書店で出たばかりの「日本製鉄の転生」という本を見つけ、早速購入して読みました。購入する前から、この本のタイトルは、日本製鉄について私が最近思っているイメージを表しているタイトルでしたが、読んでみるとまさにその通りの内容で、非常に共感を持って読みました。タイトルのように転生がうまく行って日本製鉄と日本製鉄が率いる日本の鉄鋼業が世界を再びリードする存在になって欲しいと思います。
私は和歌山県の知事の前は経済産業省の官僚ですが、私のような事務系の職員は割とまんべんなくいろいろな仕事をさせてもらえるのが楽しいこととはいえ、自ずからどこかの分野に多く関わることが多くあります。私の場合は鉄鋼業の担当を2回させてもらいました。その意味で鉄鋼の世界は思い入れもあり、印象深い鉄鋼業界の方々とも沢山お目にかかれて幸せでした。他の主要産業界と違い、鉄鋼業に関しては、役所と接する窓口の人を決めているわけではなく、我々役人が直接企業の各担当部署のの総括ラインの方と接することが許されていました。だから、本当に第一線のすぐれた企業人と真摯に向き合うことが出来たのです。それは本当に幸運だったと思います。
ただ、それに加えて、私は和歌山市に生まれ、和歌山県知事もさせてもらったので、和歌山市にある住金の大工場の存在は圧倒的でした。そして、住金が新日鉄と合併し、日本製鉄となった今でも、和歌山にとって大変大きな存在です。ところが、2021年、日鉄は和歌山地区の製鉄所の2本ある高炉のうち1本を閉鎖するという発表を行い、和歌山県はショックに見舞われました。この手の経営方針は会社の中で密かに錬られ、慎重に検討された上で発表されるので、地元の知事が行って存続をお願いしてもまず覆ることはありません。しかし、今後のこともあるので、早速、日鉄の橋本英二社長にお目にかかって、議論をし、疑問点を質し、今後のお願いをして参りました。私は先述の通り、日鉄の首脳の方々に随分御見知りを願っていたのですが、その方々とは就任間もない橋本社長は全く違っていました。以前の日鉄の社長と言えば、「鉄は国家なり」を代弁する様な人物で、会社の利益をあからさまに主張することはなく、業界全体の利益と国家の利益に配慮し、そのためなら、会社の利益が多少損なわれても譲るべき所は譲ってくれると言う人ばかりでした。ところが橋本社長は日鉄のためにすべてを捧げているような人で、しかもすべてはデータと理屈に基づいた極めて論理的な方でした。橋本社長は忙しい日程の中でも、極めて多くのことを説明をしてくれましたが、すべて論理的で、私もその通りだと思い、日鉄存続と発展のためには、これしかないとお考えになっていることがよく分かりました。これを聞いて私は、高炉の2本ともの存続はもうどうしようもないなと思いましたが、私も評論家ではなく、和歌山の発展に責任を持っている知事でしたから、ただ、感心をして聞いていたわけではありません。橋本社長が、和歌山工場はパイプ(鋼管)の一貫製鉄所として大事だ、最上級のパイプを作るためには鉄源から最高の素材を作らねばならないから、残った高炉1基は守ると説明をされたから、引き下がったのです。他の方なら、そのような説明も地元の知事へのリップサービスとして取る必要があるかも知れませんが、橋本社長に関しては、ご発言はすべて理詰めですから、全く疑う余地はありませんでした。ただ、高炉1基の廃止に関しては、住金時代に私も色々努力をして実現された、日本における最も新しい高炉2基のうちの一つであっただけに、まさかこの最新鋭の高炉まで止めざるを得ない状況に日鉄が追い込まれているとは、分かっていなかった我が身を恥じるばかりでした。
私が知事に就任したときは、当時の住金の和歌山製鉄所では、かつて5本が稼働していた高炉は2本を残すのみとなっていて、しかも老朽化が進んでいるので、すでに小さいながら、新しい1本の高炉の建設が進んでいました。あの大不況期にも係わらず建設され、大河内生産特賞を取った最新鋭転炉が稼働していて、これで、新高炉が完成し、コークス炉が新しくなり、共同火力が新稼働すれば、衰退を重ねてきた住金和歌山工場も復活を遂げるだろうという状況でした。和歌山製鉄所の衰退は主として、より新鋭の鹿島製鉄所への重点移行のせいでもありましたが、さらに繁栄が永久に続くとしか考えていなかったのではないかと私が思った、和歌山県民の住金に対する甘えの構造があったと、私は何人もの関係者から聞きました。当時の社長から、「製鉄所で何かトラブルがあったとき、和歌山ではどうしてくれると住民が押し寄せてくるのに対し、鹿島では住民が一升瓶を持ってご苦労さんと言いに来てくれるのですよ。」とお聞きし、企業の意思決定を左右するのは、企業を取り巻くその地域の環境だとの意を強くしました。また、とりわけ、企業の投資意欲をそいでいるのは、不当な要求を重ねて企業の負担を大きくしている、地域の一部の業界と行政の無理解と非協力だと知って、こういう点を改善しなければ和歌山の発展もないと強く思ったものでした。詳しくは述べませんが、以来和歌山県は行政が前面に出て、共同火力に関する不合理な環境規制の運用をあらため、たかりとも言うべき理不尽な要求を一部の人達がする余地を絶とうとしました。おそらく、そういうことが評価されたのでしょうか、念願のもう1本の高炉の建設が決定され、2019年に火入れ式が行われました。しかし、鉄鋼需要は無限にあるわけではなく、和歌山製鉄所の高炉からでる銑鉄の需要は、それを利用する和歌山製鉄所のパイプなどの生産量に対しては過剰です。では何故、もう一つの高炉が可能であったかというと、話はバブル後の不況が最も激しかった2003年の鉄鋼企業3社によるアライアンスの成立に戻ります。この時、とりわけ住金は大変な経営危機で、株価は額面を割り、多くのジャーナリズムが住金の倒産の危機を報じていました。私は当時経済産業省の製造産業局次長として、鉄鋼業を含む基礎産業を担当していました。多くの会社が経営危機をささやかれ、世の識者は、ゾンビ企業はまずは倒産させろと言うばかりでした。しかし、私は守れるものは守ろうと、それぞれの会社のメインバンクの頭取などに働きかけをして、その存続を画策していました。企業は確かに現状では存続が不可能で、大幅な改革をしなければならないとしても、まずはつぶしてしまえと言うのは間違いで、なぜならば、企業の組織、事業形成には莫大な初期コストがかかるからと言うのが私の見解だったからです。そして、住金についても、新日鉄、神戸製鋼所との3社アライアンスが発表され、経営危機が回避されたときは大変嬉しかった思い出があります。このアライアンスをまとめた新日鉄三村社長、住金下妻社長のご努力に寄り添っていた、私の上司である今井康夫製造産業局長からこのアライアンスの構想の紙を見せられたときの感激は忘れられません。このアライアンスによって、住金の高炉2基体制は守られ、下流のパイプなどの製造に必要な量以上の銑鉄は新日鉄の近隣工場や台湾の中国鋼鉄に鉄源として輸出されることになっていたのです。私の知事就任時はその構造が生きていたのですが、その後の環境変化によって、中国鋼鉄に輸出すればするほど赤字になるようになっているのだと橋本社長から聞かされたら、自社工場の下工程で使う分以上の銑鉄を作る高炉は、存続が出来なくなっても仕方がないと言うのは論理的帰結です。私は、この時住金が作った新しい高炉は、新日鉄・住金合併後の会社の中でも最も新しい高炉なので、当然効率はよいだろうから、合併後の合理化の中でもきっと生き残るだろうと内心思っていたのですが、甘かったと言わざるを得ません。ただ、高炉1基休止後の和歌山工場は橋本社長の言の通り頑張っていて、そのシームレスパイプの品質は他の追随を許さない地位にあります。製鉄所自体が高炉2基とともになくなってしまった呉工場に比べれば大変な幸せと言うべきでしょう。この日本製鉄の転生の本の中でも、和歌山工場の油井管事業の素晴らしさがコラムで紹介されていて、世界中に「WAKAYAMA」のブランドが轟いていることが述べられる段では、胸にジンと来るものがありました。
私の鉄鋼業界との関わりは他にもあります。関わりの1回目は、1984年から1986年の頃で、その頃の鉄鋼業の最大の問題は対米鉄鋼輸出の摩擦をどう解決するかと言うことでした。わが鉄鋼業の競争力は世界最強でした。当時も多国間の自由貿易を規定するガットはあるわけですから、それにしたがって日本の鉄鋼業は、アメリカのライバルを叩きのめすことがないように総じて穏やかに輸出していたのですが、アメリカ自身の鉄鋼業が崩壊の危機を迎えます。そういうときは政治力を使って理屈抜きに救済しようとするのがアメリカです。アメリカは政治がこうと決めたら、国際ルールなど多少逸脱しても、一方的な措置を取ってきます。あのときもアメリカの鉄鋼業を守るために、私が鉄鋼業務課の課長補佐に就任する前から、日本やヨーロッパの鉄鋼メーカーに、どう見ても不合理な大幅なダンピング課税をかけるという発表をし、それらの国からの輸入を抑えようとしたわけです。もちろん、日本の鉄鋼メーカーからすると、ダンピングなどとんでもない話で、ちゃんと利潤も出ているし、日本の品質のよい鉄鋼は、未だそれなりに頑張っていたアメリカの加工組み立て産業の素材として、欠くことの出来ないものだったのですが、こういう時はそんな正論は通りません。理不尽に法外なダンピングマージンをアメリカ政府に取られるくらいなら、少しは輸出を自主的に減らしてやってもよいと言うのが鉄鋼業界と当時の通産省の考えでありました。しかし、アメリカには独禁法があって業界同士でこれを合意するとカルテルとして摘発されてしまいます。したがって、取り決めは政府間で行ない、これを何らかの強制措置をもって業界に守らせるという形を取らざるを得ません。そのずっと前もアメリカに対する一種の恩返しの気持ちから、稲山さんなど鉄鋼業界首脳が、アメリカの業界と諮って、輸出自主規制を実施したのですが、これがアメリカ独禁法に触れて摘発されそうになったという恐怖の経験がありますので、そうならないように、通産省が米国政府と交渉をして、日本の対米輸出自主規制の約束をして、それを日本の国内法制で担保するという形にせざるを得なかったのです。元々は競争力を失くしたアメリカの鉄鋼業界を守るために行っていることなのですが、そのため、何で日本側が何から何まで被ってあげないといけないのだ、と言う思いはいつもしていました。しかし、当時の世界経済状況からすると、日本はいわば一人勝ちでしたから、天谷通商産業審議官の名言「強者は忍び足で歩く」と言う言葉に込められているように、日本が利益を享受している基盤となっている世界自由貿易体制を、根っこからひっくり返されないようにするには、このような配慮は必要であったのではないかと思います。
かくて私は、通産省チームのプレーヤーとして、アメリカ政府と交渉し、その後、輸出入取引法を使った対米鉄鋼輸出自主規制実施体制を超特急で作り、新しい対米鉄鋼輸出体制が発足しました。こう言うと通産省の独走で新しい秩序が出来たように聞こえますが、その本質は、通産省と鉄鋼業界の合作でした。大事なことは、正当な競争によって得ている立場を、アメリカの産業救済に協力するためにあえて譲歩をしてあげている日本の業界に、不必要な不利益を及ぼさないように、過度の負担をかけないようにするということです。したがって、アメリカと交渉をし、協定を実施する制度を作る時は、徹底的に鉄鋼業界の方々の意見を聞きました。そういうときは、常に業界の意見を取り纏め、アイデアを出し、我々政府ときっちりと話を詰めるというのが、日本製鉄、当時の新日鉄の仕事です。私は毎日のように、後の副社長の木原さん率いる輸出総括部隊の方々や入山さん率いる法務部の方々と打ち合わせをしていました。もちろん、全体の輸出量や7つのカテゴリーごとに規制するということなど対米鉄鋼輸出自主規制の骨格は、当時の基礎産業局長と米政府の高官の間で決められたのですが、それを定める行政協定の仕上げや、実施体制の仕上げは、私や木原さんなどの新日鉄を中心とした実務チームの仕事です。特に、そもそもは業界の自主規制なのですから、必要以上にビジネスの障害が起きないように協定を作らないといけませんし、自主規制が行われることによって様々な主体の力関係が変わってしまってはいけません。詳しくは述べませんが、例えば、様々な鉄鋼製品は、同じ鉄鋼といえども、形状も品質も値段も全く違います。そこで、決められている輸出総量を、カテゴリー、サブカテゴリーごとにどう配分するかが大変重要になって来るのです。そのような様々な論点を詰める交渉が、アメリカの交渉団を迎えて、通産省の国際会議場を借り切って、当時総理の通訳などを務めていた立派な外務省の同僚に事実上の通訳になってもらって、ほぼ24時間ぶっ続けで交渉をしました。その時は、1、2の細部を残して交渉を終えたのですが、最後まで合意を取り付けなかったことに対して、ワシントンに駐在していた尊敬する先輩にひどく叱られました。今がどういう時期か分かっているのか、早く最終合意まで行ってしまわないと、安全保障や半導体その他懸案山積みの日米関係の中で、ここまでうまくやってきた鉄鋼交渉を一からひっくり返されるぞというわけです。(この交渉は、その後すぐにワシントンで、この先輩が最後まで仕上げてくれました。)
また、国内輸出規制体制を作るときにも、大きな問題がありました。当時の鉄鋼の輸出においては、意思決定はすべて鉄鋼メーカーが行っていて、商社はその手続き代行をすると言うのが現状でしたが、輸出入取引法でも、輸出貿易管理令でも、法律的な輸出主体は商社です。そこで法律を杓子定規に運用して輸出枠を商社に与えると、枠を持った商社と鉄鋼メーカーとの力関係が変わってしまいます。そのため一計を案じ、輸出入取引法で輸出規制をする際にも輸出枠はメーカーに与え、対米鉄鋼輸出組合が政府の代行で輸出許可をするときは、輸出者である商社がメーカーから枠を分けてもらって輸出しようとしているのだという証明書をメーカーから出してもらうことにしました。こうして、その後10年あまり鉄鋼のアメリカへの輸出の秩序になった輸出自主規制体制が出来上がったのです。その後、日米間ではこの取り決めのフォローアップ会合が実務者間で開かれます。約束など守らないのが普通の、世界の国際秩序ですから、はじめはアメリカ側も我々のやっている輸出規制を不審の目で見ていました。また、一方で輸出を制限しろといいながら、政治的に有力な筋からの要望ともあれば、特別にどこそこには沢山輸出してやってくれないかと言った要請もありました。きったない奴らだと思いながら、日本の業界と相談をした上で、その提案を断ったら、相手は激高して、そこにあった紙を丸めて投げ付けてきて、思わず「こいつ殴ってやろうか」と仰ったのが当時一緒にアメリカに行ってもらった飛永審議官の言葉でした。しかし、時間の経過とともに、先方も、日本側がいかに誠実に、正確に、約束を守っているかが分かったようで、その態度は急速によくなりました。
その後10年以上続いたこの体制も、その後のウルグアイ・ラウンドとWTOの発足で終止符が打たれましたが、だからといって貿易摩擦の種はなくなるわけはなく、度重なるダンピング攻勢と中国、インドなどの新興国の鉄鋼産業の目を見張る発展により、日本製鉄が主導する日本の鉄鋼業も、未だに、いや昔以上に数多くの難問題を抱えるようになっています。そしてそれが耐えがたいほど深刻になってきたその時に、これらを解決するために、橋本社長が登場し、その強烈なリーダーシップのもと、多くの驚くべき事業革新を日本製鉄が行っていることは、この書にみっちりと書かれているとおりです。とりわけ、最初に述べた国内各製鉄所の大幅な合理化に加え、将来を見据えた巨額の新規投資や、インドのエッサール製鉄をアルセロール・ミッタールと共同で買収に入っていることや、カナダのエルクバレーリソーシズをスイスの資源大手のグレンコアとともに買収にはいっていることや、あのUSスティールを買収に入っていることなど、世界を睨んだ戦略は昔を知る私には心躍る思いがします。
日本製鉄はその長い歴史の中で、何度も厳しい合理化を経験してきました。先述の対米鉄鋼輸出が解決したかと思うまもなく、鉄鋼業は深刻な不況に襲われています。それまでは、合理化は主として工場現場で行われていました。しかし、私の鉄鋼業務課時代のそれは、本社機能の大幅な合理化に踏み込むものでした。ついこの間までともに鉄鋼業の明日を語っていた優秀な中堅社員が次々と本社を離れていきました。実は白状すると、私には密かな思いがありました。鉄鋼不況と合理化の嵐の吹き荒れる中で、新日鉄社長、会長を務めた斎藤英四郎さんが経団連会長をおつとめになっておられ、所用でお伺いした我々に大変上機嫌で接して下さり、我々のお願いをお聞き届け下さったことに、有り難いと感謝する一方で、あの万骨が枯れる鉄鋼業のこの状況をこの方はどう見ていらっしゃるのかといささか考えさせられることがありました。この点について、件の「日本製鉄の転生」には末尾に橋本社長のインタビューが載っていますが、その中で橋本社長が「近い将来、社長を退任する時、一つだけ自分がこだわったKPI(重要業績評価指標)は何だったかと聞かれたら、私は『社員に支払っていた給与をどれだけ増やせたか』だと言うでしょう。」と言われたことには感銘を受けました。この人の元では一将功成って万骨枯れることはないだろうなあと思いました。