勝ってるなあ!-おもてなしトイレ大作戦-

 このところ、体調の悪い家内の近くにいようと、東京の家にいる日が多くなっていますが、たまに、家内の許可を得て、東京の家から日帰りでいける所に昆虫採集に行っています。久しぶりです。車はありませんので、近くまで電車で行くか、そこからお友達に車で採集地まで連れてもらったりしています。有り難いことです。
 そこで、東京の郊外の駅のトイレや観光地のトイレをお借りすることがあるので、昔の癖で設備をチェックしています。そうすると、結構大きな駅のトイレも、観光地として売り出すために駐車場を兼ねて綺麗に整備してある場所のトイレも、案外温水洗浄便座が装備されていないところが沢山あることに気が付きました。これは、「勝っている!」というのが元の和歌山県知事の今でも性になっている悲しい習性です。和歌山県では、私の知事の時代、徹底的にトイレを綺麗にする運動をしました。名付けて「おもてなしトイレ大作戦」と言います。始めたのは2012年からです。人が自由に出入り出来る公衆トイレの設備を、温水洗浄便座付洋式トイレと、センサーで流れる男性用小便器を必置とする、出来ればオストメイトトイレを備えるというもので、市町村の設置するトイレをそのように改良する時は県が半額補助をする、JRなどの鉄道業者の駅に設置するトイレは特急の止まる駅は自力でやってもらうことにして、それ以外は半額補助ということにしました。高速道路のサービスエリアもNEXCOにお願いしてこの仕様のトイレに入れ替えてもらいました。無人駅のトイレなど、もうほとんど使わないトイレで、綺麗にするのが費用倒れになるところなどは、トイレ自体を廃止してもらいました。飲食店や宿泊施設のトイレは、それ自体が営業のための設備投資なので、自力でやってもらうことにしましたが、政策融資の対象にして、直す時は有利な資金をお貸しすることにしました。
 目的は、もちろん観光の推進のためです。観光客も観光地のトイレが綺麗で心地よかったら、大いに好感を持ってくれて、ひょっとしたらそれをどんどん世に言ってくれるかも知れませんが、そうなると、和歌山の観光の推進のためには絶対役に立つと思ったからです。
 このきっかけになったのは県議会で、のちに県議会議長も務められた森礼子議員が是非やるべきだと思うがと質問されたからですが、私はすぐに飛びつきました。
 私は自身も旅行が好きです。昆虫採集にも行きますので、各地の田舎にも行きますし、そうでなくても名所旧跡、文化の旅、自然探訪の旅も大好き、何もなくてもよその地域に行くと嬉しいという人間です。旅をすると、目的以外にも楽しいこと、嫌なことがそれぞれ沢山あります。綺麗な心温まるホテルに泊まり、その地のおいしい食事にありつけるということは楽しいことですが、嫌なことの例としては、その地のトイレが汚くて入りたくないと言うことがあります。折角他の面で心地よさを味わっていても、トイレが汚いだけで、来るのではなかったという気分になることもあるでしょう。1990年前後、私はイタリアにいて、ヨーロッパのいろいろなところに行きましたが、どの国とは言いませんが、トイレが汚くて閉口したという経験が何度もあります。アジアや中東の国々も随分行きましたが、それ以上の経験もいっぱいしました。ただ、アジアの国々では日本の温水洗浄便座付トイレほど高性能なものは見かけませんでしたが、私のいたブルネイを含むマレー文化圏を中心にトイレでは水でお尻を洗浄する文化があると言うことも学びました。中国でも、タイでもそれとよく似た設備を見ました。トイレの個室には水道の蛇口があって、ここにホースがさしてあったり、小さなバケツと柄杓が蛇口の下に置いてあったりします。ただし、日本のような温水洗浄便座付便器は当時は見たことがありませんでしたし、日本のメーカーの代理店などがあって、頼めば設置してくれるという体制はありませんでした。私が大使公邸に関して要望を出した唯一のものがこれでしたが、以上のような状況ですから、設置してもらうのに随分苦労しました。これは売れるのになあとそれ以来ずっと思っています。和歌山県の生きていく一つの手段はその観光資源を目一杯売り出して観光収入を増やしていくことなのですが、トイレにまつわる以上のことを考えても、観光振興にはメインの観光資源が立派にあると言うほかに整備しなければいけない点がいっぱいあるなあという思いをずっと持っていました。それで、森議員の提案に直ちに飛びついたのです。
 しかし、大体こういうことを決めて予算措置をしても、よくあることは、そんな制度があることは多くの人が知らず、決めた当人や当組織の人も制度を作ったらおしまいで、それを実施することに努力しないということです。あるいは、決めた当事者の、私のようなトップがえらそうに和歌山のトイレは綺麗だぞと宣伝をした時、観光客などがそうでないケースを発見したら、その人は知事があんなことを偉そうに言っているが、実際はこんなに汚いトイレがあったぞ、言っていることとやっていることが全然違うじゃないかと思うでしょう。今時ですから、その人は、面白がってネットでそれを拡散するかも知れません。そうなると、観光の振興のために折角なけなしの予算をはたいて努力していることが、やらない方がましだったという悲惨な結果に終わる恐れもあります。そこで、私は、どこへ行っても、「トイレのぞき」を励行することにしました。といってもいかがわしい意味ではありません。駅のトイレが標準仕様通りに綺麗になっているか、どこどこの街の公園のトイレはどうか、自分が使わせてもらう時だけではなく、用事があって近くに行った時にちょっと点検と、チェックに行っていました。そして県庁に帰ってから担当を呼んで、そのことを報告するわけです。そうこうしていると、職員も自分で気を付けてくれるようになって、綺麗になっていないところは、設置者の市町村や交通業者に説得してくれるようになりました。また、飲食店や旅館ホテルなどにも職員が説得に行ってくれるようになりました。こうして、和歌山県のトイレは格段に綺麗になっていきました。どんな田舎道を走っていてもそこの公衆トイレには温水洗浄便座付トイレが装備されています。おそらく温水洗浄便座付トイレの普及度は日本一だったでしょう。このように、改良を怠って放ってあるトイレがほぼなくなってきたので、和歌山県庁をあげて全国、全世界に宣伝をしました。その効あってか、和歌山県トイレは旅行業界の中ではちょっとした話題になったのも事実だったと思います。もとより、日本のトイレは綺麗ですから、その中で一番というのは世界一と言うことです。ただ、その効果でいくら観光客が増えたかという検証が出来なかったのは残念です。
 この件で面白いことが三つ起こりました。
 一つは週刊文春が和歌山のトイレはすごいという特集記事を載せてくれたことです。フリーのジャーナリストが書いた記事だったと思います。あの令名高き「文集砲」がです。私はあのとき以来文春が誰かをけなした記事は山のように見ましたが、褒めた記事は見たことがありません。
 二つ目は、TOTOの社長がいい企画で温水洗浄便座付トイレの名を高めてくれたとわざわざ和歌山へお礼を言いに来て下さいました。実はわざわざ社長が感謝に来て下さったので、10箇所ぐらいプレゼントでトイレを下さるかなと思っていたのですが、それはありませんでした。お土産に色んな格言を書いたトイレットペーパーを下さいましたが、トイレに流してしまうのが恐れ多いような気がして、知事執務室の机の上に他の大量の書類とともにおいてあったら、いつしか行方不明になってしまいました。実はその時、「日本の潜在的超有望輸出品はTOTOウオッシュレットだと思いますから、無茶苦茶海外に拡販をかけるべきではありませんか。」と進言したのですが、トイレが車と並ぶ日本の輸出品になったという話は聞きません。ただ、コロナの前の観光客の爆買いの時、よくテレビの画面に、温水洗浄便座の便座だけ買って運んでいる中国人らしい観光客がよく映り、やはりねと思ったのでした。
 三つ目は、それ以来「大作戦」という言葉が県庁の新しい政策のネーミングに頻繁に登場するようになったことです。「おもてなしトイレ大作戦」は私の造語ですが、実は諧謔の心を表した言葉です。トイレというちょっと日陰者のイメージがあるものにあえて「大作戦」というネーミングをしたら面白かろうと思って、ふざけて付けた名前なのですが、その後職員は何かというとプロジェクトに「・・大作戦」と言う名を付けるようになりました。おふざけの要素のない時もです。やはり名は大事ですから、プロジェクトの発案者が、何でも「大作戦」と付けるのではなくて、そのプロジェクトにもっともふさわしい名前を考えて付けるのが正しいと思っています。

 その後、日が経ち、東京などでは大きなビルがどんどん建ち、そこのトイレはぴかぴかで、皆温水洗浄便座付のトイレが付いています。私がよく利用していた空港や新幹線の駅のトイレも同様です。新幹線のトイレもだいぶそれが増えてきました。また、都心には洒落た公園や、メイン道路の道ばたにトイレがありますが、これが急速に最近綺麗になって、和歌山ばりのおもてなしトイレになっています。そこで、和歌山が先鞭を切ったけれど、日本ではもう「おもてなしトイレ」がすっかり定着して、津々浦々に行き亘ったのかなあと思い始めていました。ところがそうではありません。JRや地下鉄のまずまず有名どころのトイレも観光地のトイレもそうなっていないということを見つけてしまったというのが冒頭の経験です。久しぶりにこれは勝っているわいと、今はもう知事でもないおじさんが思いました。

 しかし、こういうことは、当初考えたように観光振興という目的にかなうためには、ものすごく多くの人に認識してもらっておかなければなりません。週刊文春が褒めてくれたのも遠い過去、旅行ジャーナリズムも和歌山はトイレが綺麗だなどと言うことはすっかり忘れていることでしょう。さらに恐れるべきは一度綺麗にしたトイレが、その後劣化して、汚くなっているかも知れないと言うことです。
 したがって、もう一度和歌山県の関係者は、この折角のレジェンドをもう一度磨き立て、その上でその旨を世に言いまくらなければなりません。劣化しているものはもう一度磨き立て、ありとあらゆる機会を通じて和歌山のトイレはすごいぞとメディアに載せ、旅行業者にアピールし、宣伝をしまくらなければなりません。
 東京郊外のトイレからそういうことを思いました。