説明責任と温故知新

 政治や行政の世界で今一番言われる言葉に説明責任という言葉があります。とても大事なことだと思います。政治家や行政官はその方法は違えど、国民、住民の付託を受けてその仕事をしているわけですから、クライアントたるそういった人々に、かくかくしかじかの仕事をこうやっています。その論拠は・・・とできるだけ多くの機会を設けて説明をしなければいけません。特に問題が起こったときなど、世の批判に応えて、自己の行為の正当性を分かってもらえるように説明しなければいけませんし、仮に批判の方が正しいと思ったら、どこがどう間違っていて、それはどうしてそうなったか、これからどう直していくのかなどを説明しなければなりません。私も知事在職中はよく心懸けていました。いささかまずかったなと思ったときも、正直にその間違いを自ら公表して、多くの機会を作って、起きた理由と善後策を結構長々と述べていました。間違いの謝罪もあったので、無責任に聞こえるかもしれませんが、この説明をすると言うことは意外と楽しく、進んでやっていたのです。しかし、そのためには、説明内容をすぱっと言えなくてはいけません。すぱっと言うためには、事実関係をちゃんと分かっていないといけないし、その事実が生じた理由をちゃんと分かっていないといけないし、今後どうするんだという展望も頭に入れておかなければなりません。したがって説明責任を果たすためには、要するによく分かっていないといけないのであります。分かっていない人は絶対に説明責任は果たせません。
 じゃあどうやったら分かるかといった時に思い出したのが、「温故知新」と言う言葉です。論語の言葉のようで、グーグルで引きますと、「前に学んだことや昔の事柄をもう一度調べたり考えたりして、新たな道理や知識を見い出し、自分のものとすること」と出ました。人間の能力は限られていますから、ある時いいことを思いついたとしても、別の時に同じようなことを思いつくとは限りません。ましてや、人それぞれに能力がありますから、担当する人が変わったら同じくらいのことを思いつく可能性はもっと低くなることでしょう。ずっと前に確立した行政手法を現に実行している人でも、何のためにそういう行政を遂行しているのか、あまり考えずに日常性の中に埋没していると、いざというときに説明が出来ないと言う恐れもあります。また、新しくその領域を担当することになる人は、ひょっとすると、昔確立していた行政手法があるんだと言うことを知らないでいる可能性もあります。また、知っていてもその存在根拠や使いうる領域などについて実は分かっていない可能性があります。すべての行政は、いつかの時点でその時の担当者や為政者が、現実の必要性に迫られて、うんうん言いながら絞り出したものなのですが、後世の人がその意義を忘れてしまうと、宝の持ち腐れです。
 もちろん昔の行政制度を今も維持しなければならないと言うことはありません。その制度が出来たときの社会情勢などが変わってしまって、もはや意義を失ってしまったと思ったら、さっさと廃止すればいいし、もっと現在のニーズに合うものに置き換えていったらいいのです。逆に、そうしないならば、怠惰の謗りは免れません。しかし、どうしてこの制度がここにあるのだというちゃんとした知識が無いと、この制度はやめると言っても正当性はありません。存立基盤が変わっていれば廃止しても構いませんが、未だその存立基盤がそのままなのに、その理解もなく廃止してしまうと、必ず不都合な事実が発生すると言うことは論理の帰結です。私が昔いた国の官庁ではこの辺の齟齬を生じないように、過去の政策の基盤がどこにあったのか、比較的よく分かるような仕掛けが色々してありました。また、過去にこう言ったではないかというチェックは、特に国会の得意種目で、我々行政庁側は、国会でそう言ってぎりぎり詰められる緊張感がありました。

 しかし、私が直前までいた地方公共団体の仕事は、そういった情報の保存もままならないし、職員の数も少ないし、それでいて担当者は変わるし、おまけに何よりも、選挙で選ばれる首長が変わると、行政の持続性はあまり問われなくなり、新しい首長の好みで旧来の制度が消滅してしまうことも沢山あります。選挙で選ばれているのだから当然だというわけです。したがって、そういう場合は、住民の幸せのために有効だと思って作られた折角の制度もどこかに消えてしまうことになります。おまけに、困ることは、このように本当は消えては困る制度が消えても、クライアントたる住民がそれによって打撃を受けるのは、ずっと後で実際に何かが起こってからだと言うことです。例えば、折角整備してあった緊急時の災害への対応がいつしか忘れられていたら、実際に災害などが起こった時、人々を助けられなくなってしまっています。例えばまだ存立基盤からして有効であったはずの産業政策が廃棄せられたとき、実際に人々がそれを不都合だと意識するようになるのは、時が経ち、産業が育たず、その地域が衰退してはじめてからなのかも知れません。
 古い制度にしがみつくのは愚の骨頂です。時代と友にそれにふさわしい制度を作っていくことが行政には求められます。しかし、その古い制度がどんなものかという現状認識と、なぜそんなものが出来上がったのかと言う背景に関する知識が無いままに古い制度を投げうってしまうのは、おそらくは別の新しい問題を生じさせるし、さらに多くの場合事態を悪化させてしまうだけになることでしょう。

 そこで、私は辞任間近のとても忙しい中、「和歌山県政策集」、「和歌山県資料集」、「和歌山県懸案集」及び「和歌山県のガバナンスの強化のために」を職員と一緒に作りました。第一の目的は岸本新知事に対する説明資料です。大体、長い役人生活からよく分かっているのですが、いろいろな組織で、新旧のトップ引き継ぎ式に使う引き継ぎ資料は、伝統に則して作りますが、簡単すぎるし、形式的すぎて役に立ちません。それだけだと新知事に対して不親切でしょう。そこで、知事が勉強したり、何か問題に直面したときに参照したり出来るようにと思って作りました。しかし、この内容は、知事に分かって県民には分からないでもいいと言うものではありません。県政はクライアントである県民のものだからです。したがって、これら和歌山県政策集、資料集、懸案集は公表しました。(もう一つ「和歌山県のガバナンスの強化のために」と言うタイトルのいわば失敗集も新知事と部内用に後学のために作ったのですが、公表はしていません。)さらに、この内最も中心的な和歌山県政策集は、私の知事としての最後の記者会見で、退職に当たっての所感の表明と並んで、記者諸君に配布の上、その趣旨の説明もしました。ついでに言うと、和歌山研究会のホームページにも「資料集」の一環として載せています。(これについてのさらに詳しい解説は、この和歌山研究会のメッセージでも、過去に「和歌山県政策集等について」と言うタイトルで書いていますので、ご参照下さい。2023年8月23日付け)
 作成に当たっては今の制度の説明だけでなく、何故こんなことをやるに至ったかと言う背景を詳しく描くようにと、作成チームの面々にも指導したのですが、どうも背景や理由をくどくど言うのは職員諸君はあまり得意ではないらしく、その点を中心に私自身が原案にかなり墨を入れました。と言っても、何せ退任前のえらく忙しい最中でしたので、ひょっとしたら簡単すぎる書き方になっているのではないか、もしそうであったら申し訳ないことだと思います。
 これから、和歌山県政も新知事の下どんどん変わっていくと思います。その際に、既存のいろいろな政策や制度を、十分にその意義を知らないで無くしてしまって、結果として事態を反って悪化させることを避けるためには、この和歌山県政策集、資料集を参照して頂ければよろしいと思います。また、人間が替わったどさくさの間に放置されて、懸案が未解決のままになってしまうことを避けるためには、和歌山県懸案集を参照してもらいたいと思います。
 これらの資料は公表されていますから、あれれ!県政はこれで大丈夫かと思った方は、これらを参照して下されば、その当否が多少は分かってくるのではないでしょうか。
 行政の硬直化は、存在理由を問い続けることなく、昔からの行政を漠然と続けていることによって生じます。行政各項目についての存在意義、導入の目的意識が書かれているこれら資料を参照することによって、行政の硬直化はかなり防げると思います。
 一方、行政の破綻は、意義を失っていない政策を、その意義に気づかず、あるいは気づいていてもあえて無視することによって生じます。制度の改革を考えるときに、これら資料を参照することによって、その危険性はかなり避けられるのではないでしょうか。さらに、みっともないのは、自分の組織が有しているかなりレベルの高い行政制度を、知らなくて行動してしまうことです。私も何度かそれがあって、こういうものを作るんだと言ってしまってから、立派な部下に既にこれこれがありますよと教えてもらって頭をかいたことがありました。既にあることを知らないで、新たに検討するんだと突っ走ってしまったら、ただでさえ忙しい職員に無駄な作業をさせて、結局は既にある制度を再確認するだけに終わると言う恥ずかしいことになるでしょう。それを防ぐためには、これら資料を参照しておけばいいというように私は考えて、これらを残しておいたのです。

 実はこういった過去の行政の記録は、当該地方自治体において有用と言うだけではありません。他の自治体が、何か特定の問題に対処しなければならなくなったときに、もちろんいい対処方法を自分で考えつけばいいのですが、人間の能力には限りがありますから、その人がいつも一番いい解を考えつくとは限りません。したがって、「よその」実例を大いに参考にすればいいのです。要するに「パクリ」です。私は、パクリは全く厭いませんでした。いろいろな問題を抱えた時とか、報道で他の自治体がなかなかいいことをやっているぞと言われたのが分かった時には、進んで勉強をして、なるほどこれはいいやと思うものがあったらどんどん採用していました。ただ、よく勉強してみると、マスコミ受けはしても見かけ倒しのものもありましたし、なるほどと思うものでも和歌山県に適用をするのはいかがかと思うようなものもあるので、そういうものまで猿真似をすることがあってはなりません。しかし、私が16年間知事を勤めてみて分かったことは、日本の自治体は本当に真似をしないところだと言うことでした。県庁の中でも、「ほとんどの他の自治体ではこれこれをやっています」、「わが県がやらないと目立ってしまいます」と言った横並びを気にする議論は多いのですが、「ある問題を解決するためにどこどこではこういう対応をしています」といった積極的なパクリは、あんまり議論には上ってきません。また、我々がかつてさんざん辛酸をなめた上で作り上げたノウハウが、現に困っている他の自治体できっと役に立つと思うのだがなあと思ったことは沢山ありましたが、あまり参考にされた記憶はありません。しかし、全くないかというとそうでもなく、大きな水害が起こった県に、紀伊半島大水害の時に編み出した対応の知見をお教えしに職員を行かせましょうかと申し出たとき、それを受け入れ、本当にそこから多くのことを吸収をしようと努力された立派な知事さんがいらっしゃいましたし、最近和歌山県が色々いいことをやっていると思うので、仁坂知事在職中に是非お伺いして教えを請いたいと言われて、わざわざいらっしゃった立派な知事さんもいらっしゃいました。前者の方からは、お会いするたびにお礼を言われて、さすがに立派な人は違うなあと感心しましたし、後者の方には、隠すことなく和歌山県の知見を何でもお教えしたのですが、その際、最近和歌山県のある産品がいい調子なのは実は貴県の方法をそのまま真似をしたからなのですよと正直に申し上げました。(どの産品かを申し上げるとどなたのことか分かってしまうので申し上げません。)
 私は、自分の所属する組織の過去の知見、ノウハウについても、「温故知新」が生きてくると思いますが、異なった組織の間でも「温故知新」は有効だと思うのであります。誰が考え出したからとか、日本初の取り組みだなどと誇るよりは、誰が考え出そうが、どの組織の、どの時代のノウハウ、知見であろうと、利用できるものは何でも利用するのが絶対に正しいと、私は思います。なぜなら、行政は自分を誇るためのものではなく、クライアントである国民、住民の幸せを図るものだからです。