身内に不幸がありまして、色々やらなければならないことがあり、このメッセージが少し滞りました。
タイトルはNHKの新プロジェクトXのタイトルです。3月8日朝の再放送で見ました。東日本大震災の時岩手県釜石市鵜住居で、孤立集落が発生し、ライフラインもすべて止まり、他地域に繋がる唯一の道が津波によるがれきで埋まってしまって孤立無援になり、他地域からの避難民を合わせて大勢の人に供する米も底をつくという危機に陥った時に地元の建設業者が独力で道を啓開し、援助物資の搬入を可能にしたという話です。建設業者、消防団、地区の婦人組織の方々などが力を合わせて自らの地区とそこにいる人々を守ったという話で、登場された方が皆さんあまりにも立派で、涙なしでは見られませんでした。大規模な災害が発生したときなど危機に陥ったときに人間の真価が出るものだと言うことをよく物語っていると思います。
番組の中で、ゲストとして出演された方からは心を揺すぶられる名文句が沢山飛び出しました。
1.誰かがしなければならないのだから、自分がするしかないと道の啓開に着手した。
2.皆が困っているのだから助けるしかないと、ありったけの米でにぎりめしを作り続けた。
3.消防団の法被を着ているからには、亡くなった方のご遺体は早く収容して差し上げなければならない。
4.道を啓開する途中あまりにも大きな障害物でこれ以上進むのが不可能だと思ったとき、無傷で残っている高速道路に上がっていく坂道を作って、バイパスしようと思いついて実行。
5.自分の命が助からないと人は助けられない。
6.皆でないと何も出来ない。だから、いざというときに皆で協力できる様な関係を作っておく。
あの時、この釜石市鵜住居だけではなく、ものすごく多くの地区で孤立集落が出来ました。もちろん、政府も地方公共団体も全力で手をさしのべようとはしたのでしょうが、孤立している地区の多さを考えればなかなか手が回らなかったのでしょう。考えて見れば、東北地方の太平洋岸全体が大孤立集落と化していたというのが私の印象です。その時思い出されるのが、当時の国土交通省東北地方整備局の方々が行った櫛の歯作戦です。今回の大震災は地震による被害はたいしたことがなく、津波によって沿岸部が大被害を受け、沿岸部を通っていた鉄道と道路はずたずたで、救援のための要員も救援物資も空からしか運べませんでした。被害の大きさからすると空からのアクセスだけでは量が足りません。一方内陸地方は被害は軽少で内陸を縦貫する東北自動車道は無傷でした。そこで、東北地方整備局は東北自動車道から東に向かって太平洋岸に延びる多くの幹線道路を片端から啓開して、いわば櫛の歯状の道路ネットワークを復活させ、沿岸部の孤立を解消していったのでした。この話は当時の東北地方整備局の局長であった徳山日出男氏のドキュメンタリー『前へ』に詳しく載っています。(後に国土交通省事務次官になった素晴らしく理知的な方です。)東北地方整備局はもちろん、あの東日本大震災の際には、このNHKの新プロジェクトXに報じられたような人々の大変な努力と献身があって、人命救助や遺体捜索や復旧や復興がなされていったのだと思っています。
和歌山県でも、東日本大震災のおよそ半年後歴史的水害に見舞われました。紀伊半島大水害です。大型台風が停滞し、およそ4日間で和歌山県に降る通常の雨量の半分ぐらいの雨が降ったために、水害には備えているはずだと私が(愚かにも)思い込んでいた和歌山県の南半分がぼろぼろになり、約8000の家屋に被害が出て、180箇所で道路が不通になり、40の孤立集落が発生し、行方不明者を含め61人の方がなくなり、県民生活は大変な被害を受けました。
この時は、政府も全力を挙げて救援に入ってくれましたし、東日本大震災の被災地に応援に入った時に学習した教訓などを生かして、我々県の支援も迅速かつ柔軟に行えたと思います。しかし、そんなことは今でこそ言えることで、被害が明らかになった時から続く恐怖と使命感がない交ぜになった精神状態で、とにかく死にものぐるいで救援活動や復旧作戦を遂行していた覚えがあります。そのプロセスで、司令官である私や、作戦に従事する一騎当千の職員が、前例や制度的制約などくそ食らえという精神で、ベストだと思う対策を考えついて即座に実施して行きました。孤立集落との関係で言うと、被災者の世話で手一杯の市町村に替わって、全県の道路の不通箇所を県職員が把握し、孤立している集落には警察部隊が県警ヘリを使って、衛星携帯を下ろして、状況をもれなく直ちに掴めるようにしました。必要な物資はすぐ届けられるようにしたのです。また、道路啓開は、県の指揮する建設業者部隊に加えて、国が大規模に行ってくれるところも組み合わせ、さらには自衛隊の工兵部隊が何カ所かあっという間に通れるように応急措置をしてくれました。しかし、このような官主導の復旧作業はもちろん大事ですが、和歌山県でも、まさに新プロジェクトXにあったように地域の建設業者さんが皆で力を合わせてどんどん道路啓開を『前へ』勧めてくれたのでした。
180もの不通箇所が発生してと先に申し上げましたが、中には、当時の和歌山県にしては幹線中の幹線というべき道路が崩れたり、崩れかけたりと言う事態が数多く起こりました。有田川沿いを通る国道480号線はこれから山間部に入ろうかという箇所の側面の崖が大崩落しそうな状況でした。そこを有田川町の地元の建設業者さんが集まって、分担を決めてあっという間に応急補修をして止めてくれたのでした。和歌山県の南部と北部を内陸で直結する幹線の、富田川沿いを走る国道311号は、熊野古道の入り口である滝尻王子に近い箇所で道路の背後の崖が山の形が変わるほどの大崩落を起こし不通になってしまいました。この道路は、高速道路整備が遅れた和歌山県でそれが出来るまでは南北を結ぶもっとも中心的な道路と位置づけをしていましたから、大変な痛手でしたが、地元の有力建設業者さんの連合軍に県も加わって、驚くべき短期間で直してしまいました。この時の直し方は、とにかくまず通れるようにするということを重視して、崩れた土砂を道路上に積み上げて固めて丘型の緊急非常用道路を作って、その後段々と時間を掛けて、臨時迂回路、本格的代替路と作っていく方法で行いました。余談ですが、そういうことを経験している身からすると、昨年起こった地震で不通になった海岸線を走る地方幹線道路が随分長い間通行不可のままにされていたのは疑問の残るところでした。話を戻すと、和歌山県のこのものすごい被害現場に行くと、発災4,5日後でしたでしょうか、山の斜面からまだ間断なく泥が道路面に流出し続けていて、道路を挟んだ一方は大きな川ですから、いったいこれはどういう風にして応急復旧をするのかと、暗澹とした気分になりましたが、そこには長靴姿もりりしい地元建設業者の雄、今は亡きO氏がすっくと立って思案をしておられたのでした。この方とは、この時ほどではない災害の時でも私が視察に行くといつも現場で陣頭指揮をしておられるのを拝見したものです。おそらくO氏をリーダーに地元建設業者の連合が結成されて、上記のようなプロセスで、あらん限り最短の時間で道路が通行可になったのです。おそらく和歌山でも、地元の一大事と言うときは地元の業者さんが大団結をして地元のために尽くしてくれるものだと私は思っています。
和歌山県は、私が知事になったそもそものきっかけである、前知事を巻き込んだ官製談合事件を経験したところですから、私は就任早々心血を注いで談合を許さない新しい公共調達システムを作りました。しかしその頃、世は建設業者悪人説で凝り固まり、何人かの知事はいかに自分は建設単価の切り下げを達成したかを誇っていました。しかし、悪いのは官製談合という行為であって、建設産業が悪であるわけではありません。私は、地域の建設業者さんはその地域の雇用の担い手でもあるし、災害時にもっとも頼りにすべき存在なのだから、闇雲に熾烈な競争を強いて、地域から建設業者がなくなってしまうことは避けたいと思っていました。前知事の官製談合を取材して気持ちが高ぶっているマスコミの方からは、私は業者寄りだと随分攻められたものでしたが、そんな世には迎合せず、競争はして貰いながらも、地域の建設業者が存続できるような制度を工夫して作りました。どう工夫したかは県の制度を見て頂くとして、ここでは述べませんが、紀伊半島大水害を経験し、地域の建設業者さんがあのような大活躍をしてくれたのを見て、その方針で頑張ってよかったなあと思った記憶があります。その関係で、こういう時に地域の建設業者さんが活躍できるように、私はもう一つ工夫をしました。それは、この時の応急復旧工事には、私が作った厳密な公共調達制度の本則は適用せず、すべて県の出先である振興局長の権限で発注し、発注方法も随意契約でよしというものです。一刻も早く復旧工事が動き出し、地域の建設業者さん達が地域の災害という一大事の時には結集して事に当たることが出来るように制度でも認めたのです。でなければ、勝手に皆で公共工事の仕事を割り振って事に当たるのはれっきとした談合ですから。かくして、和歌山県では全県でこのような、皆が力を合わせて早く、とにかく早く、災害の打撃から立ち直ろうという動きが始まりました。これが和歌山県が奇跡的に早期の復旧を果たし得た要因の一つです。なぜそこまで『早期に』にこだわるか。それは災害の打撃が大きいとき、早期復旧の見通しが立たないと、人々がこの地を見限ってしまうためです。ゆっくりと、完璧に復旧がなったとしても、一旦この地を出た人は大部分もう帰って来ません。近年は衰退が進みつつある方の地域に分類される和歌山県が、紀伊半島大水害という歴史的大災害にあっても、災害前と災害後でそれほど急速な人口減や所得減に見舞われなかったのは、ひとえにこの復旧の早さであったと私は思います。そのために、私も他の職員も新しい制度、方法をどんどん思いついては実行してきました。さらに、こういうことはいつの世でも誰でも思いつくとは限らないのだからと、和歌山県はこの新基軸をその後いわば常時軍化することに努力してきました。津波対策を含めて23項目にも登り、次に同じことが起こったらすぐに対応できることになっています。もちろん、こういう制度を使って、災害対策が再び早期に行えるかどうかは、その「なっている」ことを次の世代の和歌山県の人達が覚えていて、使い方を忘れず、かつ制度を壊してしまうことがなければということに懸かっています。
しかし、新プロジェクトXでも報じられたように、災害対策は、政府や和歌山県のような『公』の働きだけでなく、地域の『民』の働きにもよるところが大きいと改めて思います。さらに、新プロジェクトXに登場された人達は、皆誠実で何かのために一生懸命というオーラが漂っていました。その気持ちがあるからこそ、道路からずっと上を走っている高速道路への進入の坂道を作ってしまおうという、和歌山県があの災害の場で咄嗟に思いついて実行した数々の新機軸に繋がる発想が生まれたのではないでしょうか。必死で努力している人にしかこのような発想は生まれません。