70代、80代の昆虫少年

 何度もこの欄で申し上げましたが、私は昔からの「昆虫少年」です。小さい時から、蝶の採集や収集を続けていて、この歳になるまで、少年の時の心を失くしていない現役の愛好家なので、若干のアイロニーを込めて「昆虫少年」と称しています。
 私の子供の頃は、昆虫少年がたくさんいて、家の周りにある空き地や林で、ネットを振るったりしていました。私の家は地方都市でしたから、家の周りにはたくさん緑があったのですが、当時は東京などでもところどころにそういう空き地があって、昆虫少年が活躍できる場があったと思います。そういう昆虫少年は、今や70代、 80代になっていて、昆虫の趣味をやめてしまった方もるけれど、いまだに「昆虫少年」を続けている人もたくさんいます。その後の環境変化や社会の変化で、新しい、若い世代の昆虫少年がなかなか現れないので、 70代、 80代の「昆虫少年」が愛好家のマジョリティになっていますけれど、皆さん、だんだん年を取っていくわけですから、その意味で「絶滅危惧種」の恐れもあります。
 しかし、今でも昆虫の趣味を続けている70代、80代の「昆虫少年」は、大変な見識のある実力者がおられて、その実力には本当に感心を致します。

 最近、そういう「昆虫少年」が集まる会合で知り合った寒川正明さんにお聞きして、寒川さんがお作りになったツマベニチョウの図鑑を購入致しました。寒沢さんも私ぐらいのお年の「昆虫少年」です。ツマベニチョウは、アジアに広く分布しているシロチョウ科の蝶ですが、シロチョウ科の蝶にしては大変な大型の美麗種で、日本では、その分布は南西諸島が中心で、分布の北端は南九州です。それぞれの地域の個体には少しずつ翅の模様が異なる地域変異があって、全世界的には、いくつかの亜種に分かれていますが、同一亜種の中でも少しは変異があって、おそらく、寒沢さんのような方は、標本を見ただけでどこの産かと分かってしまうのではないかと思います。寒沢さんの図鑑はそのような変異のある各地域のツマベニチョウを、すべて網羅した素晴らしい図鑑であります。この図鑑には、私が採集したブルネイ産のオスの標本も載せて頂いていますが、大変名誉なことだと思います。この図鑑は、ほとんど全地域のツマベニチョウを綺麗な図版で明示し、解説も付けられていて、世界に類を見ないものです。よくここまで集められたものだと心から尊敬します。

 寒沢さんに限らず、70代、 80代の「昆虫少年」には、素晴らしい業績を上げておられる方がたくさんいらっしゃいます。最近では「世界のコムラサキ」という素晴らしい図鑑を作られた増井暁夫さん、世界のフタスジチョウとホシミスジの研究をされて、ホシミスジの立派な図鑑を出された福田晴男さん、うっとりするような素晴らしい蝶の飛翔写真集を出された荻野秀一さん、「私のラオス蝶類図譜」をまとめられた小野寺博昭さん、「合衆国の蝶」を書かれた白岩康二郎さん、「世界のアゲハチョウ図説」を書かれた中江信さんなど、名を上げきれないほど非常に多くの方が立派な業績を上げられています。さらに個人的にごく親しい人でも、「日本列島の蝶」の最終巻の執筆に余念がない大屋厚夫さん、長年のターゲットのサハリンの蝶の集大成を出そうとしておられる朝日純一さん、朝日さんと一緒に日本の蝶の地域変異を種別にどんどんまとめて出されている有田斉さん、ベニヒカゲだけにこだわって、各地の標本を集めて公表しておられる長岡久人さんなど枚挙に暇がありません。また、蝶の世界でも専門的な雑誌がいくつかあって、そういう雑誌を眺めていると、やはり70代、 80代の方々がものすごくレベルの高い論文を書いておられることを発見します。素晴らしい「昆虫少年」です。
 私はといえば、とてもそのような方々と同じようにはいかないのですが、職業柄、ヨーロッパやブルネイでしばらく勤務していたので、その地域にいる蝶を余暇を見つけてはせっせと採集し、コレクションをしていますので、学はありませんが、それらの地域の蝶については日本の中ではまずまずのものがあると思います。その成果は、日本鱗翅学会の機関紙「やどりが」のヨーロッパの蝶や蝶の専門誌「ゆずりは」に連載をしたり、「ブルネイの蝶」という図鑑を発行したりして公表しています。しかし、もとより大した学識はありませんので、それぞれの蝶のグループごとに高い見識を持っておられる人がいますので、その方々を頼って、分類などのご指導を仰ぎました。皆さん、大体同じぐらいの年ですが、素晴らしい学識だなあといつも感心をしています。

 もちろん、「昆虫少年」といっても、それほどレベルの高い人ばかりではありません。私もそうですが、学識はそれほどでなくても、趣味として、様々な角度から蝶との関わりを楽しんでおられる方も各界にたくさんいらっしゃいます。我々が本当の少年であった時代は、皆多かれ少なかれ網をもって走り回っていたのですから。その楽しみを、それぞれの世界で頑張りながら、ずっと保っている人もたくさんおられるのです。そういう方は、経団連会長、パラリンピック実行委員会会長から、人間国宝まで、それこそどの世界にもおられます。大きな会社には一人や二人はおられるものです。そういう「昆虫少年」と昆虫の話を仕事の合間にするのはまた楽しみです。
 大物政治家であった鳩山邦夫さんはその一人でした。鳩山さんは政治の世界で有名なだけではなく、蝶の世界でも特に蝶の飼育に関しては第一人者と言ってもいいレベルの方です。和歌山県知事だったころ、仕事柄よくお話に行くのですが、いつも蝶の話になって周りの人に迷惑がられます。総務大臣でいらっしゃったときには、大臣が蝶の話をしていつまでも終わらないので私はいつも秘書官室に叱られていました。鳩山さんは私がブルネイの大使をしている時、蝶を採りにわざわざブルネイまで訪ねてきてくださいました。また、政治家としても大変お世話にもなりました。あのように早く天国に旅立たれたのは返す返すも残念です。
 同じく大変残念なのは、若くして難病になられてお亡くなりになった村田康隆さんです。村田さんは若いころはすぐれた蝶の採集者であり、コレクターであるのですが、有名なのはその素晴らしい蝶の写真集です。私ともずいぶん前から仲良くしていただいていて、鳩山さんと同じく、ブルネイにも訪ねて来て下さいましたので、ブルネイの奥地の蝶の撮影スポットに案内しました。村田さんは、村田製作所の社長として、当時は世界中の村田製作所の工場を見て回っておられました。その合間の休日に蝶の撮影をされるのです。村田さんが偉いところは、休日以外はきちんと仕事をされるところで、もし私が村田さんのように創業社長であったら、世界中に出張だと言いながら仕事をほっぽり出して休日だけでなく毎日蝶の採集にいそしんでいるだろうなと思いました。お亡くなりになる前、ほんの数度ですが、京都・山科の療養施設にお見舞いに参上したのですが、ブルネイの撮影時のお話を申し上げたら、お口ではもうお話になれないのですが、その時のことを思い出されてか、激しく嗚咽されたのが今でも忘れられません。

 こういう「昆虫少年」同士が会って話をいたしますと、相手のレベルがあっという間に分かってしまいます。そうすると言葉が悪いのですが、自然と目上、目下の関係が出来ます。その際は、世俗の世界の地位などには全く関係のない、この分野の実力に関する序列が出来るわけであります。それぞれの世界で素晴らしい活躍をしておられる方と蝶の世界でこのような関係が出来るということは素晴らしいものであります。
 私は、知事時代によく、「蝶の人脈だけでいろいろな仕事がどんどん進むよ」と周囲の人に言ったりしていましたが、有り難いことであります。

 私はこれまで、かつての「昆虫少年」、今は70代、80代の昔昆虫少年であった人の話ばかりしてきました。そして、若い人がなかなか後に続かないので、「昆虫少年」は絶滅危惧種だと言いました。しかし、数は少ないながらも、若い世代にも優秀な「昆虫少年」は確実に生まれていることを述べないと公正を欠くでしょう。。
 昔、我々の若いころ、昆虫にのめりこんで、学業や世俗の仕事をほっぽり出して、昆虫を求めて世界を放浪する若者が現れました。人呼んで、「昆虫浪人」と言うのですが、今も若い人で、世界中の秘境に乗り込んで希少種をゲットしてくる猛者がいます。その代表格の楠本優作さんは、普段は病院の勤務医として正業も頑張っておられるところが、その昔の「昆虫浪人」とは違います。楠本さんに限らず、先ほど紹介した専門の雑誌にも我々よりずっと年下の大変高い学識を誇る人がよく登場します。そのうちの一人、山元修成さんや、斎藤基樹さんには採集に連れてもらったり、大いにご指導に預かっています。「昆虫少年」は数は減ったけれど絶滅することはないのです。
 それに最近特に感心しているのは、昆虫の研究も我々の時代にはなかったようなジャンルのものが増えていることです。我々の時代には、蝶や甲虫、トンボと言った目立つ昆虫の、まずは分類、分布、そして、幼生期を含む生活史、生態と言ったところに皆関心が集中していたと思うのですが、今は様々です。地下深くの洞窟に住んでいる昆虫、地下水に住む昆虫、アリの巣に紛れ込む好蟻性の昆虫など、色々なジャンルにその関心分野を広げており、そういう分野の知見の集積がかなり高くなったと思います。そのせいでしょうか、最近買った素人向けの昆虫の生態を面白おかしく書いた本の中身を見ると、私も知らなかったような昆虫の生態に関する多くの知見が面白く紹介されていました。(小松貴「虫たちの生き方辞典」など)小松さんなど最近よく著作を発表されている若手の昆虫「学者」は、結構ハチャメチャなところが、我々の時代の若者、特に「昆虫浪人」になってしまった人達に通ずるものがあります。

 昆虫と関わっていますと、そこからさまざまなことが分かります。自然や環境に関する生きた知識が自然と身について、世の中で語られるような環境に関する議論が時々いい加減であるということも分かります。昆虫に会うためには旅行も山登りもしなければなりませんので、自然と色んなところに行ったり、異文化に触れたりします。冒頭ご紹介したような知的レベルの高い「昆虫少年」のように、自然と科学する心が身に付きます。そして、昆虫を介して多くの「昆虫少年」と交流が出来、昆虫に関する会話を楽しみ、一緒に採集に出かけたり、おいしいものを囲んで歓談が出来るのです。私は、つくづく「昆虫少年」でよかったと幸せを噛みしめています。

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