農業政策について

 「日本一の農業県はどこか」という本を山口亮子さんという方が新潮新書からお出しになっています。農業に対する財政支出に対して農業生産額が大きい県はどこかというのがメインのテーマで、この内容の本の宣伝が新聞に載って、意外な県がそうだと言っていたので、これはひょっとすると和歌山県かも知れないと、早速この本を購入して、見てみました。答は群馬県でしたが、なぜ私がそう思ったかというと、和歌山県知事に就任してまもなく、時の近畿農政局長に「和歌山県は農業では一番立派な県です。」と言われたことを覚えていたからです。
(ちょっと断っておきますと、私は、農業の評価をするポイントは、農業予算あたりの産出額だけではなくて、この本にも触れられているように、労働生産性や土地生産性など他の指標も大事だと思っていますが、ここでは取りあえず、農業予算あたりの産出額に着目して話を進めます。)

 私は2006年2月から和歌山県知事ですが、知事というと、その県に関しては何でも知っていて、何事にも適切な手を打たねばならない立場にあるわけですから、様々な分野の方に、とにかく意見を伺いに行きました。その中に、国の出先機関の長がいます。近畿、関西をテリトリーにする、その省の仕事の指揮を執っている出先機関の長が何人かいらっしゃるわけですが、この方々から、それぞれの所管分野について、国の政策を教えてもらったり、和歌山県政に関するアドバイスをもらったりしようと、時々そのような出先機関が集中している大阪に出かけて、各局長さんと弁当を囲んでお話をしていたのです。私の方があまりにも忙しくなり、出先機関の行政や和歌山県に対するご注文も大体分かったので、いつしかこの会合をやめてしまったのですが、少なくとも当初は教えられることが多々ありました。
 その中で、前記のご発言があったのです。私はすぐに、「でも、和歌山県は農業産出額もそんなに多くはないし、果樹がたくさん採れるとはいえ、あまり立派な農業県とは言えないように思いますが。例えば近畿でも、兵庫県などの方が農業の力がずっと大きいのではないでしょうか。」と尋ねてみました。その時の答が、「我々は農業に対しては多大の財政支援をしているのですが、その割には成果があまり上がっていないような県もあります。その点和歌山県は国からの支援をちょっとしか受けていないのに、なかなかの農業生産をあげていて立派です。近畿の中では財政投入あたりの産出額はダントツトップですよ。」とおっしゃったので、なるほどと思って、それが頭にあったのです。だから、この「日本一の農業県はどこか」の宣伝文句を見て、ひょっとすると、その答は和歌山県ではないかと思ったのでした。答は群馬県でしたが、和歌山県は14位で、やはり近畿ではダントツに他を引き離していました。
 これはどういうことかと考えますと、やはり日本の農業予算は多くのものが米ないし米農家に回っていると言うことだろうと思います。その昔はもっと顕著であったろうと思いますが、今でもこの傾向は続いているのでしょう。逆に言うと、野菜や果実のような商品性の高い農産物が多い群馬県などにはあまり農業予算が回らないから、農業予算あたりの農業産出高が高いと言うことになるのでしょう。和歌山県は群馬県以上に変わった農業県で、果樹のウエイトが69.6%もあります。次は野菜で、米はわずか6.5%のウエイトしかありません。ちなみに今や日本の農業で産出高トップを占めている畜産は、和歌山県はもっと低くて、3.3%しかありません。(参考までに全国のデータで見ると、畜産が38.4%、野菜が24.2%、米が15.5%、果実は10.3%です。)和歌山県は果樹に特化した産地であることには間違いがありません。もうちょっと言うと、みかん、うめ、かき、もも、晩柑類、いちご、ぶどう、すいかなど何でもあります。この点は同じ果樹産地でもリンゴのモノカルチャーという感のある青森県などとは大違いです。平地が和歌山市などを除くとごくわずかで、山が多く、その山と海とがひっつくような斜面に果樹園が広がっているのが和歌山県の農業の特長です。果樹が立派に生育するには、おそらく3つの要素があると思います。その1は果樹栽培に向いた温暖な気候です。2つめは農家の方々の普段の努力。斜面で果樹の手入れをするにも、収穫をするにも、平地の広い、平坦な農地での農作業とは条件も違う前述のような耕地で、様々な農産物を作るための頭を使った工夫と桁外れのきつい労働があると思います。3番目は投資です。あの山の斜面に石垣を積んだ果樹園を作るのには古来多くの人達が将来のために働いてきました。今でも手入れをし、機械や装置を入れて行かなければ競争になりません。モノラックがないとあのきつい斜面から収穫物も下ろせないし、斜面に作った耕作地は普段に改修工事をしていないと崩壊してしまいます。個々の農地に至るまでの作業道も作っていかなければ収穫物を市場に出せません。したがって、お金が要ります。県や国の助成金がないととても大変になります。近畿農政局長は、和歌山県の農業は国費を使わないから優等生だと言われましたが、いくら優等生でも、設備や機械にかける投資的経費の助成は不可欠です。

 その和歌山県農業が存亡の危機にさらされたことがありました。政権交代で自民党・公明党に取って代わった民主党政権は、選挙公約の時から、有権者の射幸心に訴えるような選挙公約をたくさん打ち出しましたが、その一つが農業所得保障です。この時の民主党の政策は、他にも子育て資金配布など明らかに給付型の政策が多かったように思います。悪い言葉で言うとばらまきです。有権者からすると、民主党が政権に就いたらなにがしかのお金を配ると言っているのだから、そんなことをしてこなかった政党よりも魅力的に映ります。しかし、そうはいっても有限の国家財政ですから、一方で多くばらまくと、別な面を締めなければなりません。そして締められたのが投資的経費です。全く整備が遅れていて発展の足枷になっていた和歌山県を通る高速道路の建設予算が、「コンクリートから人へ」という一見蠱惑的なキャッチフレーズのもとに、うんと削られて本当につらかったのですが、農業についても、所得保障という給付型の、別名ばらまき型の予算を増やす財源として削られたのが、農業生産に必要な投資的経費でした。和歌山県は.農政局長も言われたように、もともと農業に関する国の予算配分は低いのですが、その中のかなりの部分が投資的経費でした。その投資的経費が激しく削減されたのですから堪りません。投資的経費が減った分だけ給付的経費である所得補償費は増えているのですが、これは米を中心とする穀物生産の所得の保障にしかなりません。したがって、米の生産が少ない和歌山県は所得補償もちょっぴりしかもらえず、代わりに和歌山県の農業予算の主力であった投資的経費が無茶苦茶少なくなってしまったのでした。
 私なども恥ずかしながらそうでしたが、農業の所得補償が打ち出されたとき、この事態を予測できた人はあんまりいなかったと思います。和歌山県の農家の人も所得補償とはいいことを言うと、当時民主党に投票した人が多かったと思います。だから、ある政策を導入しようとしたら、そこから起こる副作用のようなこともちゃんと考えておかなければならないのですが、一般の有権者に選挙の時にそれを考えろというのもハードルがとても高いことです。選挙で勝とうと思うと、多くの人が魅力を感じるような政策を打ち出して票を頂くというのがありがちなことですが、およそ日本の将来を担おうという人達ですから、選挙に勝てばいいのだというようなタクティックスは余程自制をしてもらいたいし、言論界や官界の方々も、そういう人達は、普通の有権者よりも、見識は高いはずだから、「風」になど影響されないで、大いに警鐘を鳴らしてもらいたいものだと思います。

 ついあのときのつらさを思い出して、話が大きくなりました。農業に戻ります。
 和歌山県の農業はこのように苦しい時期があったのですが、もう一度復活してきた農業投資予算を有効活用しつつ、あらためて投資活動に力を入れ、プレミア和歌山、厳選みかん出荷方式、和歌山農産物安全プラス、機能性に標準を当てた美味しい健康和歌山、輸出市場開拓等々の販売促進政策を展開して何とか命脈を保ってきました。農業者の皆さんの頑張りと和歌山県の投資的政策の効果が発揮されて、一時は農業セクターの成長が和歌山県で1位になると言う事態も生じました。(最近は少しまた停滞していますが。)特にみかんはかつて生産量ではずっと日本一なのに、生産額ではずっと愛媛県の後塵を拝してきたのが、厳選みかん出荷方式を全県的に採用した結果、和歌山みかんの市場評価が一挙に上がって、以来生産額でも日本一を維持しています。この政策は、実は愛媛県が延々昔から実施してきた政策を学習して真似させていただいた結果です。地方公共団体は、私の見るところ、滅多に他県のよい政策を真似しないのですが、和歌山県はどんどん真似をしたり、そこまで行かないでも、大いに学習してその政策の功罪を分析させて頂いていました。私が、他県はよその県の真似をしないなあと言う感想を漏らしていたら、愛媛県の中村知事はさすがで、私が退職するまでに是非話を聞かせてもらいたいと、わざわざ和歌山県を訪問されて、和歌山県が最近何かとうまくやっているので、その成功の秘密を勉強したいと言われました。和歌山県は、以前から、政策に関して知的財産権の主張はしないからどんどん真似をして下さい、それが日本のためになるのだからという方針で臨んでいましたので、私は中村知事に何から何まで和歌山県の施策のご説明をいたしました。その中で、みかんが愛媛県を生産額で抜いたのは愛媛県でずっと採用してきた厳選出荷方式を真似させてもらったからですよと正直にご説明いたしました。