和歌山県知事をやらせていただいていた時、私がよく言っては職員を困らせていた言葉は、「権限がないと言うな。予算がないと言うな。」です。
私がそれまでよく経験してきたことは、国家、地方の別によらず、公務員の人が来客と接している時に、「お話は分かるのですが、権限がないので、出来ないのです。」と言ってその方の訴えを退けている姿でした。同様に来客に「予算がないのでできません。」と言ってお断りをしている姿にもよくお目にかかりました。でも、本当にそうか。権限や予算がないからと言って、出来ることはいっぱいあると私は思います。私が育ったのは通商産業省で、色々なことをたくさんやろうとしていましたが、そのほとんどは権限もなければ、予算化もされていないことでした。でも、実際にやってみると結構できました。
国の各省庁の権限は何とか省設置法で決まっています。それを見ると、最近のものは、まずは法の目的として、第一条に何々省を設置するということとその任務及び少々事務を定めるとありまして、続いて、任務と所掌事務が並んでいるという構造になっています。おぼろげな記憶では、昔の設置法は、権限というのと所掌事務というのが並んでいたと思うのですが、この権限というのは、これこれの制限を課するとか、これこれを決めるとか言った権力行政的な硬いことであったように思います。おそらく、お役所の方が「権限がありませんので」というのはこのころの言葉の使い方が習慣になっているのだろうと推察しますが、今は、そんな権力を振りかざすような表現ではなくて、「任務」という名前で、もう少し柔軟に行政を考えなさいという思想が表れているように思います。しかし、頭が固い役所では、昔からの権限を行使するのが行政だから、権限のないところに出張って行ってはいけないのだというマインドが色濃く残っているのではないかと思います。しかし、通産省の世界では、ずっと昔から任務と所掌事務の組み合わせで仕事をしていたような記憶があります。産業の振興を図るといった任務を達成するためには、法律上、あるいは人倫上許されないこと以外は何でも自由に手を出すべきだという文化があったように思います。法律や規則でポジティブに書いてあることや、前例があって広く認められていることを遂行するときは、その担当者にリスクは極めて少ししかありません。そんなことをやってよいのかなどという批判を浴びることもありません。うまくいかなかった時でも、権限上そういうことになっているのだからと言い訳が出来ます。そうやって権限が明確なことだけをやっていたら、その公務員は守られるかもしれないが、世の中はよくならないことが多いでしょう。本来は、任務に照らし、使命感に応じて、法令の禁じていないことはどんどん手掛けていくことがよいのではないでしょうか。公務員もせっかくその職に就いたのだから、何事も事なかれ主義で縮こまっていないで、自分の任務からして、この目の前の事態にどう立ち向かうかを考えるべきでしょう。また、同じ人生ならそうやって、自分で考えて立ち向かうほうが楽しいに決まっています。
ここで面白いことがあります。それは「にわか何とか」の人ほど原理に忠実で、悪く言うと頭が固い人が多いということです。私の人生で多くの経済学者に接しましたが、幸せなことに大変優秀な大勢の方とお付き合いが出来ました。しかし、よく観察していると、初めは他の職に就いていて後々で経済学者になった人は、経済学の基本原理に割合忠実な人が多く、ある意味「原理主義者」ですが、初めからアカデミアの世界で育った人は結構柔軟で、私から見ても「それって経済学の教えに反しませんか」というようなことを平気で言う人がいました。詳しくは説明しませんが、私がイタリアに勤務していた時、ボッコーニ大学との関係で、一橋大学を中心に多くの経済学者とお付き合いをしましたが、例えばEU統合と経済学の基本的な学説との関係に関する見解で、最も学説に忠実だなと思ったのは元官僚の教授でした。同じようなことは役人の世界でも起こります。一番彼らが固くなり、縮こまるのは、今まで経験したことのないような大きな案件が降ってわいた時です。よく経験するような案件では結構自由に発想する人が、大きな案件を前にすると急に「原理主義者」になって、前例や条文に書いてある世界に逃げ込んでしまいます。また、私は、教育の世界で同様なことを経験しました。教育行政の担当は教育委員会ですが、その行政官は優秀な教員の中から抜擢された人と、県庁の他部局から配属された人の混成軍です。その中では、根っからの行政官の職員が割合柔軟な対応をするのに対し、教員上がりの人はものすごく詰めるが、前例や規則にこだわりすぎて、問題の解決からは程遠い対応しかできないことがありました。しかし、とにかく優秀ですから、資料の作り方などとても上手で、手間がかかっているんだろうなあと感心することしきりでした。言いたいことは、どうも人間は今までやったことにないことに直面した時、まずは自らの生存を図るために、何事も慎重に、消極的になるということです。余談ですが、これは行政のトップの知事や市町村長のような首長にも言えるような気がします。行政以外の出身の人は、仮に部下に「そんなことは権限がありません、法律に背きます。」と言われると、「そんなことあるもんか」と思えないで、委縮してしまうことがあるように思います。「官僚支配」ですね。そういう実例を何度か見てきました。
もう一つこれに関する類似のケースは「法律上の権限がありません。」です。しかし、よく自分の周りを見てみると、我々は法律など意識しないで様々なことをどんどんやっています。法律がどうしても必要なケースは、人々が嫌がることを強制する必要があるときだけだと私は感じます。呼びかけに応じてみんなが進んで協力してくれる時などには法律などはいりません。「だから、法律の規定がないからそういうことはできません。」というのは大いに疑問符付きです。(この関係で、昔中国が行った、狂牛病対策としての化粧品の日本からの輸出禁止を解決したことがありますが、ここでは詳しくは述べません)
「権限がありません。」、それに対する答えは、「それがどうした。」です。
同じことは、「予算がありません。」にも言えます。確かに予算がないと、やらなければと思う事業も実行が出来ないケースがいっぱいあります。しかし、それがすべてかというとそんなことはありません。大体の行政は特別の予算手当なしでやっています。もちろん公金のお世話になっていないかというと、そんなことはなくて、第一公務員の人件費は予算手当されています。人にヒアリングに行くときの交通費もそう、コンピュータやコピー機を使う時もちゃんと予算手当がされています。したがって、特別な予算手当がなくても公務員は結構頑張って仕事をしているのです。特別な事業に予算手当がされているケースはむしろ例外的だと思います。まずは予算手当などなくても、出来ることを考えてそれを実行することで多くの問題が解決します。どうしても、予算を使って何かやりたいと思ったら、手続きを取れば、流用もできるし、予備費も使えるし、先決処理もできます。補正予算も上程できるし、次の年度に予算手当をしてもよい。もちろんいずれもきちんとした説明責任と手続きがいるのですが、予算がないと言って必要な対応を取らない場合だって、本当は説明責任を問われているのです。要は、予算がないと言って、むつかしそうに見える仕事から逃げているだけ。この場合も考えてみれば、そんなに逃げてばかりいて楽しいか、せっかく試験まで受けて公務員になったのだから、逃げてばかりで職業人生を終わったらおもしろくないではないかと、私は思います。
もう一つ私がずっと感じていることは、行政官庁は予算を取りたがるということです。何か予算を獲得すると、すごくいいことをしたように思って、自分の評価も上がったと思うような雰囲気があります。もちろん必要な予算獲得は大事なことですが、本当に大事なのはその予算を使って世の中をよくすることです。そちらが疎かになっていると意味がありません。逆に、予算措置がなくても工夫次第で世の中をよくする手立てはいっぱいあると私は思います。世の中をよくする手段と考えますと、世の中に対してインパクトを与えそうにない予算はつまらないということです。少額の事業費やましてや調査費を取って、ほくほくしている役人がいますが、大したことではないように思います。大事なことは、その予算がどれだけ世の中をよくするためにインパクトがあるかです。逆に、少額の予算でもそれがあれば、いい予算措置だと思えるのですが、予算の額自体にしか着目しないような「行革おじさん」の餌食によくなるのはこういった予算です。
「予算がありません。」、それに対する答えは、「それがどうした。」です。