私が知事を勤めていた和歌山県の近くの兵庫県で、斎藤知事がパワハラ、おねだり体質などの科で兵庫県会でも、マスコミからも大いに指弾を受けています。私は同じ関西の知事で、関西広域連合の会合などで月に1回はじっくりお話しをする仲でしたから、その時の感じでは明るく爽やかな感じの若者(失礼!私から見ると!)でしたから、とても報じられるような方には見えませんでした。しかし、パワハラといい、おねだりといい、知事の職にあると、いつも問題になったり、何か言われそうな気のする事柄でしたから、大いに気になって、ことの成り行きを眺めています。そんな中この間もテレビ局から、番組で紹介するから斎藤知事の行動についてコメントを頂きたいという要請がありましたが、事実もよく知らないのに人のことを論評するのは嫌だ、自分のことならいくらでもお話しするけれどとお断りしました。当事者でもなく、詳しく自分で調べたわけでもないのに、人のことを色々しゃべるということは、今までも一貫して避けてきたもので、今回もそうしたいと思います。ただ、県庁のトップとして、どう行動してきたか、その時何を思っていたかと言うことは、一つの事例として世の中の人に分かってもらうのもこういう時だから良いかなと思って、以下いくつかの経験を述べたいと思います。しかし、そうはいっても、報じられている斎藤知事の行動と違う所もあるので、そのことが、斎藤バッシングに与することにならないか少し躊躇するところはあります。したがって、出来るだけそうならないように気を付けながら書きます。
世の中で、公職にあるもの、と言うか民間も含めて、組織人として注意しなければならないことは、3つあると思います。セクハラ、パワハラ、軽くいうとおねだり、重くなると収賄汚職の3つです。このうち、セクハラは公務や職務への熱意とは関係ないので、とにかく身を慎んで注意していれば良いのですが、後の二つはいささか判断が難しく、大変難しい立場にいつも立たされます。
まず、セクハラですが、大体のケースは加害者が上司で、たいていの場合有望視されている重要人物、被害者は若手の女性という形です。女性から訴えがあって、嫌がっているのだから、二人を離せば良いのだろう、その時男性上司は重要人物だから留任で、女性を異動させようというのは、最悪の人事政策です。何も悪いことをしていないのにどうして私が職を替わらないといけないのと不満に思ったその女性は組織の外にこの不満をぶちまけます。そうすると、外部から批判が高まり、組織の危機になります。ここはどんなに有能な人であっても、その上司を何らかの形で処分して、異動してもらわねばなりません。と言うことを、私は経済産業省の生活産業局総務課長を勤めていた時、セクハラ研修で教えてもらいまして、その後、もちろん知事になってからも実践しています。
もう一つの問題は、セクハラは相手がいやがったら、もうそれでセクハラだと言うことです。公務員は実直な性格の人が多いのであまり考えられませんが、公務員でない私の友達の中でも平気で下ネタ話をしたがる人がいます。本人達は全く悪気が無いのですが、そこにいる異性の人が内心嫌だなと思っていると立派なセクハラですから、大いに注意しなければなりません。
これに比べると、パワハラは難しい要素があります。なぜなら、どこまでが仕事熱心のあまりの行動か、パワハラか、判断がいつも難しいからです。当人がたいして仕事もしていないなあとさらにその上の上司が思う場合はただの陰湿ないじめだとすぐ判断が付きます。そういう時でも、パワハラ加害者は、部下の指導をしていたんですと、人にも自分にも言い訳をするのですが、仕事の評価が低い人の場合はただのいいわけだとすぐ判断が付きます。問題は上から見て仕事熱心で成果も上げている人の場合で、この場合でも部下がつぶれてしまうような扱いをしたらやはりパワハラといわれても仕方が無いと思います。
この点は、私など全く危ない人物であったと思います。もともと、仕事熱心だし、公務員たるもの命と健康以外は犠牲にしても対象である国や地方やその住民の幸せのために働くのが当たり前と思い込んでいた人ですから。一方仕事は一人ではやれることは限られているので、組織全体のチームプレイがうまく行くことが大事で、上司になったら、いかに部下の人達にいい仕事をやってもらえるかが問われます。私は、ずっとそういう考えで長くやってきましたので、厳しい人だと思われてきたかも知れません。そういう人が知事になってやって来たので、おそらく和歌山県の職員は戦々恐々であったと思います。とはいえ、知事になって、急に仕事をいい加減にしたり、職員におもねったりするわけにはいきませんので、相変わらず、熱心に職務を遂行し、その際職員に厳しく当たったりもしました。ただ、その際叱った理由はちょっとくどいなと自分でも思うくらいよく説明しましたので、叱られた本人達もその理由はよく分かって、私に嫌われているとか、いじめられていると言う感覚は残らなかったのではないかと思います。もっとも、私からすると、職員が心に後腐れが残らないように考えたつもりでしたが、叱られている本人の受容度によって傷ついた人もいたのではないかと思ったりします。ただ、ずっと心配していましたのは、叱責されたり、折角の提案を否定されてしまった当の職員が心を病んだり、ましてや不測の事態を起こしてしまったりしないかということです。したがって、私は、叱った後の職員の顔色をよく観察して、これは危ないかもと思った職員にはすぐに、「でも努力は買う」とか、「次の挑戦を期待」と言った声をかけたり、冗談を言ってにっこり笑ったり、はらはらしながら気を遣っていました。県庁も多くの人が働いていますから、中には心を病む人がいて、調べてみると、私の知らないところで心を病んだり、ずっと前に上司からパワハラに遭ったのが原因で立ち直れないという人も何人もいました。あるケースでは、そのパワハラ上司は私の前では真面目な大人しい紳士で、とてもパワハラをするような人には見えませんでしたが、聞けば、ずっと前同じ課にいた時に特定の部下にしつこく叱責をし続けていて、とうとうその部下が心の病まで至ったそうです。また、パワハラが私の在職中に発覚したケースもあって、そういう時は、パワハラ上司の熱心さも知っている故に心苦しかったのですが、速やかにその上司の処分もしました。私は県庁の職員に結構厳しく接してきたと思いますが、私が知り得た限り、私との関係が原因で心を病んだという人は一人もいないということを私は心密かに誇りにしています。いやもっと誇りにしているのは、私のいささか厳しい県政運用にも耐えて付いて来てくれ、数々の業績を上げてくれた和歌山県職員4千人の諸君です。
このように私はパワハラになりはしないかと恐れつつ、県民のためには必要だと思ったことは結構手荒なこともやってきましたが、全ては相手がどう思うかと言うことです。したがって、知事の行動も含めて監視をする制度が要ります。仲間内では仲間内の論理がまかり通り、忖度やかばい合いが横行するので、第三者による監視が必要です。こういう時によくあるのは、外部の弁護士のような人にその機能を負わせて問題になった時に調査、判断をしてもらうと言う方式です。しかし、これも欠点があります。このような外部の人が通報を受けてどかどかと乗り込んできたら、仮に告発をされた人がシロであったとしても、告発されたというだけで、その人が嫌疑を受けて失脚する恐れがあります。後でシロが明らかになった時でも、噂はいつまでも残ります。それなら内部の組織でこれに対処しようとすると、和歌山県のような狭い世界では人と人の関係が稠密で、公平な審査が出来ない恐れがあります。また、組織内の人間関係によって、告発をした通報者が大変な目に遭わされる恐れもあります。そこで採用したのが、私がブルネイ大使に任じられたちょっと前に外務省で採用された現職検察官を外務省の内部におくという監察査察官制度です。和歌山県のような小さい組織には外務省のような現職検察官の出向というのはちょっと無理なので、私は就任早々友人の紹介で大阪高検検事長にお会いして、退職寸前の副検事に来て頂くことにしました。この方の職名は部長級だということを示すため、外務省の役職名と漢字一字を変えて監察査察監と名付けました。
誰かが不正を働いていると言うような情報提供、公益通報があった場合は、県庁内部にいるこの人が一人でまず調べて、真偽を確かめてから、私に報告してもらうようにしました。こうすれば根も葉もない話で誰かが傷付くこともないし、本当に根も葉もある話なら速やかに必要な手は打てます。ただし、ここで一つ穴があることは皆さんおわかりでしょう。知事が告発の対象だった時、監察査察監の注意や諫言を知事が握りつぶしたらどうするのだということです。その時はマニュアル上、監察査察官は県の監察委員会に知事が握りつぶそうとしたということも含めて案件を全部報告することになっていまして、監査委員会はこのような情報は全公開になっていますから、知事の「悪事」は白日の下にさらされることになります。いずれにしても、この制度で、数えきれぬほどのパワハラ案件、セクハラ案件、不祥事案件が審議され、それが真実であった数少ない場合だけ、処分を行うことが出来ました。この制度は残念ながら、私が知事を辞めた現在廃止されてしまいました。代わりの制度もないようです。大丈夫でしょうか。
またもう一つ知事や職員が悪事に加担していないかをチェックする方法として、昔どこかの県の知事が採用した知事室ガラス張りと言う方法があります。また、県の会議は全部外部公表という方法もあります。いずれにしても悪事を防ぐ効果はあると思いますが、その結果、知事に会いに来てくれる人がいなくなったり、会議で職員が意見を言わなくなったりという悪効果も考えられます。知事などの職にあると、このように全て公開と言ったことを唱える人はマスコミなどで英雄のように称えられるのですが、それによるいわば副作用で、県庁の機能が低下したら、そのつけは県民に回るということを常に銘記すべきでしょう。私はこの辺のことを勘案して、県の会議の詳細な記録は残して、問題が起こると参照できるようにするとともに、議論の要約と結論だけを公開することにしました。また、知事の悪事を防ぐために、お客さんが来る時は、後ろで知事室の若手の誰かがいつも見張っていて、詳細な記録をつけてもらうようにしました。もちろんそれは、私と私を引き込もうとするお客さんへの抑止力として機能させようとするものですから、記録は貯めておくだけで、公表はしませんし、私はどんなことが書かれているか見たこともありません。一度記憶があやふやになって、記録を取り寄せたところ、どうしても辻褄が合わない記録ミスとしか思えないような部分があり、こういうものが県庁に残っているのはいささか空恐ろしい気がしました。
次にこの頃マスコミのはやり言葉になった感のある「おねだり体質」ですが、これはとても厳しく排除しました。というのは、私がそもそも知事に推挙されたのが、前任の方の贈収賄事件だってからです。故郷の和歌山県の不祥事ですから、その事件が世に出始めた頃から、前任の知事のことも調べてみました。県庁のHPを見ると、前任の方はいろいろしゃべっていて、クリーンそうに見えました。ただし、交際費を全部公開していますと言うことでしたが、公開されている案件があまりにも少なく変だなあと思いました。そしてはっと思い当たったのは、公開しているのは世間で言う交際費ではなくて、お葬式の供花の類など県庁で言う「交際費」で、世間で言う交際費の代表格の飲食接待はこれには含まれていないと言うことです。飲食の類は地方行政では食料費に分類され、これは公開などされていないということでした。これは詐欺みたいな話だなあと思って、私は就任後、このやり方を廃止して、その代わり、全ての会食等の「交際」を、相手の方や、公費か自費かの区分も含めて全て公開することにしました。(以下どうでもいいことですが、こうして情報公開度を格段に上げたのですが、前知事時代の食料費公開の本質を見破れなかった、当時マスコミの寵児であった市民オンブズマンは、なんと和歌山県の情報公開度の評価を落とすという挙に出たのでした。)
もう一つ、これはこれはと思ったのは、知事公舎に入らせてもらって、早速かなり広い庭を点検した時の話です。庭にはトタン葺きの新しいが粗末な物置があったのですが、そこを開けたらなんと納屋いっぱいに鮮魚など食品を入れる発泡ポリエステルの大きな容器が詰まっていたのを発見したことでした。クリーンを標榜していた前知事がいったい何をしていたのだろうと思って、私は、「今後一切ものはもらいません」と宣言してしまいました。知事は公職選挙法の厳しい規制がかかりますので、有権者にものは差し上げられません。買収との区別がつかないからでしょう。その規制は相当きつく運用されていて、有権者に利益を供与するのは、飲食の提供、物品のプレゼントからお葬式の香典まで広範に禁止されています。最近、その最後の香典の提供で国会議員に対して刑事事件が提起されているのがその一例です。一方、選挙で選ばれる知事などが利益を供与される方はこれに比べるとうんと大らかで、収賄に当たるような極端なケースとか利益供与が伴う時を除いて法的には問題にはなりません。同じ公務員の場合でも、一般職の公務員が、人に利益供与をしても大丈夫なのに、人から利益供与を受けると厳しく指弾されるのと、好対照です。しかし、私は知事という公職選挙法の適用される身である上に、自ら「ものはもらいません」と言ってしまいましたので、後で、職員に苦笑しつつ言ったように、世の中で一番不自由な人になってしまいました。許されるのは、公人として堂々と公費を使って人と付き合うか、割り勘で自分の分を払うかだけになってしまいました。それでもいろいろな人と付き合って、情報を取り、ネットワークを広げ、影響力を行使することなしによい県政は出来ませんので、積極的に「交際」をしていました。そして、それを逐一ホームページで公開をしていました。別途実施した、一日の活動歴の全公開とともに、飲食のような場でも怪しげな輩の虜になっていないかとか、あるいはそんなことに公費を使っていいのかなどという議論が誰でも出来るようにしたのです。このように、私は「ものはもらわない」と宣言はしましたが、すぐそれを全ての人が意識できるわけがありません。初めのうちは公舎にどっさりと届け物がありました。これを片端から受け取り拒否でお返ししていたのですが、ある県議に激怒されました。その方は大ベテランの県議で、私の初めての選挙の時も親切に応援して下さいましたし、人物も高潔で、知事に贈り物をして何かに有り付こうなどと思うことなど考えられない方でした。私は平謝りに謝りつつ事情を説明して何とか機嫌を直してもらいました。その後はこれに懲りて、丁重なお断りと事情説明の手紙を用意しておいて、これを貼り付けて返却してもらうようにしました。こうして1、2年経つと、あの知事には贈り物をしても無駄という評判が定着して公舎への贈り物はなくなっていきました。県庁に持ってきて下さった場合は、事情を説明してお持ち帰り頂くか、適当だと思う時には県庁で頂いて皆で分けてしまいました。ただし、皆さん、何か下心があってものを下さることは本当に稀です。私に対する好意からか、自分たちで作った産品を是非試食して下さいと言う気持ちからの方がほとんどです。受け取って差し上げたり、ちょっとした注文を出したりすると圧倒的に喜ばれます。それを断り続けた私は、冷たい人間だったかも知れません。
ただし、利害関係が絡むと飲食のもてなしや物品の進呈は見返りを求める汚職の匂いがしてきます。その点は、知事や職員が便宜を図ろうにもはかれない、はかろうとしても無駄という制度を作ればいいのです。ここでは詳しくは説明しませんが、前知事逮捕に繋がった和歌山県の公共調達制度は、私の就任とともに行った改革で、仮に職員が特定の業者に便宜を図ろうとしても図ることは不可能という制度を作ってありますので、自然職員に対するそのような誘惑はなくなります。職員は論理的な仕事に全力をあげられるのです。
もう一つ大事なことは職員に燃えるような目標を与えることです。その目標の設計が実は知事の最も重要な仕事ではないかと思います。そして結論を先に言うと、知事に仕え、知事を奉ることなどその目標ではあり得ないと言うことです。私は知事に就任した直後は、勉強のためにあちこちを訪問してヒアリングや見学をしていました。そこで驚いたことは、県庁の職員が知事車の誘導や知事の道案内のためにとてもたくさん働いていることです。県立医大に行った時など、医大の近くの交差点から、入り口、構内のカーブに至るまで職員が交通整理をして知事者を誘導してくれていました。それも50才前の課長一歩手前といったベテランの職員までがそんなことをしているのです。そういう人は学長との議論の場などには参加しません。サブスタンスには関与しないのです。これは人的資源の無駄使いだ、折角の人材をこういう単純ロジ仕事に使うのはもったいないではないか、私はそう思いました。視察先は大体県内の施設で、私など和歌山市に生を受けた者は医大がどこにあってどうやって行ったら良いか、誰でも知っています。ましてや手練れの運転手がついて乗せて行ってくれるのですから、これら道案内は全く不要です。このような優秀な職員は県民の幸せのためにもっと実質的な内容のあることに邁進させるべきです。私はそう思って、つまらないことに大事な職員を使うな、それでも道案内などをしている職員は冗員と見なすと言い放ちました。そしてこういう人達が実質的な仕事で能力が発揮できるように皆で考える新政策プロセスを導入したり、県外への「営業活動」に連れて行ったりしました。サブスタンシャルな仕事の訓練です。
さらに、後で段々と分かって来たのですが、和歌山県では知事はとてもえらい存在として奉られてきました。それがたかが知事の県内視察に際する大量の職員のただの道案内への動員です。私としては、もちろん大事にしてくれるのは感謝をしなければなりませんが、それに浸ってしまうと、肝心の県民の幸せのために今は何をすべきかと言うことを自分でも忘れてしまいます。また、大事な県庁職員という資源を自分に尽くすだけのために浪費させてはいけないという思いもなくしていく恐れがあります。それが続くと、自分は本当にえらい、尽くされるべき人だと思ってしまう恐れすらあります。さらに、もう少し観察していて思ったことは、知事をえらい人として奉ることによって、その知事に仕える県庁職員も、県庁職員以外の県民に対して高みに立つ事が出来るという構造になっているのではないかと思ったことでした。。知事が頂点に立ち、その下に県庁の職員がいて、さらにその下に一般の県民がいるというヒエラルキーが県庁職員の秩序観にあり、高みに押し上げた知事と県民とのインターフェースは県庁職員が務めると言う構造です。こういう構造があるゆえに、かくまで知事を大事に奉ってくれるのではないか、そういう疑いを持ちました。でもこれでは県民のためのいい仕事は出来ません。そこで、私は一気に県民の誰とでも対等に付き合うようにして、いわば自らが低みにおりて、このヒエラルキーを壊しました。その結果、このヒエラルキーに安住していた職員が自分の力で大活躍をしてくれるようになったと思っています。
また、知事を奉ってくれるかつての県庁の風土にどっぷりと浸かっていると、自分自身がいつかえらそうな人間になってしまうような気がしました。私はえらそうにする人、尊大に振る舞う人が嫌いです。私の知る限り、本当にえらい人は皆謙虚で、尊大に振る舞ったりはしません。えらそうに見えるほど私の価値観からすると醜悪なものはありません。だからえらそうに見えないように言動に気を付けようというのが普通の人生訓です。でも自分は実はえらいと思っていると、えらそうに見えないようにしようとしても馬脚が出ます。どうしたらいいか。自分は本当に大してえらくないと思えばいいのです。表裏を作るから困ったことになるので、表も裏もえらくないと思えばいいのです。知事など大してえらくないのですから。そう思っていればえらそう病からも解放されるし、県民のための職務に没頭できるでしょう。