてみますと、大使館からは煙たがられる時代もあったようです。しかし私は、その人に正義と日本に対する忠誠心がある限り、どんな人でも大事にするというタイプですから、澤田さんとはすっかり仲良くなって、数えきれないほどのお世話になりました。ブルネイといえども、やはり政府の中に派閥もあれば勢力争いもあります。我々は日本人であり、私は日本大使ですから、任国の政府の勢力争いなどに首を突っ込んではいけません。ただ、それがどのようなからくりで繰り広げられているかはきちんと頭において行動しないとプロの外交官、行政官ではありません。私はいつも澤田さんにその辺を教えてもらいながら行動していました。澤田さんも分かっていながら、勢力の一方に加担することなくすべてのブルネイ人と上手くやっていました。上は国王と言っては言い過ぎですが、その下で実権をふるっているほとんどの人に澤田さんは影響力があったと思います。そのうえ、澤田さんはまめです。ブルネイ政府のトップクラスの高官にも、ビジネス界を牛耳る中国系のブルネイ人にも常にニコニコしながらお付き合いをしていました。そんな澤田さんに私が報いるのはまたしても表彰です。澤田さんは外務大臣表彰を受けました。そしてそれが後の勲章受章につながっています。
澤田さんが人生の大半を捧げたMACFARMは、やはりブルネイの高温多湿すぎる気候には勝てず、閉鎖になりました。それでも澤田さんの人脈を重んじる三菱商事は澤田さんを離さず、ごく最近になってようやく澤田さんは日本に帰ってきました。しかし、しょっちゅうブルネイには出かけているし、ブルネイには澤田二世が定住して、今年の夏王族のお嬢さんと結婚するそうです。
そしてこのような系譜を継ぐ4番目の人は少し前までベトナムのJICA事務所長を務めておられた築野元則さんです。築野さんは、和歌山が誇るこめ油の総合メーカー築野食品の経営者一家の出身ですが、ベトナムから戻ってから大阪事務所長を勤めておられましたので、和歌山以外の経済界の方にもおなじみであったのではないかと思います。森永さんがトルコのオザル首相の親友であったように、築野さんはベトナムの政府のナンバー2のサン国家主席と大変親しく、大いに信頼されていました。
和歌山県は私が知事の時代大いに国際関係を強化しました。自治体の国際関係というと、適当な外国の自治体と姉妹関係を結び、お互いに訪問しては乾杯をして友好を確認しあうというものが多いと思いますが、私の目指した国際関係はかなり違います。東京や大阪のような栄えている自治体ならそれでいいかもしれないし、国の立場からすると、国と国の関係が両国政府間だけではなくて、自治体同士、民間団体同士のように重層的になっているととても好都合なのであります。政府間では様々な対立や摩擦が起こることがよくありますが、このような重層的な関係があると両国間の関係が一気に破局に転じることが少なくなると思われるからであります。しかし、和歌山県のような経済発展から取り残された県は乾杯で友情を語っている暇はありません。自分たちの資源を最大限に生かして、海外との関係も含めて最大限発展を図らなくてはありません。したがって、県庁スタッフにはJETROや大使館経済スタッフ、JNTOの職員のような営業活動を目標に課しました。また、そのための職員の能力向上に努めました。和歌山県のような対外的活動の力の少ない企業が中心の県では県当局が企業を引っ張っていく必要があると思うからであります。しかも対外活動も巨大企業のように独力ではなかなかできません。外国の適当な企業と協力して行うのが近道です。こういうマッチングを和歌山のような小さい県で行おうと思うと、相手が大きくないとうまくいきません。なぜなら選手の少ない小さな自治体同士でマッチングをしようとしても、こちらのニーズに合う相手を見つけることが困難だからであります。少ない選手同士がすれ違うだけであります。そこで、和歌山県は連携する相手としては地方自治体ではなく、相手国の中央政府を相手とする方針を固めました。相手は中央政府ですから、いくら相手が日本の自治体と言っても自治体と中央政府が対等の協力関係を結ぶのはプライドが許せない時もあります。そこを和歌山県の優秀な職員が工作をしてくるわけです。また、その時築野正則さんのような相手国の、しかもその中枢と深く信頼関係を取り結んでいる方のご尽力があればさらに物事が進む可能性があります。和歌山県はかくして、ベトナムの農業農村省、工業省、インドネシアの工業省、商業省、台湾の経済部、タイの観光省、香港の貿易発展局などと協力協定を結びました。それでも、なかなか実際のマッチングが進まないのが悩みでしたが、いずれ後世の人達がこのような関係をうまく利用して努力してくれれば、将来の国際協力が花開くかもしれません。
そして、私が狙っていたベトナムとは、築野さんのおかげで第一歩が踏み出せました。もっと正確に言うと、築野さんとその友サン国家主席との信頼関係によって第一ページが開かれました。
サンさんはすごい人だと私は思います。我々は和歌山県の有力企業をごっそり連れてベトナムを訪問し、その全部を集めた会合で、サンさんは一つ一つの企業に徹底的にヒアリングをされました。おそらくベトナムにとって利用できる企業はないか必死で探しておられたと思います。われわれもまた同様です。ベトナム政府が我々の企業に最も利用価値のある企業を協力相手として引っ張ってきてくれることを期待しているわけです。しかし、国家の主席が自ら一社一社の企業に熱心にヒアリングをする姿を見て、私はベトナムの将来性を確信しました。さすがは築野さんが見込んだ政治家だけある。そのサンさんはその数年後国家主席を引退しました。聞くところによると日本の温泉が大好きで和歌山の温泉巡りにも来てくださいました。和歌山城が見える島精機がオーナーのレストランで旧交を温めたのが私の喜びでもあります。
トルコの森永さん、イタリアの中村さん、そして安河内さん、ブルネイの澤田さん、ベトナムの築野さん、このように相手の国のトップとも親交を深め、信頼を勝ち得るに至ったすごい日本人を私は深く尊敬します。おそらく世界中には、私が知らないだけで、このようなすごい日本人がもっともっといらっしゃるのではないかと思います。そしてこのような方々のこれまでの人生そのものが日本の声価を高め、現在の我々の生活をも支えてくれていることに、我々はもっと感謝をしなければならないのではないかと私は思います。