今年の年賀状を整理していましたら、清成忠男先生が昨年の7月にお亡くなりになりましたという寒中見舞いが、お嬢様から来ていることを発見しました。ずっと昔から御世話になっているので、毎年年賀状をお出ししているので、そのお返事と言うことであったと思います。ご逝去に気が付かず、年賀状をお出ししてしまった非礼を心からお詫びいたします。
清成先生には学生時代以来御世話になっていますので、私も知事を辞めてからいろいろ多忙に任せてご挨拶も出来ていませんでしたので、昨年の初め頃、ご挨拶とお礼に伺おうと大正大学にお聞きしましたら、もうお辞めになっていて、こちらからはご連絡が出来かねますとのお話でした。ご自宅かどこかにいらっしゃるのですかとお聞きしたら、控えめに、ご体調も悪いからどなたにもお会いできないと思いますと教えて下さいました。私も、心配はしながら、何もせずそのままになってしまっていたのですが、上記のお便りをお嬢様からいただいた次第です。ご逝去に気が付かず申し訳ありませんでした。心からご冥福をお祈りします。
清成先生に初めてお目にかかったのは、確か1972年か1973年に東京大学経済学部で行われた特殊講義の講師に来て下さった時です。当時経済学部では通常の講義に加えて、経済の第一線で活躍中の碩学をお呼びして、現実の経済事象を理論的に解説して貰うという試みを実施していました。私が受けた講義は、日銀の幹部にして学識において令名が高かった鈴木淑夫さんによる日本の金融政策、西友の常務で量販店を軸とする新しい流通論の旗頭であった佐藤肇さんの日本の流通、そして国民金融公庫調査部長から法政大学に移ったばかりの清成先生の現代中小企業論でした。いずれも現実の経済実態に即した素晴らしい授業で、長く記憶に残っています。これらテーマは本職の大学の先生にだけ任せておくと、論理的には整合性の取れたことをおっしゃるけれど、経済の実態からすると語られることはほんの一部しか経済実態に即していないと言うようなことが時としてあります。おそらく当時の経済学部の先生達自身がそれを自覚しておられて、こういう特殊講義を設けられたものと推測しますが、私は大変評価して、熱心に受講していました。中には、佐藤さんのように、「よかったらお茶でも飲みながらもっと話すかい」と言って喫茶店で色んなお話を聞かせて下さった方もいましたが、その中身はまた別の話で。
清成先生の中小企業論は、それまで世の中で誰でも口にしていた「日本の経済は大企業と中小企業の二重構造で、中小企業は搾取されている可哀想な存在」と言う概念に真っ向から挑戦した新しい中小企業論で、日本の経済構造の中の中小企業の占める割合や役割を考えると、そんな虐げられた存在などではなくて、むしろ日本経済を引っ張って行っている存在だと言うことを極めて実証的、理論的に語っておられました。その書「日本中小企業の構造変動」はまだ私の書庫に鎮座していますが、子供の頃から当時の日本の経済と中小企業の生き方を少しは肌で感じていた私には、先生の教えは体にしみいるように理解できました。清成先生のこの中小企業論はその後、やはり先生が提唱されたベンチャービジネスという概念とともに、その後の中小企業論のバックボーンになっていきます。(余談ですが、時々どこかの大学で私の前職から地方行財政について講義を頼まれることがありますが、その時はいつもこの特殊講義を思い出してあい務めています。世の中に流布している教条主義的俗説に流されることなく、実態に即して、そして大学なのだから理論的に。)
私は1974年に通商産業省に入れていただき、最初の配属先が中小企業が圧倒的に多い生活産業局でした。と、そこでまた清成先生に再会します。当時通産省は日本経済が曲がり角にあることを自覚し、有名な並木信義産業構造課長の強烈なかけ声の下、産業構造ビジョンに全省をあげて取り組んでいました。知識集約的産業構造を目指そうという全体のビジョンと各業種別ビジョンが揃いつつあったのですが、並木課長の構想の中でもっとも遅れていた最後のピースが雑貨産業または生活用品産業のビジョンで、私は2年生の時この仕上げに従事しました。その時ビジョンを作るためお願いして集まって貰った専門家の中に清成先生がいらっしゃったのです。先生方と一緒に議論をさせていただき、生活用品を構成する8つの業種ごとの委員会での議論を報告書の原案として毎日夜中に書いて、それをまた本委員会にかけて、とうとう出来たのが生活用品ビジョン(本ビジョンと8つの業種別報告書)であります。清成先生は豊富な知識をお示しになって、この作業をご指導下さいました。このビジョンもそうですが、この頃には世の中小企業を見る目も大いに変わり、清成先生が唱えられたとおり、どんどん新しく構造変動を繰り返しながら日本経済を支えている重要な存在という理解が世に定着していったと思います。
清成先生と次に本格的にお付き合いを出来たのは、私がジェトロの駐在員としてミラノで勤務していたときでした。清成先生が同じ法政大学の岡本義行先生とお二人で、イタリアの中小企業の調査にいらっしゃった1990年前後です。先生は、中小企業の活躍する社会のモデルとして、南ドイツのバーデン・ビュルテンベルグ州と北イタリアに注目されていて、何度も足を運ばれましたが、私がジェトロミラノにいると聞いていつも訪ねてきて下さいました。先生は調査のターゲットなどはあらかじめ調べておいでですから、私がご案内すると言うことはなかったのですが、その都度お食事をともにさせていただいたりして、大いに教えられるところがありました。そこで、いろいろなこともお聞きし、先生は学生時代は大塚久雄先生の弟子でいらしたこともお伺いし、当時のゼミの様子など色々お聞きしました。大塚久雄先生は、私の入学と入れ違いで退官され、直接講義をお受けすることはなかったのですが、私が高校生から大学の時代に目標として憧れていた方ですし、私のゼミの指導教官は中川敬一郎先生で、その学問の出発点は大塚史学でした。イタリアには、大塚先生のお弟子さんで超優秀な方と皆思っていたのに先生の逆鱗に触れ日本から出奔してイタリアの大学で随分苦労した末とうとう教授になった方がいるなどという興味深いお話もその時お聞きしました。その方に一度お目にかかりたいと思っていましたが、ようやく教授になったと思うまもなくお亡くなりになってしまわれたのでかないませんでしたが。
先生との交流はこれを機に盛んになり、私が日本に帰って、いろいろな仕事に就いた際にも度々有益なアドバイスを下さいました。先生は、このイタリア、南ドイツの中小企業の研究をおそらく糧にしてますます活躍をされ、1996年には、法政大学の総長におなりになりました。先生が総長を勤められた10年間は、法政大学が大躍進をする時代だと思います。キャンパスも充実し、時代の先端を行く国際文化学部、人間環境学部、情報科学部などを次々と作られて、法政大学をそれまでの、失礼ながら、どちらかというと暗い印象の大学から、華やかな私学の雄に変身させられました。学長一人でこうも変わるのだなと大変感銘を抱いた覚えがあります。
そう思っている間に、私自身が経済産業省からブルネイの大使に行ったり、和歌山県知事になったりと色々と身辺の変化がありましたが、一貫して、清成先生からはその場その場で大変役に立つご指導を得ていました。知事になって、和歌山も中小企業の県ですから、是非先生に中小企業者の方々を元気づけていただきたいと、ある時多くの方々を集めて、先生に来ていただいて、これからの中小企業のあり方について講演をして頂いたこともあります。
先生は新しく出来た事業構想大学院大学の総長を引き受けられていたことがあって、和歌山県の次代を担う俊英を県政を構想できる人材に育てるためこの大学に派遣してはどうかと言うお誘いをいただいたので、その任に堪えそうな若手職員を派遣した覚えもあります。また、折に触れ、この事業構想大学院大学やその後先生が行かれた大正大学にお呼び頂いて、折々のトピックスに関する講義を頼まれたり、機関誌での対談に出させて頂いたこともあります。
このように清成忠男先生は、私にとっても和歌山県にとっても恩人のような方ですから、本来は私が知事の職を辞したあと、真っ先にお礼を申し上げに行くべきところでしたが、上記のようにぐずぐずしていた結果、お身体がどんどん悪くなられて、とうとうお礼を申し上げる機会を逸してしまいました。申し訳ありません。清成先生は、私にだけではなくて多くの人のために、世のために尽くされましたから、日本政府もさすがにその功に報い、2010年、清成先生に瑞宝大綬章を授与されています。
清成忠男先生、ありがとうございました。安らかにお眠り下さい。