向山精二さんのご逝去を悼む

 向山精二さんが5月10日お亡くなりになりました。本当に素晴らしい人をなくしました。残念で仕方がありません。しかし、向山さんは、今や我々とは幽冥異にして、天国に行ってしまわれました。今はただ、向山さんの霊前に感謝と敬意を捧げるのみです。
 向山さんは、1946年に海南市にお生まれになって、1964年にLPGの製造販売を業とする今のエコガスに入社し、有り余る商才と類希なる熱意と努力によって、エコガスを和歌山一のLPG販売業者に発展させました。がんという爆弾を体に抱えながらも、この年末年始ですら、自ら車を運転してお客様にご挨拶に伺うという努力を払っておられるのに、私は心から感動を覚えました。そのような向山さんのお人柄は全国のLPG業界の方々からも評価され、2014年に開かれたエコガス創立50周年の記念祭には全国団体の鴇田勝彦会長をはじめLPG業界の多くの関係者がこぞってお祝いに駆けつけておられました。
 このように、向山さんは和歌山の有力企業の総帥として、それだけでも十分に尊敬されるべき方ではありますが、なんと言っても向山さんを世界の向山として世界中にその名を知らしめたのは、向山さんの音楽の世界での活躍であります。
 向山さんは、19の交響曲をはじめ、200曲に上る楽曲を自ら作曲し、交響曲についてはオーケストラを自ら手配し、日本国内はもちろん、世界各地において、自ら指揮棒を振って演奏をするという他に類を見ない活動を、かれこれ30年以上に亘って続けてこられました。とりわけ、和歌山にまつわる感動的な物語を交響曲に仕立てて、その物語をオーケストラの背後の大きなスクリーンに映像で示しながら、交響曲で観客の心に訴えるという手法は、私のように必ずしも音楽に造詣の深くはない人間にとっても、とても魅力的に感じられました。その音楽のモチーフになっている和歌山にまつわる感動的な物語が視覚的にも、聴覚的にも観客の心にしみこんでくるような感動を与えられたものと思っています。和歌山県知事であった私にとって、明治の世に、遭難したトルコ軍艦エルトゥールル号の乗組員を必死で助け、なけなしの食料を惜しげもなく与えて看護し続けた和歌山県串本町紀伊大島の住民の物語は、この上なく名誉なことですが、その物語を向山さんは「紀伊国交響組曲第5楽章「友情」」として取り上げてくれました。この美談をトルコは教科書に書き続けて串本の民を、そして日本を褒め称えてくれたのですが、この美談の結果は、もう一つの美談、イラン・イラク戦争の最中の1985年、テヘラン空港に取り残された日本人をトルコ航空機が救出する、トルコによる恩返しに繋がっていくわけですが、向山さんはこの双方の美談を交響曲の中に取り入れて畢生の名曲を作られました。そして、その曲をトルコ各地はもちろん、ニューヨーク、ベルリン、ローマ、そしてシドニー等においても演奏してくれました。そして日本でも。とりわけ日本におけるトルコ年の2010年、東京のサントリーホールを満員にしての大演奏会は、三笠宮曉子女王のご来臨を得て、歴代総理や日本トルコ双方の大使などが出席する大々的なもので、このような壮挙を演じた向山さんという人間を生んだ和歌山県の知事として、私は大変な誇りを感じました。トルコ各地で行った演奏会には、トルコ側の貴顕はもとより、トルコの日本人商工会議所の方々の熱心な支援で、いつも満員の会場が熱気に包まれましたし、他の世界の大都会でもニューヨークのカーネギーホールが満員になるほどの関心を集めました。
日本もこれからは経済力にものを言わせて世界をひれ伏させる時代ではないのですから、 世界の中で尊敬されながら生きていくためには、エルトゥールル号事件のような、日本人が示した歴史的美談を世界中にアピールしていく必要があると思います。そんな時、政府でもなく、巨大企業でもない一介の和歌山の中小企業の経営者の向山さんが、このような国家の誇りである歴史的美談を音楽で世界中の人々に示してくれたと言うことは、信じられないほど大変な壮挙であると私は思います。オーケストラを編成して、しかも海外で演奏活動をすると言うことは大変なコストがかかります。向山さんは、政府に頼るわけでも、県に頼るわけでも、巨大ファンドに頼るわけでもなく、すべて自らのポケットからこのような費用を出されました。和歌山の栄誉を実現して下さった事に和歌山人は感謝しなければなりませんが、同時に、このように日本の名誉を世界に向かって発信してくれたことにすべての日本人は感謝しなければならないと私は思います。それに少しだけ応えて、私は2018年和歌山県文化功労賞を向山さんにもらって頂きましたが、国もその功績に同年叙勲で応えてくれました。
 向山さんは数年前からがんの告知を受けていて、私も随分心配しました。余命宣告を受けたと少し弱気な所をお見せになったこともありましたが、その都度不死鳥のように蘇られ、また、壮大な演奏活動を続けられ、社業にも励まれました。その中で、和歌山県が生んだもう一つの偉業である、濱口梧陵の「稲むらの火」にモチーフを取った新しい交響曲を作られ、これまた、世界中の多くの人々に音楽的感動を与え、和歌山県の名声の高揚に大いに貢献してくれました。
 ただ、今年の4月、和歌山研究会事務局経由で、向山さんの意向を受けてもたらされた知らせは、私にとって衝撃的でした。「余命2ヶ月という宣告を受けた。私が死んでも、葬儀はこっそりと身内だけで行い、暫くしてからお別れ会をやって欲しい。その時は仁坂さんに発起人になってもらいたいし、弔辞も読んで欲しい」というものでした。以前からご病気のことはお聞きしていたのですが、何とか元気でやっておられたので、まさかそんなにお悪いとは思ってはいなかったのでした。お別れ会のことはお安いご用だけれど、そんな会を開かずにすむようにすることの方が大事ですからと向山さんに申し上げ、何とか助かる方法はないものかと尊敬する立派な知人を頼って、がんの研究の中心的な機関で相談もしてもらいました。電話でその打ち合わせをしたときの声は十分力強かったし、どうしても近く予定しているオーストラリアの演奏会に出るんだといっておられたのは、私には、それだけ気力が横溢していれば大丈夫ではないか、何とか回復するのではないかと思えたのでした。その思いはむなしく、5月7日に会社の方からご連絡を頂いて、オーストラリアから帰ってきて急速に病状が悪化した、もうあまり話せないぐらいだとお聞きして本当に驚いたのでした。その後、冒頭の訃報が入るまではあっという間でした。無理をして、最後の気力を振り絞ってシドニーの演奏会を挙行し、力を使い果たして亡くなったということだとしか考えられません。私には、向山さんのご逝去は、音楽の神への殉死としか思えませんでした。今頃、向山さんは天国で、先に逝った向山さんの多くの音楽の友とともに、音楽を愛でて楽しく暮らしておいでになっていると思います。奥様の悲しみは幾ばくかと思いますし、会社の従業員の方々の寂しさもはかりしれないと思いますが、私達、生前の向山さんに接したすべての人の心には、悲しみと感動と感謝に彩られた向山さんの思い出がいつまでも尽きず、残り続けるであろうと思います。