8月15日から16日にかけて、台風7号が関東地方に接近して、大変な事態となりました。報道では関東地方を襲う台風の中では過去最大級の台風だと言われ、JR東海は16日に東海道新幹線の運転を全面的に中止にすることを早々と発表しましたし、テレビでは、台風の危険性と、備えをひっきりなしで呼びかけていました。結果的には、台風は八丈島を少し過ぎたところから、それまでの北への進路を北東に変えて本州から遠ざかったので、千葉県や茨城県の沿岸部は波浪が押し寄せていましたが、全体としては大型の台風の割には被害もさほどではなくて、よかったと思います。
和歌山県の知事時代は、私は県の災害対策の司令官ですから、台風というとはらはらどきどき、台風接近に伴っては、どこかで対応の漏れはないかと心配を重ね、風雨が強くなってからは、コンピュータにかじりついて、和歌山県庁自慢の県庁ホームページでの各地の降雨量と河川とダムの状況のリアルタイムデータと画像を見ながら、担当部局の幹部や市町村長さんと情報交換をしたり、対応を協議したりしていました。今回は、引退した身でしたので、我が身を守ればいいのですが、幸いこの時滞在していた東京杉並区の家はまずまず安全に出来ているので、病気の家内と家に籠城だと食料などを買い込んで身構えていました。天気予報では15日真夜中過ぎから影響が出そうだというので、時々起きては外の様子を窺ったり、スマホで台風状況を見たりしていましたが、風も雨もうんともすんとも言いません。これは16日日中に影響が延びたのかなと思って、時々テレビで状況確認をしていましたが、どうも16日の午後関東地方最接近だとか。ところが午後が過ぎ、夜になっても静かなまま、その何日か前の激しい夕立の方がもっとすごいという程度でした。結局台風はさほどの被害を残さず、北太平洋の彼方に行ってしまいました。まずはよかったと思います。
ただ、その上で、すごい台風が来るぞと言っていたあの騒ぎは何だったのか、台風への備えとして取られた措置はそれでよかったのか、思うところを述べてみたいと思います。
まず、最近の台風の進路などは、よく当たるというか、テレビの天気予報の述べるところは大体当たっているような気がします。今回も大体予報通りに台風が通り過ぎたように思います。ただ、ちょっと違和感があったのは、台風が来るぞ、大きいぞと言い出した時の中心の気圧は990hpくらいで、最終的には950hpにはなったようですが、和歌山県のような台風がよく来る県の感覚からすると、これで過去最大級というのかなと言う違和感が初めからありました。それに、仮に気象庁の予想が正確であったとしても、台風は東日本の太平洋岸を通るのだから台風の西側は特に雨が大したことはないことが多いのにと思いました。(もっとも、台風のうんと西側で線上降水帯が発生して大変な被害が出ることもあります。この点はテレビでも盛んに警告されていました。)それから、これは16日の日中になってからですが、台風は八丈島を過ぎたあたりから東寄りに進路を変えているのに、気象庁が最初に関東地方近くまでまっすぐ北上するという予報をしてしまったからでしょうか、なかなか台風が本州沿岸から離れつつあることを認めようとしていないかのような報道を繰り返していたのが気になりました。テレビの画面に台風の進路図が出ると、台風は既に八丈島の北東部近くで東寄りに進路を変えているのに、今後の予想として出される図では再び真北に進路を取るという予想をずっと流していました。実際には台風はそのまま本州沿岸を離れていったのです。本州最接近予想が外れたのを認めたくない心理のなせる技かと私が思ったのはげすの勘ぐりでしょうか。
さらに、JR東海は16日の東海道新幹線の東京-名古屋間の全面運休を早々と決めました。最近にない果敢な決定だと思いましたが、それは本当によかったのでしょうか。運休の決定が遅れ、大惨事にでもなれば取り返しが付かないことですから、結果論で批判をするのはそれこそ世間の批判を頂きそうですが、この決定を聞いた当初から疑問を感じたので率直に申し上げます。まず疑問の第一は、気象庁の台風予測が正確であったとしても、台風の直撃を受けるのは東京から以東の地域で、東海道新幹線は東京から西に走っているのだから、どうして今回に限ってこんなに厳しく運休措置をとるのかという感想を持ちました。しかも、台風が関東を直撃したとしても最接近は16日の午後なのだから、お昼ぐらいまでは動かしてもよかったのではないかと言う気もしました。そうすれば、お盆の行楽客のかなりの人は、少し無理をすれば帰途につく等目的地に移動できたのではないかと思いました。新幹線に関しては、むしろリスクがあるのは、東京から、東北に延びている東北新幹線なのではないかと思ったのですが、こちらは全面運休などしませんでした。折から、お盆休みの真最中で、一年で1、2を争う混雑の日ですから、それで影響を受けた人のご苦労はいかばかりかと推察します。直接、列車に乗れなかったりした人のご苦労ばかりではなくて、この運休によって、稼ぎ時の収入が減ってしまった多くの経済主体への影響も無視するわけにはいきません。鉄道事業者はもちろん安全が第一ですが、定時に列車を動かして、人々の暮らしを支える義務があるので、運休をすれば安全は守れるけれど、人々の暮らしはどうしてくれるのだという問いにも答えなければなりません。したがって、列車を運休しようかどうしようかということは本当に難しい判断です。考えられる全ての情報を集め、悩み抜いて決断するしかありません。しかし、安全に対する人々の要求は大変高く、ひとたびそれが脅かされると、人々の事業者への怒りはマスコミの報道で加速されてすさまじく、事業者の打撃は計り知れませんから、事業者は安全サイドにリスクヘッジをしたくなるのは人情というものです。特に経営状況の良いJR東海は、もうけなどは考えなくてもいいから、「安全第一」というそれこそ「安全地帯」に逃げ込んで恥じないのではないかと考えるのは少しうがち過ぎかも知れません。そうとしても、あくまでも一般論ですが、鉄道事業者のような公益事業者にしろ、行政庁にしろ、自分の責任を回避することだけを考えて、意思決定をすることはいかがかと思います。
私も16年間も災害対策の県の司令官をやってきました。その間、2011年には和歌山県にとっても60年に一度という紀伊半島大水害という修羅場も経験しました。それほどまでは行かなかったけれど、あの関空の連絡橋にタンカーが衝突して破損した2018年の台風20号の時など、県下の送電線網がずたずたになって、復旧に当たる電力事業者に県庁土木部隊を協力させて早期復旧に努めるなど、毎年毎年苦労がありました。別の種類の災害ですが、最後の任期中はコロナとの戦いに明け暮れました。そういう時、大事なことは、災害が起こった時に死にものぐるいで人命救助と早期復旧に努めることと、被害が出ないように様々な災害の事前防止策をとっておくことです。ただし、後者の点については、被害が出ないように取り組む事前防止対策によって、人々の暮らしと地域経済への影響をどれほど犠牲にしてよいかという問題が生じます。私は一番大事なことは人の命だと思っています。人の命が失われる危険が大きい時にビジネスだ、経済的影響が大事だというのは邪道です。しかし、本当にそれをすれば命が守られ、しなければ命が脅かされるのかは常に問われなければなりません。例えばコロナについて言えば、その流行を抑え、人々を感染から守ろうとしたら、経済活動や社会生活を徹底的に制限すればよいのですが、それが本当に功を奏するかという点とともに、たとえそうであったとしても生活や経済が破壊されても良いのかという問題と、地域の防災対策のリーダーとして、私は常に格闘しなければなりませんでした。行政の責任者としては、コロナの流行や台風の接近のような、人々の関心が高い問題については、とにかく安全サイドに立って、出来るだけ強い制限的措置を執るというのが自らの保身を考えると「安全」です。果敢にそういう措置を執ってみせるトップには人々は拍手喝采で、その結果生活や経済がどういう悪影響を受けるかという次に起こることにはたいていの人は思い至りません。その結果どうしても、リーダーは過剰に制限的な措置を執りたがります。選挙で人気を博しなければならない政治家や、常に世論の指弾を受け易い大企業の経営者や官僚は特にそうです。でも仮にその措置が過剰であったり、不合理な人気取りであったりすれば、苦しむのは地域の住民であったり、サービスの顧客であったり、台風のようなケースでは国民そのものであるのです。政治家としての人気を取ることに少し冷めていた私は、災害対策の指揮を執った際常に、過剰に人々の行動を制限することを慎んできました。とりわけ、コロナとの戦いにおいては、当時の政府ないし政府の専門家が、行動制限による対策一辺倒の対策を進めようとしたのは、日本特有の保健所の存在など医療保健行政の機能を無視したものだと考えて、和歌山県に関する限り人々の行動の制約は最小限のものにするように舵を取ってきました。
同じようなことは、宮崎県の日向灘近辺で起こった地震に対する対応に関しても感じられました。一口に南海トラフ地震といいますが、その発生対応は東から順に、東海地震、東南海地震、南海地震と分かれて起こるか、または連動して起こります。三つがいっぺんに起こる時が歴史上最大の地震で、我々はこれを三連動地震と言っていました。これに加えて、さらに連動する可能性がある地震が日向灘の地震で、そんな言葉は多分ないと思いますが、「四連動地震」も可能性としては想定できます。その日向灘で、かなりの地震が起こったものですから、プレートテクトニクスの理論からはいつかは起こるはずの南海トラフ地震が起こるのではないかという疑いを持つことは極めて正しいと思います。したがって、政府が広く国民に注意を呼びかけたことや専門家のチームに詳細な調査を依頼したことなどは正しい措置だと思います。また、地震の観測を今まで以上に精緻に行うとか、これまで積み重ねてきた地震津波対策をもう一度確認したり、要すれば強化したりするとかの対策は是非行うべき対策だと思います。しかしそれ以上に、海に近づくことを一切止めてしまうとか、全ての「不要不急」の旅行を中止せよとか言う措置は私にはいささか安全サイドに立ちすぎた対応だと思います。(観光目的の旅行は「不要不急」なのでしょうか。)こういうことは本当に判断が難しく、たいしたことはないと思って、対策を取らず、結果として多大の犠牲者を出してしまった時の悔いは甚大なものがあるでしょう。しかし、それを恐れるあまり、何でも取りあえず制限してしまえと言うのも合理性を欠いた行動です。少なくとも、そうしておくのが自らの責任回避に必要だというだけで、そのような措置を執ってはいないか、リーダーたる者は常に考えなければなりません。