プロジェクトXより-ダイヤモンドプリンセス号事件
今年から復活したNHKのプロジェクトXは素晴らしい企画続きで、毎回感動の涙とともに視ています。そのうちで最近、とてもよい企画であるとともに私の係わった事柄との関係で新発見をした番組と、これはひどいではないかと名作続きのプロジェクトXにしては珍しく問題がある番組を見つけましたので、その両方をご紹介しつつ私見を述べます。
まず今回は、問題があると思う方から。12月7日放送の「クルーズ船集団感染 災害派遣チーム葛藤の記録」がそれです。この番組は、コロナの流行の初期、巨大なクルーズ船の中でコロナが発生し、最終的には712人の感染者と14人の死者を出した事件の際、決死の覚悟でダイヤモンドプリンス号に乗り込んで人命救助と感染防止に取り組んだDMAT(災害派遣医療チーム)の方々の活躍を描いた物語です。災害が起こると,全国からDMATの医療チームが乗り込んできて下さって、大混乱の現場で医療活動に従事してくれるわけですが、和歌山県でも紀伊半島大水害の時を始め何度もDMATには御世話になっていますし、知事が命令をしてというわけではありませんが、他県の災害時には和歌山県からも大勢のDMATチームが出撃してくれたのを良く存じています。番組では、コロナという未知のウイルスに対して、敢然と立ち向かったDMATの方々の活躍を描いていて、それに関しては感動こそすれ何の批判もありません。ただ、問題は、ダイヤモンドプリンセス号で起こったコロナの発生に関して全体のオペレーションがあれでよかったのかと言うことで、番組ではそれが全く欠落していました。コロナとの戦いも一種の戦争ですから、作戦司令部が戦争のやり方を立案して、そこに現場の部隊が立ち向かうのですが、現場の部隊がいかに勇敢に戦おうとも、作戦がまずければいい成果が上げられるわけがありません。その視点が番組では全くありませんでした。私は当時和歌山県知事でしたが、知事は感染症法上、国の指導を受けながらも県内の保健医療機関を率いて県民の生命を守る責任者でしたから、これはえらいことになったと身構えつつ、後に有名になる野尻孝子技監健康局長達関係スタッフから、世界の感染状況やこの病気の特性やらを教えて貰って勉強していました。そういう状況下でまず起こったのが、コロナが広まっている中国の武漢市からの邦人の帰還です。この時は政府が特別機を飛ばして、邦人を日本に返すオペレーションをきちんと実行しました。特別機で帰還した邦人は発熱等の症状が出た人は帰国後直ちに他の人々と分けて病院に収容し、残りの人も今は発症していなくても感染している可能性はあるのでホテルに分宿して貰って、もう感染リスクはないと言う時期になってはじめてそれぞれの生活に復帰して貰いました。私はこれを見て政府もなかなかやるなあと感心していました。ところが、その後起こったダイヤモンドプリンセス号の集団感染においては、武漢からの邦人引き上げであのようにきちんとした対応を行った政府が、何故今度はかくも問題を含むオペレーションをされたのかというのが私の抱いた感想でした。もっとも、船の中の管轄権の所在は大変複雑で、中に乗っている人々も乗客乗員を問わず極めて多国籍ですから、しかも前例のないこういう事件の対応となると、それが容易ではないと言うことは私にもよく理解できます。しかし、横浜港に接岸している状態で、日本政府以外に有効に人々の命を守れる組織はないわけですから、色々複雑な事情があってなどとは言っていられません。現に政府も対応の指揮に入り、日本のDMATも船内で活動したわけですから、これは十分に我が国の問題であったと思います。番組では、神奈川県の衛生技官でDMATの関係者がこのオペレーションを要請したように描かれていましたが、いつもなら災害対策の責任者は知事ですからそうであるべきであったかも知れませんが、遠く和歌山からはらはらしながら見ている限りは、神奈川県庁が主導権を取ったようには見えませんでした。国が方針を決めて、指令を発しているように思えました。その前提で考えても、船内で多くの感染者が出ているときに発症者も健常者も皆一緒に船内に留まらせたというのは、それはないのではないかと和歌山からも腹立たしく思いつつ事態の成り行きを心配していました。コロナはとにかくよくうつります。しかも、感染から発症まで数日から時には10日もかかることがあります。さらに、コロナウィルスは発症者ないし感染者の体内にだけいるとは限りません。船内での社交やアミューズメント、レストランでの食事が前提になっているクルーズ船内では少なくとも事態の発覚前は感染者も動き回っています。だから、どこにウイルスが潜んでいるかも分かりません。したがって、DMATの第一陣が乗り込んだときには感染していなかった人も、船内に留まっていたら新しく感染する可能性もあります。たとえ乗客が個室に閉じこもっていたとしても、同室の家族から新たにうつる可能性もあるし、廊下やトイレなども少しは利用するでしょうし、まだ健常かどうかも分からない乗員が持ってきてくれた食事や食器からもうつることも大いに考えられます。したがって、多くの人を感染源の中に放り込んだままにしたと言ってもそう過言ではないのではないかと私はあのとき思いました。どうして、水際だって素晴らしかった武漢からの邦人引き上げと同じオペレーションが出来なかったのかと思います。すなわち、もちろん発症している人は直ちに病院での入院隔離とするべきでしょうが、残りの人も一旦船から全員を降ろして、武漢引き上げの時のようにどこかのホテルか、個室のある何らかの施設か、なければ自衛隊の基地の宿舎のような所に入ってもらって、そちらの個室内に留まっていただいて経過観察を行い、その後の検査で陽性になったり、発症したりした人が現れたら病院に隔離収容するという基本的なことがどうして出来なかったのかと思います。ダイヤモンドプリンセス号の場合の人の数は武漢帰還の場合の人の数とは一桁違う数なのだから、そんなことは出来ないという反論も有るかもしれませんが、日本のキャパを考えると、それこそ厚生労働省を先頭に政府が総力を挙げて、諸機関を説得したら、数千人の人達を隔離収容する施設を見つけることは出来ない相談ではなかったのではないかと思います。
感染者の全員入院をオミクロンのために打ち破られるまで死守した和歌山県では、一時は600床以上の病床を野尻技監を筆頭に各病院に頭を下げまくって確保し、さらに必要に応じて濃厚接触者のためにホテルや完全御世話付自宅隔離を組織化してきたのですから、地方の県などより断然強力な政府が総力を挙げて施設やコロナ対応病床確保に邁進したら、あの頃はコロナと言ってもダイヤモンドプリンセス号案件しかなかったのですから、数千の個室を確保することは十分出来たのではないかと思います。また、同様に感染者や発症者を入院させるべき病床の確保も、あのとき政府が幹部を含めて本腰を入れて要請すれば、もっと容易に確保できたのではないでしょうか。(番組では主人公の一人である県のDMAT指令役の官僚がコロナ感染者の受け入れ病院を探す努力を行い、ようやくいくつかの病院が受け入れを表明してくれたのを天恵であるかのように喜んだように描かれていましたが、これも相当に変な話です。こういう仕事は本来は神奈川県の一中堅幹部に丸投げするような仕事ではなく、上層部を含め政府をあげて取り組む仕事のはずであり、本当にこの中間幹部に丸投げされていたとすると、むしろあのときの政府や神奈川県のトップは何をしていたかと言う問題になる話だと思います。)また、その後のコロナの展開を見れば、受け入れの可能な病院は本来もっとあったはずであり、感染不明者の受け入れ施設も含め、当初からこのプロジェクトのトップの作戦指導に問題があったことは明らかではないでしょうか。
私がこう言うと、多少本件に詳しい人は、そういう和歌山県だって、最初の病院クラスターを起こした済生会有田病院のコロナ感染の時は、コロナ発症者を他病院に移送入院させたほかは、入院患者を院内に留め置いたではないかと言う指摘がありそうです。しかしあのときは二つの理由でそうせざるを得なかったし、そうした方が好都合な事情があったのです。一つは入院患者はもともと体がかなり悪いので入院しているのであって、容易に移動させられないと言うことです。二つ目は問題の施設は病院であって、その性格上医学的設備も衛生環境も整っているし、元々患者は自室にこもっていて患者間の交流はほとんど無く、また、患者さんを一人ずつ個室に入って貰いさえすれば、治療看護に当たる少数のスタッフとの最小限の接触を除くとかなりの程度の隔離が出来るということであります。一方ダイヤモンドプリンセス号は病院ではありません。アミューズメントの施設です。しかも最初の発熱者の発生からかなりの期間が経過しており、クルーズ船の性格上多くの人が船内で自由に活動していたわけですから、ウイルスの暴露も極めて広範囲に起こっていることは確実です。したがって、和歌山県では半ば強引に済生会有田病院を県の指揮下に置き隔離に全力を挙げた結果、ただでさえ命が危ないような病人を多く抱えながらも、感染者を初期に発見された5人に留め、残念ながら亡くなった方も一人しか出さなかったのに対し、ダイヤモンドプリンセス号では、前述のように感染者も健常者もウイルスがいっぱい残っているような船内に留まらせた結果、問題発覚からかなり後になってからの感染も含めて712人の感染者、14人の死者を出す結果になっているわけです。しかも、このような感染者、死者は発病前は入院をしなければいけないような病人であった人ではありません。お年寄りは多かったかも知れませんが、そして何らかの持病はおありになった人もいたかも知れませんが、皆さんクルーズ旅行に出かけようかと言うお元気な人達であったことは確実です。それが「船内隔離」という、「隔離」と言うよりは「閉じ込め」のオペレーションによって、多くの人達が感染し、何人かの人達がお亡くなりになってしまいました。
その現場に、DMATの方達は突入したわけです。その業績はプロジェクトXで報じられていたように、素晴らしいものがあったことは誰も疑いません。しかし、コロナ対策は現場の奮闘を効果あらしめる医学的に正しくて論理的合理的な作戦によってはじめて十分な効果を上げるものであります。その部分が完全に欠落しているこのプロジェクトXは、その企画にいささか問題があったように思います。実は番組でも、現場のDMATの人でさえこの時のオペレーションに問題があったと思っている人が多かったのではないかということを窺わせるような場面がありました。県行政の中堅幹部である出席者が自信に満ちて往時を振り返っているように見えたのに対し、DMAT活動を裏方で支えた鈴木さんと言う見るからに立派な方が、この時のDMAT活動の成功を称えるはずの最後の場面で、「私はもっと他にやりようがあったのではないかと言う思いはありますが。」とぽつんと言われたのです。
このダイヤモンドプリンセス号のオペレーションに私がかくも批判的であるのは、この事件から125年も前に、同じ日本政府によってなされた成功物語があるからであります。1895年日清戦争は日本の大勝利に終わりました。そして出征した兵員は日本に引き揚げてきたのですが、その引き揚げ船の中で今回と同じような感染症の大発生が起こります。このような感染者をそのままそれぞれの故郷に帰してしまったら日本中が感染症の大流行になってしまうでしょう。そこで現在の厚労省に当たる内務省衛生局長を務めた後、当時臨時陸軍検疫部事務室長であった後藤新平が感染症対策の作戦を立案しました。後年日本を背負ったと行っても良いあの後藤新平です。後藤は瀬戸内海の似島に臨時検疫所という収容施設を急遽作り、多くの帰還兵を引き揚げ船からこの収容所に移して、発症者と未発症者に分け、前者は治療を施し、後者は経過観察をして一定期間が過ぎても発症しない者を健常者として故郷に送り返すという壮大なオペレーションを敢行しています。くどいようですが、感染者も、非感染者も一緒に長く船の中に閉じ込めたわけでは決してありません。ダイヤモンドプリンセス号事件を思い返すにつけ、現代に後藤新平はいなかったのでしょうかと言う思いに釣られます。
私は和歌山県知事として、その後約3年間和歌山県のコロナ対策を指揮してきました。私も、和歌山県も分からないことばかりで、その時々に、上記のような感染症にまつわる昔話を勉強したり、一流の学者さんに教えていただいたり、自らの失敗から学んだノウハウや、欧米と日本の感染症対策上の根本的な相違についての発見(欧米には保健所はありません。感染症法も日本のようなものはありません。)から、経済学の知識まで動員して、県民のためにコロナと対峙して働いて来ました。もちろん政府に助けられることもあったし、逆に和歌山県で得た知見から政府にコロナ対策のあり方を何度も進言したりもしました。しかし、その進言はあまり入れられたことはありません。それどころか、一部の県の専門家が主導して、県の感染症法上の義務を免れよう免れようとする動きが起こり、県民を守るためにその動きに抵抗することすらせざるを得なくなりました。私にはこういう動きは、本来県の、そして知事の責任になっているコロナ対策の重荷を下ろしたいと思ってやっているとしか考えられませんでした。和歌山県はもちろんですが、地方の県を中心に、全力を挙げて、しかも成功裏にコロナと戦っている県が沢山ある最中にも係わらずにです。あのとき県が手を離してしまえば、感染は一気に増えて、県民を守るという一番大事なことがおろそかになりそうでありましたし、県が責任を放棄して逃げてしまえば、その責めは逃げようがない政府に向けられることになったはずであります。現に、コロナ対策が地方によって成果に差が生じ、全体としてうまく行っていなかった結果、国民の政府に対する批判が高まり、それを一因として二人の総理がその職を去らなければならなくなったという面があったことも私は否定できないと思っています。
なぜこのようなことが起こったか。私は、その因はダイヤモンドプリンセス号にあると思います。ダイヤモンドプリンセス号のコロナ発生に対する対策の作戦の失敗を十分な検証もせずにずっと放置してきたことの咎が、日本におけるコロナ対策のその後の展開を大きく左右したのではないかという思いを禁じ得ません。そして、そのことを考慮しないで、DMATの大活躍という一面だけを取り上げ、感染症対策の本質を描くことをしない番組を作って多くの人に見せることは、また、将来同じような失敗をこの日本が起こしてしまうことに繋がるのではないでしょうか。泉下の後藤新平が自らの後継者達のやりように対してきっと嘆いておられることと思います。
以上、大好きなプロジェクトXについて、これは問題だと思った番組についてであります。次回は同じくプロジェクトXでもいい方の話をします。すなわち、トルコイスタンブールのボスフォラス海峡海底トンネル敷設プロジェクトの話です。