世界にいるすごい日本人①(全2回)

 3月19日、越純一郎さんの大変なご努力で、宮島昭夫元駐トルコ大使、苅田吉夫元ニューヨーク総領事・式部官長のような有力な方々がご尽力されて、下関市にあるオルハン・スヨルジュ記念公園のスヨルジュ機長の記念碑の前で、1985年に起こったトルコ航空機によるテヘラン空港に取り残された日本人救出事件の記念献花式が行われたことは、このメッセージで既報の通りです。私はこの会にも出席をできませんでしたし、この話が持ち上がった初期の段階で、越さんによく言えばアドバイス、悪く言えばそそのかしただけの人間なのですが、越さんが過分に評価して下さって、苅田、宮島両大使らとともに昼食会にお呼び下さいました。その席でいろいろお話をしている中に、あの時トルコ航空機を派遣することを時のオザル首相が決断してくれたのはどういう経緯かという議論になりました。この点にはいろいろな説があって、例えば、私もその実現のために努力した映画「海難1890」では描かれていないのですが、当時伊藤忠商事イスタンブール支店長であった故森永堯さんのご功績が大きかったというのが日本でもトルコでも定説になっています。私も和歌山県知事になって、この1985年をさかのぼること120年昔の和歌山県串本町大島樫野の人々によるトルコ海軍エルトゥールル号遭難者に対する救助と援助との関係でこの1985年のテヘラン空港事件を知った時から、森永堯さんのことはよく存じ上げていました。越さんが熱心に資料を収集して下さったので、詳しいことも分かってまいりましたが、森永さん自身のお書きになった資料(日本・トルコ協会アナトリアニュース118号)から、テヘランで取り残された日本人を救うべき日本の航空会社の機は、安全が確保できないと飛んで来てくれないし、当時は法制上の制約で自衛隊機が飛んで来るわけにもいかなくなって、途方に暮れた現地の野村豊大使が旧知の駐イラン・トルコ大使にお願いし、この訴えはオザル首相に届いたが、首相を動かすことはできなかった。しかし、オザル首相ととても親密な信頼関係を結んでいた森永さんが熱心にお願いしたところ、ついに首相が決断をし、日本人救出のためトルコ航空機を派遣して下さったとのことでした。オザル首相の決断は、航空機の安全も確保されていない中を、しかも自国民もたくさん取り残されているにも関わらず日本人を救出するために派遣を命ずるということで、トルコ国内で責められるかもしれないという大変な政治的リスクを負ったものであったわけです。それを「親友森永の頼みなら」と引き受けて下さったのは大変なことです。
 前回のメッセージは日本人として、この時トルコから頂いた恩義は永久に忘れてはいけないということでしたが、今回のテーマは、一人の日本人がこのように一国の総理大臣を動かせるだけの力をつけていたという事実そのものについてです。森永さんは伊藤忠という大商社の代表で、当時はトルコも国力は今ほどではなく、ボスフォラス大橋の建設など日本の企業の力を借りて国つくりに邁進している時であったことは計算に入れなければなりませんが、それでも日本から来た、現地の日本企業の代表の森永さんが現在の大統領に当たる一国の首相の信頼をかくも勝ち得ていたというのは並大抵のことではないと思います。森永さん自身が書かれた上記資料によっても、オザル首相がまだそこまで力を持っていなかった時から、森永さんはオザルさんが抱えていたプロジェクトを大変なリスクを背負って実現し、その後ずっと家族ぐるみでオザルさんと親しく付き合ってきたことがよくわかります。首相になって忙しいオザルさんと話ができるのは、オザルさんが家に帰ってパジャマに着かえた時しかないので、夜遅く、または朝早くご自宅を訪問するのだそうですが、これまた仲良しのオザル夫人からはパジャマ友達ねと揶揄われていたそうです。人と人との関係はその時だけのお付き合いで深まる訳がありません。ましてや経済的利害だけで深まる訳がありません。森永さんもきっと真心を込めてオザルさんと向き合い、それもずっとずっと長い間向き合ったからこそあのような信頼関係を勝ち得たのではないかと思います。そして、そのおかげで、何百人という我が同胞が救われたのであります。和歌山県には、自ら交響曲を作詞作曲し、オーケストラを雇い、自らタクトを振ってエルトゥールル号事件やテヘラン空港事件をテーマにした交響曲をカーネギーホールなどを借り切って世界中を演奏して回っていた人がいます。向山精二さんというのですが、その向山さんが何回目かに和歌山で開いたこのような音楽会で、ご招待された森永さんに私はお会いしたことがあります。小柄な、優しそうな、しかも静かな闘志を秘めた方だったような記憶があります。しかも、その時、向山さんはあの時テヘランに飛んで行って下さったトルコ航空のスヨルジュ機長とCAの方も御招待しておられました。まだ、ご存命中であったお二人にお目に書かれたことは私にとって大きな幸せです。向山さんもお二人の後を追うように亡くなられましたが、わが日本の繁栄と安全はこのような立派な方々の献身と努力によって保たれていることを改めて思います。

 今までトルコと森永堯さんの話をしてきました。しかし、私のごく限られた人生経験の中でも、世界中の国に出かけ、懸命に努力をし、現地の人達と仲良くし、そして国を動かすような力を持つに至った多くの人に私は出会うことが出来ました。以下その話をします。

 森永さんのような人の2番目は、私がイタリアにいた当時新日鉄のローマ所長であった中村隼夫さんです。新日鉄は世界企業ですから、主要国には駐在員を置いていましたし、特に当時新日鉄はイタリア最大の鉄鋼メーカーイルバ(ILVA)の主要工場であったターラント製鉄所のリノベーションを支援していました。そのため、日本からもたくさんの技術陣がターラントに来ていましたが、彼らが働きやすいように面倒を見、現地イタリア側と交渉をして、様々な難問を解決していくのが中村所長とその部下である岡本久人さん(その後九州国際大学教授・次世代システム研究所長)の仕事でした。中村さんは、有名なロシア文学者の家庭に生まれ、アメリカでコンピュータの勉強をした後、得意の語学力を生かして、現地採用職員として新日鉄のローマ駐在となるのですが、とにかくやることがスケールが大きく、イタリアの政財界の有力者の心をつかんでしまいます。ターラントの技術協力の件も中村さんが本社の重役と直談判をした結果決定されたと岡本さんからお聞きしました。中村さんは親分肌の人ですから、派遣されてきた新日鉄の社員の面倒をよく見るのは当然として、ローマでうまくいっていない日本人や、困っているイタリア人の有力者を次々と助け、次第に影響力が大きくなっていきます。ご本人曰く、「今では考えられないですが、当時は日本人も食うに困っている人もいるわけですよ。その人に銀シャリを腹いっぱい食わせてやるぞ。といっていろいろなところに世話をしましたよ。」と言っておられましたが、この「銀シャリを腹いっぱい」という言葉が印象的で今でも記憶に残っています。ただ、私がミラノにいたころには新日鉄の技術協力もほとんどが終了しており、中村さんもこれからどうやって暮らしていくかなどと言い始めた時代でした。私は、こういう草の根の企業戦士こそ、日本の経済発展を支えた人だと思っていましたから、世界中で、日本の経済発展と、国際交流に尽力して功績のある人に差し上げているJETRO理事長表彰を貰っていただこうと画策し、JETRO本部の反対に猛烈に抵抗して実現しました。1991年の頃です。その後私は帰国し、通産省の貿易局輸入課長などをしていましたが、あっと驚くニュースに接しました。
 あの中村さんが、イルバの社長にスカウトされたというのです。いくら母体が世界一の新日鉄とはいえ、現地駐在員事務所の所長がイタリア一の大鉄鋼メーカーの社長に抜擢されるとは! ご本人にお聞きしたら、当時イルバの再建をしていた国営産業復興公社IRIのテデスキ総裁に頼まれたとか。新日鉄の経営にもタッチしたこともない中村さんをいきなりイタリア一の鉄鋼会社の社長に据えるなんて、さすがに私でもちょっと無茶なのではないかと思いましたが、それだけ、中村さんの名声と影響力のイタリア政財界への浸透が進んでいたということでしょう。徒手空拳でイタリアに渡り、本社から大きな権限を与えられた結果、それをこなすことで認められたというわけでもない中村さんが、ここまでイタリアの世界に浸透できたということは、私は素晴らしいことだと思います。理事長表彰に格が低いと反対したJETRO本部の役員に、ほれ見ろと言いたいぐらいでしたが、それ以上に私自身がびっくりしました。
 中村さんの努力にもかかわらず、イルバは急速な再建というわけにはいきませんでしたが、森永さんとオザル大統領の関係をお聞きして、中村さんのことも思い出しました。

②(全2回)へつづく