本後援会の会計責任者島村不二夫さんが、この本を持ってきてくれました。島村さんは、私の小学校からの友人ですが、大変古くから事業をしているお家の出身で、昔は大変なガキ大将であったのですが(ただし、正義の味方としての)、長ずるに及んで大変円満な人柄となり、アメリカの大学などで学んだハイカラな経歴がおありなのに、常に人の道を説き、日本を礼讃してやまない人であります。こんな人に会計を見てもらっていたら、我が後援会も、また政治家としての私のあり方も不正とは一切無縁でいられると思い会計責任者をお願いしているわけです。
しばらく、「積んどく」状態になっておりました本書を読んでみました。感激して涙すること数知らず、是非多くの人々、子ども達はもちろん、道徳教育をろくに受けずして世に送り出された世代の方々も読んでもらいたいと思いました。内外古今の逸話を「しっかりとした自分」「人とのかかわり」「かけがえのない生命」「公と私」「誰かのために」という5部に分けて配し、13歳からと銘打ってあるように平易な文章で読者に語りかけています。
その逸話の中には、濱口梧陵さんの稲むらの火と串本・大島の町民のエルトゥールル号事件という本県に関連するお話が2つも載せられていて、和歌山県の県民として、まことに誇らしい思いがいたしました。
私が知事に就任してから教育委員会の方々と大いに議論して、いくつかの教育改革をしました。その1つがきちんと心の教育をしよう、道徳教育(別の名では市民性教育)をしよう、というものです。
何故これが大事か私がいつも県民の方々に語りかけているのとそっくりな言葉がこの本の中で本田宗一郎さんの言葉(「一人で世間は渡れない」)という中にあったので引用します。
「人間にとって大事なことは、その人に学問があるかだけではない。やはり他人から愛されて、喜んで協力をしてもらえるような徳をもった人間を育てることだと思う。つまるところ学問にしても、技術にしても、この世の中の全てのものは、人間に奉仕するための一つの手段にすぎない。だから単に学問ができる、技術がある、だから人より偉いというのは大きな間違いだ。もちろん学問なり技術があるということは立派なことには違いないけれども、それを人間のために有効に使ってはじめてすぐれた人間だということができるのだと思う。何よりも大切なことは人を愛する心ではないだろうか。商売でも同じことである。ただ儲ければよいというものではない。もちろん誰しも儲けるために仕事をしているのだけれどもそれが他人のひんしゅくをかうようなやり方であれば、一時的にはともかく、長い目で見るとやはりそこには商売を通して社会に奉仕するという考え方が基本に流れていなければならないと思う。」
日本人は皆教育熱心ですが、子ども、親ともにどうやってよい学歴をつけるか、よい大学に行くかに少し片寄っている気がします。もちろんそのために一生懸命勉強することはそれ自体として価値のある事だし、いいと言われる大学に入れば、それだけ多くの勉強のチャンスにまた恵まれると思います。しかし、大学入試をすました後、より大事なことは、「あいつはいい奴だ」と人に思われる事だと誰でもすぐ気付くはずです。大学でも実社会でも家庭でも、人生は皆人と人との関係です。「いい奴」なら、学生生活も豊かになるし、就職活動でも絶対に有利になると思うし、会社に入っても業績が絶対に違ってくるはずです。例えば会社ならば、上司も同僚も部下もお得意さんも、協力者もいて、そんな人との関係で仕事をしていきます。その時、「いい大学を出たらしい」という事より「いい奴じゃないか、信頼できる奴だ」という事の方がはるかにものを言うのは、考えれば当たり前の話です。この事がどうしても認められなくて、よけい荒んだ人生を送ってしまう高学歴の人達もいないわけではありません。
それならば「いい奴」を作るにはどうしたらよいか。私は子どもの頃から人の道を説くしかないと信じます。すなわち道徳を教えるということです。この点について、戦後教育は明らかに誤りをなしたと私は思います。戦争に負けたことは戦前のすべてが悪かったのだ、だから全否定をしようとして、人の道=道徳=戦前は修身の教育を否定してしまいました。そして修身教育が軍国主義につながったのだからという思い込みで、道徳を教壇から説くことを教育者が躊躇してしまったのです。
それでも長い時間をかけて形成されてきた日本人のものの考え方はそう簡単には変わりません。正義、正直、誠実、約束は守る、思いやり、優しさ、自己献身、社会・国家への愛情、・・・・日本人は、自然に行動することによって世界中で評価され、それが日本の戦後の経済発展につながったことは間違いありません。また、日本で軽薄なマスコミが流す虚像よりもはるかに日本と日本人は尊敬され、憧れをもって見られています。
しかし、長い間の道徳教育への逡巡がその日本と日本人を次第に壊し始めているような恐怖を私は抱いています。したがって、まだ遅くない、せめて和歌山では人の道を教師が教壇から堂々と説こう。道徳教育とは、生徒が勝手に自己主張することではなくて、道徳を子どもたちに教えることです。
教育の現場までこの思いが届くことを、そして教員の一人一人が子ども達に人の道を説いてくれることを私は願ってやみません。人に道を説くことは、自らの人生を顧みることにもなります。子どもに言っておいて、それに反することはできない。社会の指導者が皆にそう説いて、自らそれに反することはできない。こうして教育を通じて、和歌山は世界に尊敬される地になるはずです。
そういう人材を輩出する地域だとの評価が固まれば、和歌山出身の人材はもっと世間で活躍できるでしょう。また、そういう人材が育まれる所だと皆が認識したら、人々は和歌山に「こぞりて集う」はずです。これは企業誘致にも、観光にも、移住交流にも効果を及ぼすはずです。稲むらの火もエルトゥールル号も生んだ和歌山です。できないはずがありません。