「ポーンだ」と「諸君の助けは借りないよ」~二人の黒田さんの言葉~①(全2回)

 この2つの言葉は、いずれも私が通産省時代にお仕えし、今でも大変尊敬しているお二人の先輩の言葉です。
 今年の4月、通産省の大先輩で元通商産業審議官の黒田眞さんがお亡くなりになりました。私が通商政策局に勤務していた時、上司としてお仕えし、いろいろとご指導いただき、かつまた面白おかしく揶揄っていただいて、ずっと大変尊敬している大先輩です。揶揄っていただいてと言いましたが、黒田さんは多方面の教養が素晴らしく、ユーモアにも富んでいて、私など若手はお部屋に伺っては、楽しくご高説を聞き、揶揄われていたのです。黒田さんは、私がこれから申し上げる1982年の初め頃は通商政策局次長でいらっしゃったのですが、その後、通商政策局長、通商産業審議官を歴任され、日米貿易摩擦の第一線でアメリカを向こうに回して大活躍をされた方です。頭の回転が速く、論理的で、かつ外国が相手と言えども決してひるむことなく正論を吐いて堂々と渡り合うので、いつしかアメリカでは、「タフネゴシエーター」と呼ばれるようになった、まさにその名にふさわしいような活躍をされました。私がお仕えしていた、黒田通商政策局次長の時代も、貿易摩擦が燃え盛っていた時代です。当時、日本経済は大変強力で、輸出はどんどん伸びる一方、アメリカからの輸入はあまり伸びませんでした。というよりも、アメリカ経済がちょうど曲がり角にあって、呻吟をしていた時代だったのです。
 この時代、アメリカは、日本に対していわゆる市場開放要求を突きつけて来るのですが、その中には国際経済秩序、資本主義経済の原則に照らしても無茶苦茶な要求もありましたし、また事実に反するようなことを問題にして過剰な要求を出してくる場合も多くありました。そういう時には、黒田さんは明晰な論理と飾らない言葉で堂々とアメリカに反論をし、その主張が極めて論理的でまっとうであったので、アメリカ政府も手ごわい奴だと考えて、前に述べたタフネゴシエーターの名称を献上したのです。ただ一方では、そのような黒田さんの評価は、類まれな教養と明るい人柄もあって、アメリカの知識人や有力者の間では極めて高く、彼らと深く親交を取り結んでいました。
 ただ、日本経済は当時は大変強く、外国の不満が爆発し過ぎると、日本経済が拠り所にしてきた国際貿易秩序が崩壊してしまうのではないかというような懸念もありました。そこで、間違った要求まで聞き入れることはできないけれど、アメリカの要求も勘案して、日本の市場にアメリカの企業が参入し易いように、改革を進めて行こうというのが当時の日本政府の考え方だったのです。これを対外経済対策と言います。そこで通産省では、省内で対外経済対策の準備に早速取りかかることになりました。その中心は私が総務課の課長補佐として所属していた通商政策局で、省内の多くの部局とも相談しながら、どのような対策がありうるかの検討に入ったのです。我々の当時の言葉では、このような作業を対策のための「玉出し」と呼んでいました。アメリカの要求は多岐にわたったけれども、大きく分けて関税を下げよという要求と、関税以外の貿易障壁、すなわち非関税障壁を無くせという要求がありました。日本は、関税に関しては、ガットで決められた約束をきちんと守っており、一部のものについては、その譲許税率よりも低い関税率を自発的に適用していました。したがって、当時から日本の関税率は大変低かったのですが、もっと下げられるものはないかということを検討してみようということになったのです。もちろん関税の引き下げに関しては、ガットの譲許以上に一方的に引き下げるわけなので、その品目を製造している国内産業界の反対は強いものがあります。このような産業界との調整を通商政策局通商関税課が業所管の省内各課を通じて行い、出せる「玉」をひねり出してくれたのです。一方、アメリカが指摘する非関税障壁の方は、極めて多岐に亘っていて、中には誤解に基づくものや理不尽な要求もありましたが、我々は、その内容をよく検討し、アメリカの要求に応えるだけではなく、日本経済の発展のために、この際非関税障壁と言われているものを出来る限りなくしてしまおうというような考え方で対処していました。
 そうして「玉」がそろってきたので、私と、関税の引き下げの取りまとめを担当してくれた通商関税課の課長補佐の上田向祥君(余談ですが、上田君は私より入省年次は一年下であるが、和歌山の桐蔭高校の同学年卒業者です。)と二人で、これからアメリカと貿易摩擦軽減の交渉を行う責任者の黒田次長にご説明に伺いました。その時、黒田次長がアメリカと交渉をするとき、どこまでカードを切れるかのポジションを頭に入れていただくために、関税引き下げ可能品目と引き下げ率をまとめた分厚い表を差し上げました。日本としては、各国首脳が集まる夏のサミットまでの間に、アメリカと合意してしまおうという作戦であり、そのための言わば根回し役がタフネゴシエーターの黒田次長の役割だったのです。我々はこの表をもとに黒田次長に詳細な説明を行ったのですが、同時に、「これは業界との関係で言うと必ずしも合意しているものばかりではないので、この資料の取り扱いは重々注意してもらいたい。資料は決して先方に渡さないでもらいたい。」というお願いをしました。今から考えると、先行きのリスクを考えすぎて慎重になりすぎる、役人臭い対応とも言えるかもしれません。黒田次長は、ふむふむと聞いておられただけでした。その上で訪米し、USTRとの交渉に臨まれたのですが、この黒田次長の交渉が功を奏したのか、おそらくその他の方々の様々な努力もあって、この年の初夏ごろから、日米貿易摩擦は沈静化の方向に動いて行きました。それで我々は、よかった、よかったと思っていたのですが、大変な事態が発生してしまいました。

 その先触れは、OECD閣僚会議の時に起こりました。参加していた日本代表団の主要メンバー全員のホテルの部屋に、USTRのブロック代表の名前の入った分厚い文書が届けられたのです。その文書には、「今までの我々の交渉により、日本側は次のような約束を我々にしたが、これを必ず履行してもらわないと困る」という趣旨の主文があって、そのあとに、貿易摩擦の項目ごとに、日本側が約束したという内容の紙がたくさんついていました。この文書はいつしか「ブロック書簡」と呼ばれることになります。(もちろんこの書簡の存在は政府部内の一部にしか知られることはなく、世間には公表されていません。)私がびっくりしたのは、そのうち、工業製品の関税引き下げのリストが、なんと我々が黒田次長に次長限りと言って差し上げた表であったことでした。フォントも我々の作った表のままだったので、私と上田補佐はこれを見て大いに怒り、早速黒田次長の部屋に抗議に出かけました。そして、「あの表は、次長限りと言ってお渡ししたではないですか。先方にお渡しするのは控えて下さいとあれだけお願いをしたはずなのに、このブロック書簡に付けられているということは、次長はあの表をお渡しになってしまったのですね?」と詰問したのです。黒田次長の答えは、「おお、渡したよ。当然じゃないか。そんなものはポーンと渡すんだ。ポーンだ。渡さなければならない場合とタイミングがあるんだ。」というものでした。我々は大いに腑に落ちぬ思いを抱きましたが、黒田次長のおっしゃる通り、貿易摩擦軽減には大いに力になったことだし、その後の関係者の努力で、あの表に掲げたとおりの関税率引き下げが実現できる見通しになったので、この黒田次長の「ポーンだ」事件については、そのままになってしまいました。

 しかし、それからしばらくして、さらに大変な事態が起こってしまいました。日本農業新聞に、このブロック書簡がすっぱ抜かれ、我々が関与した工業製品に関する様々な約束ではなく、農産品のいくつかの品目について輸入制限の廃止や関税引き下げを行う約束を、いついつの会談の時に日本側がしたよねというくだりが暴露されていたのです。そして、これを勝手に約束したのは通産省で、日本の農民をアメリカに売ったのだという筋立てで、通産省を犯人扱いして、糾弾、非難する内容でした。いわゆる「ブロック書簡事件」の始まりで、それから夏いっぱい、私はこの問題の後始末の主担当者として、忙殺されることになったのです。

②(全2回)へつづく