トム・クランシーを知っていますか

 アメリカの作家の名前です。いわゆる軍事スリラーというような作品を数多く書いているベストセラー作家です。2013年に亡くなりましたが、亡くなる前から作品は共著で書いていたので、今後はその共著者が同様の作品を書いていくことになるでしょう。
 作品群は三つに分かれます。もっとたくさんあるかもしれませんが、私は知りません。
 一つは、「レッド・オクトーバーを追え」という作品から始まるメインのシリーズです。(あとの2つは、サイバーテロリズムを描く「ネットフォース」シリーズと、新しくできた統合スパイ機関の活躍を描く「オプ・センター」シリーズです。)この「レッド・オクトーバーを追え」は、ソ連(まだソ連です。)が作った最新鋭のスクリュー音のしない潜水艦の中で、国家の暴虐に耐えかねた艦長以下の乗組員が反乱を起こすのですが、それを助けようとするCIAの工作員ジャック・ライアンがこれを阻止しようとするKGBのスパイと激しく戦い、追ってくるソ連の攻撃型原潜の目を欺いてレッド・オクトーバーを米国に亡命させるに至るというストーリーです。この作品は大ヒットしまして、映画にもなりました。ジャック・ライアン役にアレック・ボールドウィンが、艦長役に007のショーン・コネリーがなりました。作品はどんどん続いて、第二次朝鮮戦争が起きたり、米欧が戦争をしたり、コロンビアの麻薬組織と戦ったり、小型原爆をアメリカンフットボールのスーパー・ボウルの会場で爆発させようとするテロリストと戦ったり、米中戦争が起きたり、イランと戦争をしたり、果ては日米がもう一度戦争をしたりとどんどん話が続きます。
 日米の戦争は、第2次大戦の敗北の恨み濯がんとする日本のある財界人が陰謀を企み、米国に奇襲攻撃を仕組んで戦争になり、それが失敗に終わった後、仲間のJALかANAかのパイロットがジャンボ機でキャピトルヒル(国会議事堂)に突っ込んで、米国大統領を含む多くの議員が犠牲になるというものすごい話です。第1話からの主人公CIAの工作員ジャック・ライアンは、どんどん国を救い、その結果どんどん出世し、副大統領の汚職と陰謀を暴いて副大統領に就任したその日に、上述のジャンボ機の突っ込みにより大統領が亡くなったので、何と米国の大統領になってしまうのです。
 大統領になってからも、ジャック・ライアンの活躍というか、陰謀への対処というか、活躍が色々と続きます。テロ国家との戦いやテロリストとの戦い、さらには、それらを利用して自らの栄達を図ろうとする米政府内部勢力との戦いなどもあるわけです。そして一度大統領をやめてから、再度登板もしますが、その間驚くべき事に、政府にかわって反米テロリスト勢力を叩くための、諜報、情報収集からテロリストの殺害まで行う民間組織を作ってしまうのです。その組織の一員として、ジャック・ライアンの長男ジャック・ライアン・ジュニアが活躍することになります。
 そしてその最新作を3つ上げると、何と米中開戦、米露開戦、そして米朝開戦なわけです。その中ではロシアのウクライナ侵攻の前に、それを予言するようなロシア・ウクライナ紛争を描いたり、中国による強烈なサイバー攻撃を描いたり、北朝鮮には、金正恩そっくりなむちゃくちゃな国家指導者が現れ、最近の安全保障上の重要案件であるレアメタル大鉱床が北朝鮮で発見されたり、その開発のための外国人の技術者の誘拐が行われたり、ついには、国家指導者の差し金による米国大統領爆殺テロが描かれたり、中々面白いというか、世界情勢を理解する一助になるような場面がいっぱい出てくるのです。
 このようなストーリーは、もちろんトム・クランシーの創作ですが、結構よくできているので、現実にもそういうことが起きるかもしれないなあと考えてしまうことが多々あります。
 私は経済産業省出身でもともと経済の人でありまして、軍人ではありません。平和の好きな経済の世界の人です。しかし、例えば通商政策を遂行していく上で、安全保障の問題が純粋通商関係にいかに影を落としていくかを嫌と言うほど経験してきました。1980年代はよく欧米との貿易摩擦を担当していましたが、当時経済的苦境にあった米国は、経済が好調な日本に次々と理不尽な要求を突きつけてくるのです。それは時として本来同盟国である日本に対して米国民が敵視するような激しさとなります。
 中でも、鈴木善幸首相が訪米し、米国のレーガン大統領と結構仲良く対話をして帰国する機内で「日本は米国の同盟国ですか」と記者に聞かれ、否定的なものの言い方をしたために、米国の世論が激高したことがありました。その時は貿易摩擦のレベルが一挙に跳ね上がるのです。それを必死でしのいでいたら、中曽根康弘首相が登場し、就任早々まず韓国へ行って、全斗煥大統領と大変親しい関係を結び、韓国は日本が支えると言うことも含めて安全保障上の同盟関係をアピールし、レーガン大統領と大変良い関係を結ばれました。日本列島は「不沈空母」だと言われたのもその時です。それを見たホワイトハウスを始め安全保障を主として担当している人たちが、一斉に貿易担当者に「日本をたたくな」というシグナルを発してくれたように見えました。貿易摩擦のエネルギーも急速に小さくなっていったように見えたのです。

 日本人は平和が大好きですし、自らは心の底から平和主義者ですから、安全保障問題への想像力が弱いように見えます。しかも、もとより言霊信仰の国ですから、安全保障とか、軍事バランスとか、国防とか、兵力とかを口にすることすら嫌がる人々が多いと思います。しかし、現実には経済も社会も文化も国際関係は皆安全保障上の制約のもとに成り立っています。したがって、当時私は通産政策局総務課調整班長という、いわば通商政策の参謀役をしていたのですが、「安全保障が分からん奴は通商を語れない」などと偉そうに豪語し、現にその関係の勉強会に入れてもらったり、防衛庁技術参事官などと仲良くして、色々と世界の最新の軍事情報などを仕入れたりしていました。その際は、子供の頃から『丸』や『航空ファン』、『航空情報』などを読みふけっていた時以来の基礎知識も生きました。
 そういう方面の知識が少しあると、現に世の中で起こる様々な時局問題に一定の見識ができます。「レッド・オクトーバーを追え」で出てくる潜水艦の静穏度の問題は、何故日本が東芝機械事件で通産省の若手職員に過労による殉職者が出るほどの大変な目にあったかの出発点ですし、日本の自衛隊の潜水艦部隊の強みなども分かります。オスプレイがことさら危ないといって騒ぐ人々がいかに現実を分かっていないかということを判断する材料を与えてくれます。

 一連のトム・クランシー作品の訳者である田村源二さんが米露開戦の訳者あとがきで、『トム・クランシーが残した(もうひとつの)功績は「安全保障上の脅威を読者に気づかせ、どうすればよいのか考えさせる」エンターテインメント小説ジャンルを創造し、確立したこと。』と言っておられるのは実に慧眼だと私は思います。
 前々から決まっていた普天間基地の名護沖への移設を、一度県外移設を実現してやると空約束をして、最後はそれをまた覆し、一旦マインドセットされていた沖縄の人々の気持ちを大いに惑わし、傷つけた鳩山由紀夫元首相があの時いみじくもおっしゃったように、「抑止力ということが初めて分かった」では、現実の政治を考える人はいけないのであります。皆さん、トム・クランシーを知っていますか。