稲葉NHK会長と同盟通信

 このところ、家にある昆虫の標本がカツオブシムシやカビにやられないように標本箱に入れてあるパラジクロールベンゾールの入れ替えをしています。ついでにその時発見した、採集データの書いてあるラベルの不備を直したり、翅や触角が破損しているのを修理したりしています。そのうち、1970年8月に採集したはずのある蝶の標本にラベルが付いていないのを発見したので、確認のため50年も前の採集記をひもといていたら、面白いものを見つけました。1973年8月13日から14日にかけて、私はある高山蝶を採集しに山梨県の甘利山から千頭星山に上っているのですが、その時同行してくれたのが東大駒場の同級生だった稲葉延雄君でした。今のNHKの会長です。こんなことがあったのかと、すっかり忘れていたのを段々思い出してきましたが、4年生の夏のことで、稲葉君は日銀に就職が決まっていましたし、私は通産省の入省試験を受けているところでしたが、事前面接などやるべきことはやってしまって合格発表の日を待つばかりという頃でした。久しぶりに蝶を採りに行こうと思った私に、どういう経緯かは忘れたのですが、昆虫採集とは無縁の稲葉君がどういうわけか一緒に連れて行ってくれと言いだしたと思います。あるいは彼のことですから一緒について行ってやると言ったかも知れません。採集記録は日記風になっていて、元々そう頑健でもない私以上に、日頃鍛えていない稲葉君はすぐ疲れて休もうとするので、韮崎の駅から甘利山直下の白鳳荘まで歩いて3時間半の所を5時間もかかったと書いてありました。次の日は朝早く小屋を出て甘利山頂上を経て千頭星山まで縦走するのですが、これが上がっては下がるなかなかタフな道で、稲葉君だけではなく自分もよたよたになったと書いてありました。ただ、当時は鹿の害もありませんから、道すがらに広がるお花畑が大変綺麗であったことを感動的につづっていました。

 そんなことを懐かしく思い出していたら、ある日の新聞に、稲葉会長の写真とともに、NHK会長がNHKのラジオ国際放送でのスタッフのとんでもない発言に関して、自由民主党の情報通信戦略調査会で陳謝をしたという記事が大々的に報じられていました。稲葉君は日銀の幹部として大いに活躍した令名の高い経済人でしたが、リコーの経済研究所長を経て、現政権にスカウトされ、2023年1月からNHKの会長として、頑張っています。私が和歌山県知事の時は、白浜のパンダの扱いが上野のパンダに比べてあまりにも低いと抗議に行ったり、大河ドラマや朝ドラのテーマとして和歌山由来の人や事物はどうですかなどとPRに行っていましたので、稲葉会長のところにもお願いに行く機会もあったろうと思いますが、今は和歌山県知事は引退の身ですから、それも変だし、用事もないのに超忙しい人を煩わせるのはどうかと思って会いに行くのは遠慮して、一視聴者として新会長の活躍をお祈りしていました。今度のことなど、会長の職責からすればいかんともしえないことで、お気の毒の一言ですが、組織の長としてはあらゆることに責任を有するので、色々翻弄されるのは致し方ありません。稲葉会長も明言している通り、原因究明を行い、関係する役職員の責任を問うとともに再発防止策の確定を急いでもらいたいと思います。日銀でもあれだけ有能で、人望もあった稲葉君ですから、きっとうまく処理してくれると思います。

 今回の事件は、NHKのラジオ国際放送の中国語ニュース番組で、靖国神社への中国人の仕業と思われる中国語の落書きに関するニュースを報じているときに、その時アナウンスしていた中国人スタッフが、まったく台本にない「尖閣諸島は中国領土だ」とか、「NHKの歴史修正主義に抗議する」とか、「南京大虐殺や慰安婦を忘れるな」とか、「彼女たちは性奴隷だった」とか、「731部隊を忘れるな」とか勝手な発言を、中国語、英語でしたという驚くべき事件で、NHKのガバナンスはどうなっているのかと誰でもが問うような事件でした。聞けば、この発言者はNHKの「関係団体」と業務委託関係を結んでいる人のようで、ここから、NHKの下請けへの丸投げ体質が浮かんでくるような気がします。中国語のニュース番組と言うことですから、おそらくは、NHKには中国語でニュースを読めるスタッフがいないか、足りないかで外部スタッフに頼ったのではないかと思いますが、その際、丸投げで「関係団体」に委託し、「関係団体」は公共機関の公共事業であるという自覚もなしに、中国語が出来ると言うだけで件の中国人を雇ってしまい、日頃の行動や政治的背景など何ら必要なチェックもしていなかったのではないかと推測出来ます。また、番組もいちいちチェックすることなく、任せっきりであったのではないかと思います。その言うことからすると、ずっと前から何を世界に向けて発信していたのか、空恐ろしい感があります。
 私もずっと通訳に御世話になって来ましたが、長年の経験で通訳の技量ほど千差万別なものはないと言うことは嫌と言うほど経験しました。したがって、自分が機嫌良くしゃべっている内容が正しく先方に伝わっているか、また先方の意図が本当に通訳が発した日本語通りであるかいつも細心の注意をもって対処してきました。英語なら大体分かりますから、それはちょっと違うので別の言葉でもう一回言いますとかやっては、通訳さんに嫌がられていたのではないかと思います。しかし、英語以外の言葉の時はもうお手上げです。和歌山県知事の時は通訳は訪問者の外国の方が連れてこられるのが多いのですが、ミスコミニケーションが起きては嫌なので、中国語なら、工夫して養成した中国語の出来る若手県庁職員を近くに置いておいて通訳さんの通訳を正しいかどうかチェックしていてもらっていました。NHKは国際部があるように和歌山県よりは遙かに国際化の進んだ組織でしょうから、仮に外部の人を雇わなければならない時でも、このようなチェックは当然出来るはずでしょう。しかし、今回のケースはおそらく全くなされていなかったとしか思えません。他のケースでも、番組制作にしろ、イベント企画にしろ、NHKは下請けの活躍するところがとても多く、その人達は私が経験する限りとても優秀で情熱を持った人ばかりでしたが、それならいったい本職のNHK職員はどこにいるのだと言う思いも多々ありました。少し話が違うかも知れませんが、和歌山県では、調査や企画などのコアの仕事では外部のコンサルなどに丸投げすることは禁止でしたし、公共調達のルールでも受注した企業が口銭だけ抜いて他社に丸投げすることは禁止をしていました。ニュースを読むという仕事は明らかに放送局のコアな仕事ですから、仮に外国語でそれを行わなければならない場合にも安易に「関係機関」に丸投げすることはとんでもないことだと思います。必要な外国語人材は責任を追及できるような、言い換えるとガバナンスの範囲内にきちんと確保して、石にかじりついてもその人材を育てていかなければならないと私は思います。誰に責任があってこのような不埒な行為が見逃されてしまったのか、気の毒ではありますが、稲葉君がきちんと質さなければならないことだと思います。

 ただし、こういうことが起こったので、中国語のニュースなど止めてしまえ、そもそも英語放送だって要るのか、NHKの国際放送は実力相応に海外にいる邦人に日本のニュースや大河ドラマでも届けてあげたら良いのだという人がいたら、私は大反対です。これからの日本の生きる道を考えた時、日本から正しい情報を世界に向けて発信することは絶対に必要です。外交でも通商交渉でも、民主主義国を前提にして考えると、交渉当事者の行動は相手国の世論に影響されます。その世論は正しい情報をいかに大量に効果的に相手国の国民に届けるかによって変わります。じっくりと話し合いをした交渉当事者も、日本の主張に、法的、論理的正当性があると分かっても、その後ろにいる政治勢力や広範な国民が誤った情報を信じ込んでいたら、日本の主張に加担する勇気は持てないでしょう。民主的プロセスのない国に対しても、今時相手国の多くの国民がネット情報などで真実を知る機会があることを考えると、日本についての真実の情報を発信することが大切だと多くの人が分かると思います。
 しかし、現状を見ると、日本のメディアの対外情報発信力は世界的に見ても最低です。米国にはAPとUPI、英国にロイター、フランスはAFP、中国は新華社、ロシアですらタス通信があります。それらは自国関係ニュースのみならず世界のニュースを彼らの目を通して外に発信しています。日本だけがもっぱら内向きです。日本のテレビや新聞を見ていると、外国特派員という人が出てきて、その国の現下の一大事を語ってくれます。しかし、彼らの対象はあくまでも日本の視聴者や読者で、日本の情報の対外発信ではありません。では、日本になぜこの機能がないのか、と調べてみると、戦前の日本にはちゃんとあったのです。それが同盟通信です。歴史は創業1936年と新しいのですが、日本の各地や外国の情報を収集して、日本の新聞に売る機能の他に、日本のニュースを外国に向けて外国語で発信すると言う機能を担っていました。上記のような現代の外国の有力通信社と同じラインアップを引いていたのです。一時は従業員5500人、中国語、英語、フランス語、スペイン語の対外放送も行っていました。当時の日本は外国と戦っていたわけですから、そのニュースは国策に沿ったものになり、外国から見ると日本の宣伝機関のように映ったでしょう。そして、敗戦とともに、同盟通信も終局を迎えます。GHQによる外国語放送の禁止命令が出て、さらに残った会社も共同通信と時事通信に分かれます。対外的に日本の主張をすることは占領政策と相容れないからでしょう。そして、この両者は日本の地方新聞にニュースを提供するだけの機関となったのでした。一方大新聞や大放送会社の海外にいるわずかばかりの特派員も日本の読者や視聴者のために情報収集をする役割に特化した存在ですから、皆が皆内向きの存在になりました。それでもそれほど多くの情報は取れないから、日本の大手メディアのアウトプットでも、外国の大通信会社から買ったものだと明記してある記事が目立ちます。ある意味では日本人は外国人が作った情報で世界を理解しているのです。それでは日本の情報はどうなっているかというと、わずかばかりのスタッフを日本に有する外国の大通信会社が流す、ひょっとしたら偏った情報が日本の真実として語られていることが多いのではないかと思います。今回の中国人スタッフのような心情を持った通信社スタッフが明らかに悪意をもって、あるいは誤解をして偏った情報を垂れ流したら、それが大通信社の冠を被って、世界中に流布する恐れも多分にあります。
 したがって、私はつとに同盟通信の復活、とりわけその対外情報発信機能の復活を語ってきました。歴代NHK会長、副会長にもそう語ったと思います。しかし、その点で社会的にそう影響力もなかった私の意見がどれほど効いたかは分かりません。
 しかし、ある時期から、NHKが日本に関する情報の発信機関として名乗りを上げ、事実次第にその機能を強めていったのです。私がイタリアに赴任している時、NHKの国際放送が受信できましたが、ニュースはNHKの朝と夕のニュースの再放送、大河ドラマや朝ドラ、そして将棋教室など、個人的には海外に来て何でこんなものを見なければいけないのか、それなら外国人向けに日本の情報を流してやったら、当時の日本経済の力から日本に関する関心がうんと高まっているのだから、世界中で多くの視聴者も獲得できるだろうし、日本についての正しい知識も伝えられるだろう、そうすれば最終的には日本の国益にかなうのになあと思ったものでした。
 その時から比べると、日本のNHKの海外放送は隔世の感があります。外国語放送もうんと増えて、日本の出来事を外国の人に伝えようという姿勢がありありです。その中で今回の事件が起こりました。折角日本の情報を世界に発信しようと考えられたメディアでこともあろうに日本が悪宣伝をされてしまいました。それも、報道機関としてもっとも嫌うべき誤った既成概念の塊の。だからといって、この国際放送の火を消すことはあってはなりません。科学的、客観的なニュースを流して真実を伝え、かつ正しい日本の理解を深められるような素晴らしい情報発信をしてもらいたいと思います。そのためには、「関係機関」への丸投げのような態度は心から反省をし、日本人として、不当な日本と日本人への攻撃は許さないぞと言う気概を持った人がこの機能を支えてもらいたいと思います。かつこれを可能にするように、志のある人を育て、その人達の語学の能力も高めて、組織としての外国語リテラシーの強化と涵養に努めてもらいたいと思います。
 稲葉NHK会長頑張れ。今回の国際放送のお粗末を奇貨として、歯を食いしばって現代の同盟通信を育てて欲しい。千頭星山への急登に耐えた50年前のひそみにならって。