モームリ事件と名を名乗れ

 このところ「モームリ」と言う会社に司直の手入れが入ったというニュースがマスコミを駆け巡りました。聞いたことがない会社でしたが、扱いは大変大きいので、ニュースを精読、精聴いたしました。会社の名前の意味も想像がつきました。なんでも、勤め先を退職をしたい人が自分では言いにくいので、この会社に退職届の代行や、退職金の支払いや、未払い給料の支払い交渉などを頼んでいるそうで、これによってこの会社は結構大きな売り上げを上げているそうです。このような業務の一部が弁護士でないとできない仕事に当たるので、弁護士法に触れるという疑義があるのだそうです。また、色々もめて本物の弁護士をお願いするときは、知り合いの弁護士事務所にあっせんをするのだが、その際弁護士事務所は紹介料をこの会社に支払うそうですが、それがまた弁護士法に触れるということで弁護士事務所にも司直の手が入っていると報じられています。へーそういう法律に触れる行為をしていたのかと思う反面、資格がなくても簡単にできる話が弁護士にしか許されないというのは規制が少し厳しすぎるような気がするなと言う思いもありますが、法律問題は事情も詳しく知らない素人が口を出す話ではないと思いますので、司法の公正な裁きを待つのみであります。

 ただ、私が思いますのは、自分の退職の意思を自分で伝えなくて、人に伝えてもらうということがいいのかと言うことであります。仕事は生活の基礎ですから、どこで働くか、辞めるかは結構大事な問題なのではないかと思います。職場には様々な人間関係があるわけですが、この場合退職希望ですから、人間関係が良好でないことも考えられますが、中にはそうでないケースもあるでしょうし、特に目をかけてくれた先輩や同僚もいると思います。そういう人に堂々と「私はやめます。これこれの理由です。」と言えないものでしょうか。もちろんそれによって気まずい思いをすることもあるでしょうが、それは人に言ってもらっても同じだと思います。中にはしつこく慰留されたり、意地悪をされたり、もっと言うと危害を加えられたりすることもあるかもしれませんが、そうなったらその時こそ、法律家に相談するなり、警察に駆け込んだりをすればよいのであって、まだ何も起こらない時に堂々と自分で言うことを回避する理由にはなりません。何らかの理由で辞めることになっても、その際の出処進退が立派であれば、これからの長い人生、その時に何らかの関係があった人に良い扱いを受けることもあるでしょう。その逆は、その人にとって将来良からぬ影響を及ぼさないとも限りません。

 どうも、最近の社会は面と向かって堂々と自分の立場を述べるということを避ける傾向があり、こういう傾向が「モームリ」事件の背景にあるような気がします。
 一つの現象が、スマホやPCのメールに頼ることです。退職のような大事なことはやはり面と向かって責任ある上司に申し上げるのがよろしいと思いますが、それほど重要でない案件でも、直接面と向かって話をすることが大事だと思うのですが、それをわざと避けているのではないかと思うことがいっぱいあります。会うのがスケジュールの点でむつかしいときはせめて、電話で生の音声により思いを伝えればよいと思いますが、それもしないで、メールで言いたいことを伝達しているというケースを昔からたくさん見てきました。今から30年も前に通産省の管理職をしていた時に、ちょうど、庁内のLANが行き届いた時でしたが、隣り合わせに座っている私の部下の職員同士が仕事の打ち合わせをメールでチャットしているのを見て呆れた記憶があります。ちゃんと目を見て話せば理解も早いのになあと思いました。その背景には恥ずかしがり、気弱な性格と言ったものがあると思いますが、PC画面ばかり眺めていないで、勇気をもって目を見て対話する訓練をしていけば、その人の成長にもなるのになあと思いました。
 もっとも、かく言う私も最近はスマホのSMSを多用しています。相手が忙しいときでも要件を入れておけばそのうち見てくれて反応してくれると考えるからです。スマホの音声入力が導入されたのもキーボードによる入力がとても遅くて嫌いな私にはありがたいことです。時間が許せば、電話をしたほうがより理解が深まり、対面のほうがもっと深まることは確かです。それでも白状すると、言いにくいことはメールに入れておけば、直接肉声で伝えるよりは楽だという気持ちが心のどこかにあることは私に関しても事実です。ただし、ここまでは「名を名乗って」います。

 もう一つは、ネットのSNSなどの「つぶやき」であります。何かの出来事や誰かの意見に、ハンドルネームを使って、短いメッセージをさしはさむことがとても流行っていますが、私は嫌いです。何かの出来事や誰かの意見も何らかの背景があって発しているのだから、それに対するコメントも、軽々しい一口コメントでなく、堂々と理由を添えて意見を述べるほうが良いと私は思います。そのほうが意見を言う人も良く考えることになるので、その人にとっても社会にとっても生産的です。社会のほうからは、「君の意見など聞きたいわけではない。でも、なんでそういう意見になるのか理由が知りたい。」という訳です。しかし、たくさん寄せられる一口コメントの意見、感想、悪口からはそのような理のある所をくみ取れるものはほとんどありません。
 しかも大体の時はその一口コメントは匿名です。匿名ですから、無責任なことも言えます。名を名乗るなら、色々覚悟を決めて発言をするから無責任なことはなかなか言えません。また、匿名発信者の塊ですから、そういう意見が多数だという情報操作もできます。ネットで「炎上」が起こり、誰かの人格が著しく傷つけられるようなことが起こるのもこの匿名性によると私は思います。「卑怯者、名を名乗れ」と言いたいのでが、卑怯者は断じて名を名乗りません。同じような昔言葉に「飛び道具とは卑怯なり」と言うのがありますが、まさにネットによる多数の攻撃はITという「飛び道具」を使ったものであります。
 私はこういうことに時間を費やすことは、投稿者にとっても時間の無駄と思うし、投稿者も、社会も賢くならないし、匿名の投稿を容認するということによって、誰かを、大体の時はいわれもなく、傷つけることになると思っていますので、せめて出来るだけ見ないようにしています。
 ところが腹立たしいことに、テレビなどが報道画面の帯の部分でこのような匿名一口書き込みを紹介しているではありませんか。書き込みは書き込んだ人の意見であり、見解ですから、真実かどうかも分からないし、キャリーをテレビ局がするに際しても、取り上げ方が公平である保証はありません。日頃、報道の真実を重視するような発言をし、公平な報道を標榜しているテレビ局が帯部分にしろ、こんなものを大したチェックもしないで流すということは、自らのジャーナリストのとしての誇りを傷つけることなのではないでしょうか。おそらく、自らの番組にこのように多数の人が書き込みを寄せてくれているのだということを誇りたくて、あるいはそういった満足感からこのようなことをしているのでしょうが、番組やそのなかの報道ぶりに共感を持っているからこそチャンネルを合わせて視聴してくれているもっと多くの視聴者のことはどう考えてくれているのでしょう。私は、立場上、多くの記者諸君が熱心に取材をしている姿に接していましたから、そういう努力もしないで、分かったような書き込みをする人のコメントを、記者の汗と思考の結晶である紙面や画面に、たとえ一部にしろ載せられたら、大いに腹が立つのではないかといつも思っているのですが、報道側の人からそういったことを聞いたことはありません。

 情報化社会はありとあらゆる情報が量的制約をあまり意識することなく全世界に駆け巡る社会であると思います。取材に取材を重ねて作り上げた作品も、軽い気持ちでつぶやいた意見や感想も同じように駆け巡ります。嘘や悪意やたくらみやでたらめも飛び交います。私たちは、せめて、そういう情報に惑わされないような「ほんまかいな」のセンスをもって、情報を吟味しなければならないと思います。しかし、少なくとも自分が世に何かを発信するときは、「名を名乗って」それを行いたいものだと思います。こういうことを言っていると、どうも自分がアナクロニズムの残党のような気がしてきましたが、それでもやはり声を大にして言いたいと思います。「名を名乗れ」と。