夢を語る政治家

 この間、あるメディアから防災対策の取材を受けて議論をしていた時に、防災対策の一つは、いかに早く被災地に救援隊を派遣し、救援物資を届けるかだから、私は一貫して、紀伊半島の一周高速道路とこれを補うネットワーク道路の整備を公約にして、言ったからには絶対早期に実現するんだとしゃにむに努力してきましたと申し上げました。公約です。私が知事になった20年前ぐらいの時代は「マニフェスト」というのが大流行でしたが、私はこれにうさん臭さを感じて全くこの言葉を使いませんでした。なぜうさん臭いかというと、一つには日本語にすれば公約もマニフェストも言葉の意味に大差はないのに、新しい政治家が使うとマニフェスト、古い政治家が使うと公約といった風にマスコミなどでレッテル貼りが行われていたからでありますが、もう一つはマニフェストと名付けられたものは、一言でいうと、割合具体的な個々の政策をたくさん並べてあるものという整理であったからであります。私も他の政治家や候補の多くのマニフェストを拝見して勉強をさせていただきましたが、皆これでもかと様々な政策がたくさん書き込んであって、百科総覧の趣がありました。政策には、あらまほしき将来像を描く政策目標とその実現のための政策手段があるのですが、たいていのマニフェストはこれらが入り混じっていて、政策目標を語っているのか、政策手段をコミットしているのか、よくわからないものが多かったと思います。
 今回のテーマから外れますが、こういうマニフェストが大いに流行っていたので、私も、知事選挙に出馬するにあたって、マスコミから、「マニフェストは出さないのですか」と聞かれて、「選挙公約はもちろん出しますが、皆さんが想定されているようなマニフェストは出しません。なぜならば、これから知事になろうとする自分が、県政の細部まで知っているはずがないので、今世に多く出ているような細かい政策を実行のための優先順位をつけて語れるはずがありません。約束したからには必ず実行したいのですが、経緯や、実行体制や財政状況や実行部隊の能力まで考えるとマニフェストに掲げられているような細かい政策を実行できるかどうかは分からないからです。私は分からないことを約束するような無責任なことはしたくないからであります。当選の暁には県庁の諸君の協力を得て、約束した公約は100%実行するように努力します。」そう言って、私は、選挙の時には、「前知事が逮捕されるという一大事であった官製談合をやろうとしても出来ない公共調達制度を作ります」とか、「産業活動、観光、防災の基礎条件となる高速道路と基幹的ネットワーク道路網の早期完成を図ります」とか、「福祉は今より絶対に後退させません」とかといった数個の公約を発表して県民の審判に訴えました。それで当選してからは、その早期実現のために日夜努力を重ねたわけであります。でも考えてみれば、有権者たる選挙民のいったい何人があのように長い、多くの項目が並ぶマニフェストを読んでいることでしょう。読んでいたとしても、あれほど多くのマニフェスト項目を限られた財政事情の中で、限られた人的資源と組織の中でどうやったら実行できるか考えて候補者の評価をした人がいたでしょうか。さらに、そのようなマニフェストを掲げて当選した人が、そのうちいくつの項目を実現したかを調べて当選者に突き付けた人がいるでしょうか。日本語に直せば「公約」ととても近い「マニフェスト」という言葉をトレンディーなものにしてもてはやし、それに乗っかる政治家を褒めたたえて、「公約」という言葉の持っていた意味、すなわち有権者との契約というまじめな意味を空疎なものにしてしまった一部政治家とマスコミの責任は重いと思います。そう言えば、時がたち、世が移ると、今やマスコミの紙面・画面でマニフェストという言葉を見ることはほとんどありません。

 しかしながら、マニフェストは、ある時期政治の「夢」だったのかもしれません。私は夢を語ることが下手な政治家であったと思います。実は、自分は政治家というよりは県庁という行政組織のトップに選ばれた人間だと自己規定をしていたのですが。でも、これがすべての場合に正しいと言い切るつもりはありません。政治家は本来夢を語る人なのだろうなと心の中で思って、私は少し韜晦の中にいます。私も和歌山県知事を16年もやらせてもらいましたが、県民の皆様に夢を振りまいたかというといささか忸怩たるものがあります。人は皆それぞれ性格も特徴もありますから、政治、行政の進め方も色々です。私は実行できないことはちゃらちゃらと口にすべきことではない、公約を口にしたからには石に噛り付いてでも実現してやるぞという人間ですから、「ちゃらちゃらマニフェスト」は拒否し、実行できると信じる政策目標を掲げて有権者の信を問うてきました。その結果は、100点とは言えないまでも結構実現度は高かったと思うので、県民の多くの支持は得続けられたと思いますが、果たして、これでよかったのか、県民の皆さんに夢を与えられたであろうかと言うとあまり自信がありません。昨日より今日がよくなる目標を提示してそれを実行して見せるという点では成果はもちろんあったと思いますが、それは夢を与えることであったのかと言うとどうでしたでしょうか。夢を与えることが出来る政治家とはどういう人でしょうか。

 政治家の語る夢は二つの要素からなると思います。一つはその政策目標が人々の心を突き動かすような魅力的なものであるということ、そしてその政策目標が「言うだけ番長」の台詞ではなくて、実現できるものでなくてはいけないということ。私のような現実主義者で行政の技術者はすぐ後者の要素に目が行ってしまいます。そして出来そうもないことを唱えまくっている人を非難します。思いつくままにたくさんのマニフェストを書きまくった人に対してするように。
 しかし、あんまり、政策手段の実行可能性ばかり考えると、話に華がなくなり、夢が無くなります。 それに志が低い人、なんでも消極的な人、防衛反応、保身の意識が強い人がこの態度にこだわると、「へっぽこ役人」の跋扈する社会になってしまいます。したがって、政策手段の実行可能性に過度にとらわれないで、人々の心に火をつける夢を語ることも政治には必要なのでしょう。

 そうとすると、どうすれば夢を語る政治家を口舌の徒、三百代言と区別できるかというと、私は、その政治家が、自分が熱く語る夢を実現できる政策手段も同時に語っているかではないかと思います。そんなものは誰か別の人が考える話だと言って、ある政策の財源確保に具体策を示さない人気の政治家には、その限りで私は批判的です。
 それでは夢を語り、政策手段も同時に語ろうとする政治家は〇かと問われれば、これまた無条件にYESと言うわけにも行きません。政策目標を達成するのにふさわしい政策手段でなければなりません。
 例えばトランプさん。彼はアメリカの政策目標として、産業の再生を語り、アメリカ国内の雇用の拡大を語り、その政策手段として、「トランプ関税」を語ります。アメリカ国民の多数に夢を語り、支持を集めました。政策目標も語り、政策手段も語るトランプさんではありますが、その政策目標を達成するために、その政策手段は正しいでしょうか。政策手段が論理的に間違っていたら、正しい実態把握に基づいたものでなければ、評価どころではありません。政策目標の実現のためには、論理と実態に裏付けされた正しい政策手段がいります。トランプ関税はもちろん日本にも打撃を与えますが、何よりもアメリカの産業と労働者に大打撃を与えることは理論的に明らかでしょう。このことをトランプさんに説ける人がいないと困ります。あれだけ百家争鳴であったアメリカの経済学者たちがトランプさんの政策を正面から理路整然と批判しているのでしょうか。少なくとも私の目にはちっとも目立ちません。そんなことをするとアメリカがひどいことになるぞということは、ウォールストリートがすでに大幅な株安で反応しているのですが。
 日本では、政治家の動きも、マスコミの報道ぶりも、大変、大変、日本が困るの一点張りです。国際法上違法で正義の味方アメリカが泣きます、自由世界の安全保障上大変危険です、何よりもアメリカ経済自身が大変になります、そうすると、アメリカの最大の同盟国である日本も困るから言っているのですとどうして言えないのでしょうか。日本が困るので助けてくださいと言うばかりのネゴシエーターでは、心優しい日本人に対してなら少しは通用するかもしれませんが、そんな人などどこを探してもいない外交や通商の世界では通用しません。
 夢を語る政治家もなかなか一筋縄ではいきません。