『ルリボシカミキリの青』

 いいタイトルではありませんか。このタイトルに惹かれて、また福岡ハカセこと福岡伸一氏の本を買いました。どこかに連載したものの再掲のようですが、いずれも良いことを言うなあという話でした。

 ルリボシカミキリというのは、日本のカミキリムシ中最美麗の1つに入ると思われる瑠璃色の美しいカミキリで細い体のなんとも言えない青に黒い紋があり、ヒゲの各節には黒い房毛が生えているという素敵なカミキリムシです。私は高校生の時、当時まだ林業が続いていて、トロッコで運び出された広葉樹の材が積まれてあった高野山の奥の院横の土場でこのカミキリムシを採りました。本当にきれいでした。福岡ハカセが憧れた気持ちは本当に分かります。そう珍しい種ではないのですが、特に和歌山県ではどこにでも見つかるという普通種でもありません。最近になって護摩壇山のスカイラインや高野山の不動坂の土場や白馬林道の貯木場で何度か見ることができましたが、いつ見てもその美しさに見とれます。

 読んでいると、所々珠玉の言葉が出てきます。2つぐらい紹介します。

 アインシュタインの理論を証明したとされる写真は実は不鮮明で、どうとでも解釈できるものであったが、「私たちは事実を虚心坦懐に見ているのではない。私たちは見たいものを見ているのだ・・・福岡ハカセはこの逸話の事を考える。自戒の意味を込めて。」

 世の中で、そうだそうだという世論なるものが一度出来ると、皆が虚心坦懐に真実を見ようとするのではなく、決められた方に事実を解釈してしまうという事があまりにも多いということをいつも痛感します。でも私自身もそうしていないか。私はあまりテレビのコメンテーターの言う事など信じないタイプではありますが、逆に自分自身がこうあってほしいという世界に目がくらんで真実を見る眼が曇っていないか、いつも自戒をしないといかんと思います。

 「懐かしさの正体はモノやコト自体にあるというよりも、その時の自分が懐かしいのである。つまり懐かしさの正体は、一種の自己愛なのだ。」
 「懐かしさとは、愛おしいペットのような自己の記憶なのだ。時に人はそれに足をとられ、しかし時にそれは解毒剤のように何かを溶かし慰撫してくれるものでもある。」

 本当に良い事を言うなあと思います。段々と年をとってくると、多くの過去が思い出され、感傷に浸りがちになります。感傷は甘いものです。本当は、その記憶のもとの事象が発生した時は、多くの場合我々は死に物狂いに人生でもがいていたくせに、時間が経つと苦しさや苦さを忘れ、ひたすら感傷の世界でたゆとう事ができるのです。それは、一種快いものであります。何故快いか。なるほど自己愛だからか。そうかもしれないなあと思います。しかし、感傷に浸っていては、何かを生み出すことはできません。使命を果たすためには、もう少しは感傷を封印して阿修羅のようにあり続けなければならないのでしょうか。