前回からの続きです。(全2回中の②)
このように、国土庁が発足以来おそらく初めて全庁的な広がり持つ法律を抱えて大騒ぎをしていたころ、前述のように私は筆頭課長補佐として国土庁の官房総務課にいました。そこには建設省、運輸省、農林省の大変優秀な同輩、後輩がいて、みんなでワイワイ議論しながら、大目標である多極分散型国土形成促進法の成立のために力を合わせて頑張っていました。私は、こういう優秀な同僚から、例えば高速道路や新幹線の建設のスキームや、各省どうしの関係や、各省の内部の力関係やそれぞれの所管業界との関係や、様々な土地や住宅や建設事業に関する法制など多くのことを教えてもらいました。なんせ、教師が優秀で、かつ実務家ですから、ものすごく理解が進むのです。その中には、前回のメッセージで触れた都市計画に関する制度のこともありました。いずれも通産省の所管する事柄からはかなりかけ離れたことが多くて、本当に多くのことを教えてもらいました。世の中はそんなになっているのかという具合です。それがその後私の人生の多くの局面で役に立ち、特に知事の仕事を遂行する上で本当に有用だったことは、前に述べたとおりです。
こういう同僚の中には、国土庁が発足してから独自の職員として採用された素晴らしい人材もいます。そういう独自の職員を「プロパー」職員と、官僚の業界用語で言いますが、国土庁はこういうプロパー職員を1979年から毎年数人ずつ採用していました。その多くは都市工学科の卒業生です。
そういう国土庁プロパーの大変優秀な職員が隣の席に座っていたものですから、彼から、全総計画のイロハを教えてもらうとともに、彼ら都市工出身で、国土庁に入庁した人たちの夢とある種の幻滅の思いを聞きました。
彼らは、全総計画がやりたくて国土庁に来たというのです。ちょうど、新全総が出来て、田中総理の列島改造計画が日本中で実行されていました。その最高のイデオローグが下河辺淳さんで、全総計画のスポークスマンとして、大変有名でした。残念なことに、四全総の仕上げの閣議決定の時に新任の官房総務課課長補佐として国土庁にいた私でしたが、私の記憶が正しければ国土審議会の会長として、この四全総を仕上げられた下河辺さんには親しくお話をする機会はありませんでした。しかしそんな私でも、下河辺さんの名声は燦然と輝いていました。下河辺さんは、1962年から始まる全総計画の推進者としてこの業務がまだ経済企画庁にあったころから辣腕を振るわれ、この業務とともに国土庁に移られてからも、全総計画を擁して大活躍をされました。全総計画も、1962年の全総計画、1962年の新全総のころまでは、日本の社会開発を実際にリードしてきたと思いますし、その影響力の大きさは、下河辺さんの名とともに、本件に全くの門外漢の私でもよく意識される存在でした。
全総計画で登場した、拠点開発方式による地域間の均衡ある発展という考えは、新産工特と略される「新産業都市建設促進法」と「工業整備特別地域」の建設促進、工業再配置法、それに工場等制限法の施行によって、現実に世の中を動かしているものと我々には思われました。
また、1969年の新全総は、日本全体で豊かな世界の創造を実現するために、高速道路網、新幹線網、大規模工業基地の建設などをうたい、少し後の田中角栄内閣の列島改造計画と気脈を通ずるものがあっため、日本国民の大部分が期待する大きな夢の計画というイメージがありました。下河辺さんはそういう社会情勢の中で、政界からも頼りにされ、官界でも順調に地歩を固めていきました。
世は1973年にオイルショックを迎え、狂乱物価とその後の大不況で、開発一本やりの新全総―列島改造計画のような考え方には疑問が投げかけられました。とりわけ、交通系の大事業にはブレーキがかかり、各地の大規模工業団地の建設が軒並み行き詰るといった弊害も出てきました。
しかし、全総計画は、これ等の社会情勢に応じて、その性格を変えていきます。
1977年に策定された三全総は省エネルギー、省資源の動きを反映して、地方の時代を唱え、各地方に定住圏を作って、日本が田園都市国家になるのだというビジョンを語っていました。そしてこのころ、国土庁が発足し、例えば東京大学工学部の都市工学学科などでは、あこがれの大先輩の下河辺さんの勧誘を受けて優秀な学生さんが、全総計画を作りたいと、国土庁に入庁したのです。
私が国土庁に行ったころにできた四全総は、再び人口の地方から都会への流出が多くなった時期で、地方側に危機感があった時代背景をもとに策定されましたし、この時期になると、日本全体が地盤沈下するのではないかという危機感もあったころに策定されたものでありました。そこで、一方では東京の持つ活力も生かし、工業に頼るのではなく情報産業などの頭脳産業やリゾートなどのサービス業にに重点を移したうえで地域開発を行うことにしました。また、全国の拠点を繋がないといけないので、もう一度高速交通ネットワークに注目し、特に14000kmの高速道路網や空港の整備,ISDNなどの通信網の建設もうたい、それらを束ねる国土軸という概念を強調しました。
しかし、新全総の時代を境目に、全総計画は、キャッチーな概念を唱え、夢のようなビジョンは提示するものの、それを実現するための政府全体の仕掛けからすると、どんどん後退が見られるようになりました。全総計画に書かれても昔のようにそれが実現されるとは限らなくなり、さらに、実現することを目指して計画を作るというのではなく、見かけの良い立派な計画を作ること自体が目標となるような時代になって行ったのです。
ある時直属の上司であり、役人として大変尊敬し、私淑していた清水達雄官房長が彼の若かりし頃と今を比べた全総計画の意義のお話をしてくれました。建設省出身の清水さんは、若いころ経済企画庁の計画局で、道路などのインフラの5か年計画の策定に当たっていたそうです。この5か年計画は、道路を実際どういう優先順位で作るか、そしてそれにいくら予算をつけるかということを財政当局、実施官庁である建設省や運輸省、そしてもちろん政治の世界を巻き込んで大議論の末作るものだから、ここに書かれたということは、必ずそのインフラが出来るということを意味していたと清水さんは仰っていました。そして、その5か年計画のもとになっていたのが全総計画であって、したがって、全総計画に書かれるということはいずれそのインフラは実現するということだったのだとおっしゃるのです。だから、全総計画に書きすぎると財政が危うくなる大蔵省は必死で書かせまいとするし、担当省庁や政治家は必死で書き込もうとするんだよということでした。しかしいつの時代から、全総計画からこのような実際の建設に対するコミットメントが消えてしまいました。計画は計画、実際の建設はまた別の話ということになってしまいました。そう言えば、実際の建設を左右する5か年計画もいつの時代からか日本政府から消えてしまっていました。
「全総、全総と世の中の人は騒ぐけれど、今の四全総は昔の全総や新全総とは違うものなんだよ。書いただけでは実現はしない。だから、奥野大臣が仰っているように、全総を実現して世の中を変えるような法律を伴う仕掛けがいるんだよ。」と清水さんは仰っていました。私もまったく賛成でしたし、今もあらゆる計画策定行政についてそう思っています。
「私たちは下河辺さんに皆あこがれて国土庁に入って来たんですよ。都市工学科は、地域開発や町の設計、それを規制によって実現しようとする都市計画などやることはいっぱいあったのです。でも、我々は下河辺さんが語る全総計画で世の中を理想の形に変えていくんだという思想に共鳴して、他を擲って国土庁に入ったんですよ。」というのが大変優秀な東大都市工出身の国土庁のプロパーの私より少し若い同僚の語ることでした。
「しかし、全総計画はいくらいいものを作っても、いい計画だとは人にはほめてもらってもそれだけで世の中を変える力はありません。昔は知りませんが、今はそういうものです。実際に世の中を変える力を持っているのは有力政治家と有力官庁の意向です。全総計画にあこがれて国土庁に来た身には失望感と無力感を感じます。」そう言って、彼は当時私たちが必死に取り組んでいた四全総実施法の実現に協力してくれたのですが、その後、国土庁を辞めて、元の大学の恩師の紹介で、ある大学の都市工学の講座に職を得てアカデミアの世界にもどっていきました。
私は、彼に限らず、都市工出身の先輩、友人をたくさん知っています。皆さんとても視野が広くて、発想も豊かであるうえ、科学技術、論理にきちんと立脚されたいわゆる理科系的能力も抜群です。いろいろなところで活躍しておられますが、視野の広さと発想の柔軟さで、とにかく世間で目立つ人は多いと思います。その方々がもう少したくさん、私の思う都市工の本来のフィールドの一つである都市計画の世界にいらっしゃれば、日本の街づくりはもっと違うものになったのではないかと思います。
インフラや街づくりといった建設省・国土交通省系の官庁の仕事は、大勢の事務官技官の役人が果たしていますが、そのバックには道路なら道路に関する技術の裏打ちをしてくれるアカデミアの世界の学者先生がいらっしゃいます。道路局も港湾局も水資源防災局も皆そうです。しかし、都市局のとりわけ都市計画を担当する部局だけは、役人も少数だし、それ以上にカリスマ的都市計画の専門家の先生が少ないように思います。その結果、他の国土建設の事項に比べても、広くアカデミックな議論が起こってしかるべきだと私が思う都市計画のジャンルに、そういった議論がなされているような気がしません。私は、全国の地方が衰退傾向に入ったとき、それを増長しているのは、都市計画についての考慮の欠如だと思っています。さらに大都市でさえ、適切な都市計画がなされない結果、長い目で見たとき都市の崩壊が起こっていくのではないかと恐れています。今は大都市は街として栄えているように見えますが、旺盛な人の参入に問題が覆い隠されているだけです。これからは、ともすれば将来のことなどあまり考慮せず緩すぎる都市計画でどんどん開発を進めてしまう行政に対して、都市工学の観点から適切な理論的な抑制の意見がなされてもいいとおもいますが、今はそれがあまりにも小さすぎるような気がします。
むかし国土庁で、全総計画へのあこがれのために本来の都市工学の世界を離れてしまったことの悔いを私に語ってくれた優秀な官僚のような人が、もっと多く、都市計画の理論的な分析とそこからくる建設的な提言の世界に向かってくれていたらと、昔を振り返って思います。