能登大地震と紀伊半島大水害の経験

 2024年の元日、能登半島を中心に石川県など北陸地方を大地震が襲い、大変な被害が出ています。1月3日のニュースだけでも、62人の方がお亡くなりになり、その他の人的、物的被害は甚大なものがあります。お亡くなりになった方々のご冥福とご遺族の方々へのお悔やみ、そして被害に遭われた方々へのお見舞いを心から申し上げます。しかし、1年前まで知事をしていた私としては、行政の任にあるものはただこのように悲しみに浸っていて良いというものではないと思います。未だ、助かる命があるかもしれないので人命救助を急がないといけませんし、迅速な応急復旧と、それに続く本格復旧、そして復興の槌音を一日も早く響かせないといけません。
 2011年9月、東日本大震災の約半年後、和歌山県をはじめ紀伊半島各県は、台風12号のものすごい降雨により、今回の能登大地震の規模に匹敵するような大被害に遭いました。その時は前例もノウハウもないままに、もちろん災害対策基本法などの法制と政府の支援、そして半年前の東日本大震災の被災地救援から得られた知見を拠り所にして、毎日必死で、ベストだと思われる復旧活動を思いついては実行に移していました。そのようなノウハウは、復旧がなり、復興がなり、人が変わると、いつしかすっかり忘れられる恐れがあります。そこで、その時の思いつきや工夫によるノウハウや制度は、和歌山県では、県の永久の資産として引き継ごうと、詳細な記録を残し、一部の制度は、災害が起こっていない平時にもいわば常備軍として整備しておくことにしています。
 今、まさに石川県の馳知事をはじめ、県庁や市町村長やその職員、政府の関係部局の方々は対応に必死で取り組んでおられると思いますし、各県の知事の皆さんの顔ぶれを見たら、ものすごく優秀で力のある方々が揃っているので、いずれちゃんとした復旧と復興がなされるとは思います。しかし、あのときの和歌山県のノウハウは、能登大地震の復旧と復興に必ずなにがしかの役に立つと思いますので、参考にされたら良いし、関西広域連合や和歌山県も積極的にアドバイスをしたり、時として、依頼に応じて直接の支援オペレーションに入られたら良いと思います。何せ、ここで言うような災害対策は、初動の入り方如何によって、復旧、復興のスピードが違ってきますし、それをやり損なうと、取り返すのがえらい大変ですから。
 現に熊本県で大水害が起こったときに、私は樺島知事にお話をして、紀伊半島大水害の歴戦の勇士を派遣しました。そうしたら、さすが樺島知事、熱心に彼から色々聴取され、災害対策本部でそれを披露せよと命じられたそうです。
 そのような紀伊半島大水害の経験から得られたノウハウも、能登大地震の復旧、復興に必要とされる対策の、もちろんごく一部でしょう。しかし、このような和歌山県が紀伊半島大水害を経験したことによって蓄積したノウハウ、制度は、その後和歌山県で常備軍化しているものだけで23項目に上ります。したがって、もしかして参考になるのではと思い、全部を説明するのは紙面の都合で難しいので、一部だけ披露します。

1.県と市町村の関係・・・緊急機動支援隊の派遣

 災対法上の役割分担では、災害が起こったときの役割は県よりも市町村が実は大きいのです、しかし、実際の被災時には市町村自身が被害を被っていることが多いし、そうでなくても大混乱の渦中にありますから色々手が足りません。そういうときに、県が法律にあるとおり市町村に報告を求めて取り纏めをして国に報告などばかりしていては、現場の混乱はいつまでも収まりません。そこで、和歌山県は、別の部署で働いている職員を無理矢理はがして、チームを作り、被災市町村に派遣しました。チームのメンバーは、市町村の手の足りないところ、例えば、避難所の運営や道路の不通箇所の特定などに大活躍をしました。特に避難所ではそれぞれに不足する物資が発生しますから、この情報を県の本部に送り、県でまとめて、トラック協会の支援を得て各地に届けるというシステムを作りました。今は常備軍化したチームは電子装備されていまして、iPadに入力すると本部で必要な物資の必要量が自動計算されることになっていますが、当時は衛星携帯を含む電話で本部に連絡をし、それを本部員が手作業で集計していたのです。崖崩れ等による道路の通行不能の状況も、普段なら管轄の市町村などがあっという間に調べてくれるのですが、被災して職員全員が被災者の世話などにかかり切りの時は調べに行っている暇がありません。そういうときに、早く調べて報告をせよなどと市町村に文句を言っているよりは、派遣されたチームが調べに行った方が早いのです。紀伊半島大水害の時はこの調査力が役に立ちました。このチームは、メンバーの通常業務もありますから、一週間で入れ替えを行ないます。私はこれを緊急機動支援隊と呼んでいました。

2.支援金、救援物資の取り扱い

 大災害の時は心優しい全国の皆さんが支援金や支援物資をよかれと思って送って下さいます。水や食料の他、古着の類いが結構多いのですが、実際の支援者には役に立たないものもあります。(一番使えないのは古着の類いです。)また、送って下さった方の善意を尊重して、どんどん受け入れると収拾が付かなくなります。大抵は県営体育館のような所に、送られて来た順にどんどん積んで行くので、山と積み重なった物の中から、実際に必要になった物資を取り出すのは至難の業になります。東日本大震災の時支援に行った和歌山県チームが、そうなってしまった状況を改善するために、その県の運送業者と県営体育館の中に乱雑に積み重ねられた物を何日もかかって整理させられたと言って、帰って来てから文句を言っていた例もありました。そこでこの教訓を生かして、和歌山県は“非情にも”「救援物資はいずれ頂きますが、下さいと言った物を下さいと言ったときに届けて下さい、それまではそれぞれの倉庫に置いておいて下さい。」という勝手きわまるアナウンスをいたしました。今でも申し訳ないと思っていますが、そうしないと必要な物を必要なタイミングで避難所など必要な場所に届けることが出来ません。これも発災後すぐに手を打たないと、救援物資はどんどん溜まって、県の職員は救援物資を市町村に届けるのではなく、救援物資を整理しているだけというわけが分からないことになってしまいます。
 また、義捐金はいっぱい来ます。我々は公務員ですから、仕事は公正公平にきちんとやり方を決めてからやろうとします。そうすると、義捐金配分基準を決めてから、しかも十分な量が貯まってから、義捐金を一斉に配ろうとしがちです。そうすると時間が掛りすぎて現実のニーズに合いません。被災者は、ちゃんと調査が進んだら銀行預金もあるという人が大半ですが、被災して逃げてきた直後は財布すらどこかに置いてきたという状態で現金が全くないという人が多いのです。そういう人もコンビニでも何とか開けば、自分の好きな飲み物でも買いたいとか、子供にお菓子でも買ってやりたいとか、思うわけで、すぐにお金が要るというのがポイントなのです。したがって和歌山県では、あの大水害の時、すぐに配分基準を決めて、配るには十分にお金がまだ届いていないときでも、届いているお金の何倍かを先に配ってしまいました。もちろん全国の方々のご厚意で支援金の金庫はすぐに埋まっていくのです。

3.がれき処理

 災害によって驚くべき量の廃棄物、がれきが発生します。中身は汚れてしまった衣類や畳、壊れた家の柱や屋根瓦などの建築材、岩、土砂、崩れてきた斜面に生えていた、または津波などで流れてきた立木、木屑、廃家電、廃家具、泥など様々です。これら災害廃棄物は法律上一般廃棄物なので、その処理は市町村の仕事です。ゴミ収集と同じなのです。ところが被災時には、毎週集めているゴミの何万倍ものゴミが一挙に出てしまうわけですから、市町村が迅速に処理が出来るわけがありません。したがって、がれきはどこかに乱雑に積まれたまま何ヶ月も放っておかれ、これが復旧、復興の邪魔になります。今回の被災地においても、今後この未処理のがれきの類いが放置されたままになって、テレビの格好の報道材料になることを恐れます。東日本大震災の復旧状況の分析から、和歌山県はこのことを事前に予想していたので、発災当日から、産廃業者さんの力を借りてがれきを処理すると決めて、業界団体にお願いして、有力業者ごとに担当市町村を決めて現地に入ってもらいました。そして市町村には、まず、廃棄物の種類ごとに、捨て先の空き地を確保してもらい、被災住民には、家の前に捨てたい物を放りだして積んでいても良いが、そこからどこかに運び出すのはやめてもらって、産廃業者と市町村の廃棄物担当が相談、分担してこれを行ない、その時には石、泥、木材、廃材、金属、繊維、畳など分別して運んでもらうことにしました。そうすると、そもそも金属、鉄屑、銅線、丸太などは有価物ですから、置き場からどんどん誰かが持って行ってくれるし、石、泥などは津波に備えた高台造成に使えるので便利ですし、最後に残った有価ではないがれきの塊はどこかの大産廃業者が航空母艦のような廃棄物運搬船を持ってきて運び出してくれ、極めて短期的に全部片付いたのです。現地市町村には、この大活躍の産廃業者さんと現地市町村のリエゾンとして、日頃産廃業の監督をしている県の職員を送り込みました。(はじめはがれきの処理は自分の仕事ではないと抵抗していましたが。)

4.ボランティアの方々の扱い

 大災害の時はボランティアの人々は大いに燃えます。本当に有り難いことです。ところが、往々にして起こることは、市町村サイドで、ボランティアの受け入れを時期尚早と拒むことです。心優しい市町村の職員は、ボランティアの人に泊まってもらう宿泊施設も確保できないので申し訳ないからと言うわけです。しかし、善意の塊のボランティアの人々は、自分の車で寝るとかして、寝る所ぐらいは自分で都合を付けてでも人を助けたいと思って来て下さる人なのです。だから、現地市町村がやらなければならないことは、一刻も早くボランティアセンターを作り、各人にどこそこに行って下さいと、ボランティアの方の交通整理をすることなのです。紀伊半島大水害の時は家の中に浸水して泥だらけになった家が大量に発生しました。その時必要になる泥かきは、さすがの自衛隊もやってはくれません。高齢化が進み、過疎の田舎では、この泥かきを年を取ったおじいさん、おばあさんがやっていては、疲労で災害関連死が進んでしまいます。こういうことですから、私は、当初いやがっていた市町村を説得して迅速にボランティアセンターを作ってもらいました。その後は全国の方々の善意によって、泥かきなど様々な難題が解決されていきました。

5.避難所から温泉ホテルへ、仮設住宅より借家、借間

 人は皆既成概念にとらわれます。大災害が発生したら、被災者をまずは避難所に収容して、そのうちに仮設住宅をいっぱい作って、それが出来たら避難者に移ってもらうというのが誰も疑わないシナリオになっています。通常体育館のような施設が当てられる避難所に長く滞在していると、体が壊れる恐れがありますし、第一楽しくありません。また、仮設住宅に入ることになると、その竣工までに時間が掛りますし、大体の仮設住宅は空調などがあまり快適でなく、皆さん苦労しているようです。そして、いつかは入居者に出て行って頂いて、これを撤去しないといけません。お金もかかります。
 そこで和歌山県は知恵を絞って、別の行き方も選択できるようにしました。まず、避難所ですが、そこで生活せざるを得ない、特に体も弱いお年寄りを、希望により、近くの温泉ホテルに移ってもらうことにしました。もちろんその費用は、災害救助法の適用により国から出ます。そうすれば、快適な部屋と寝床が保証されるし、おいしい食事も付いているし、温泉にも入れると言うことで、疲労とストレスによる災害関連死というのとはほど遠い環境を提供できるわけです。もちろん、ホテルが法定費用で被災者を受け入れてくれるかがポイントですが、東日本大震災の時も、紀伊半島大水害の時も、ホテルが喜んで協力してくれました。考えてみると、大災害の時は、一挙にお客がゼロになるのですから、安い料金でも仕事があり、人助けを出来るというのなら損はありません。ただ、この仕掛けを作って、東日本大震災の時、岩手県から体の弱いお年寄りを和歌山県の温泉ホテルに避難してもらおうと思って、和歌山県負担でバスで迎えに行きますよと提案したのですが、答は「間に合っています」でした。紀伊半島大水害の時は、この制度を利用された方は相当数いました。
 また、和歌山県は残念ながら人口減少県で、特にあの大水害が起こった紀南地方はそうでした。このため、空きの借家や借間がいっぱいあるのです。どの街でも、水害ですから、大津波の時のように面で広い地域が打撃を受けると言うことではありませんでしたので、そういう借家や借間は多く無傷で利用可能でした。そこで大々的にこのような施設の賦存状況の調査をして、制度的な補助もしながら、その施設を仮設住宅代わりに使わせてもらいました。大家さんにとっては、空き部屋解消にちょうどよかったし、住み心地も、湿気がこもって仕方がないという粗末な仮設住宅よりはましだったと思うわけであります。このようなすべての人にとって得な方式は、ちょっと既成概念から離れて、発災による被災地の周辺の観光地の惨状と住宅状況を考えてみると、自然に思いつきました。

6.応急復旧の方法、本格復旧のこつ

 紀伊半島大水害の時は、数え切れないほどの崖崩れや堤防の破損が起こり、道路は至る所不通になり、破損した堤防は次に雨が降ったらとても危険だという状態になりました。そこで道路の啓開など応急に復旧を要する仕事が沢山発生します。その時、一刻も早くこの仕事を完成させてしまわなければならないのに、二つの障害が発生します。一つは私の県政が登場したのは前の知事の官製談合事件でしたから、和歌山県は競争入札を徹底した公共調達手続きを作っているということです。そんな手続きをしていると、工事が出来るようになって不都合な状況が直るようになるまで、えらい時間が掛るということです。もう一つは、県は貧乏で、国からいろいろな補助を得て公共事業を行なっていますので、どうしても、ちゃんと国に応急工事の補助の申請と決定をもらわねばならないと考えてしまうことです。そんなことをしていては直すまでにどれほど時間が掛るか分かりません。そこで、和歌山県は、まず、応急復旧工事は随契で、しかも現地振興局の権限でやってよいと言うことにしました。そうしたら、現地の建設業者さんが団結して、工事の分担を決め、あっという間に応急復旧を仕上げてくれたのです。何せ自分たちの地域の復旧なのですから。次に、応急復旧は、事前の補助金申請がなくても、国交省などが配慮してくれると言うことを私は知っていたので、勝手にどんどんやらせてもらい、国交省などは後で資金面のフォローをやって下さいました。こうして、みるみるうちに応急復旧が完成しました。イメージで言うと、崖崩れで道路が不通になった場合、崖を応急処置で崩れにくくして、道路のセンターに鋼矢板を建てて片面通行でしのぐといった感じです。これで不通は解消です。しかし、次は本格復旧です。元通りに戻す、あるいは将来のことを考えて、もっと強靱な形にするという改良復旧を行なうと言うことです。これは勝手にやってしまうということは出来ません。補助を得ようとすると国の承認が要ります。でも早くしなければいけません。したがって、勝負は、補助事業のプラン、設計を早く仕上げて、一日でも早く国交省、農水省などに申請をあげることになります。そこで、私は、関西広域連合の仲間の府県、さらには関西広域連合からお願いをしてもらって九州知事会各県の優秀な土木の技術屋さんを沢山お借りしてきて、彼らの力もお借りして、申請書、とりわけ設計図の作成に全力を挙げました。おかげで、本格復旧に係わる国の認可申請が次々に行なわれ、認可はその年の12月中には全部頂くことが出来ました。こうして次の年の一月から一斉に復旧工事に入れたのです。
 復旧が遅れれば人々の心が死んでいきます。人々の心が死ねば、いつか復旧がなったとしても、その地域が衰退から蘇ることはないでしょう。ですから復旧を急がなくてはいけないのですが、私は、さらに、人々に希望の火を心に灯し続けてもらうために、本格復旧の完成時期を宣言しました。1年半で95%の復旧工事を完成させると言ってしまったのです。この手のことは、うまく行かなかったときに人に責められるのを恐れて皆やりたがらないのですが、人々の心の希望の火を消さないようにあえてやってしまいました。事実かなり楽天的な見通しだったのですが、皆が頑張ってくれたおかげで94,5%が実際に出来てしまったのです。

 まだまだ沢山ありますが、中身は和歌山県庁のホームページで調べて頂くことにして(和歌山研究会のこのホームページの資料集の和歌山県政策集の中にも簡単に述べてあります。)、和歌山県に限らず、各県に成功の記憶、失敗の記憶がいっぱいあるはずだから、それを被災に苦しんでいる地方の当局にインプットしていけば、必ず効率的、効果的な復旧、復興が出来るはずだと、私は思います。東日本大震災の時、当時の関西広域連合井戸連合長のリーダーシップで関西各県はカウンターパート方式で被災各県に救援に入りました。石川県をはじめ北陸は関西の友邦です。前にも増して手厚い支援が求められると思います。その時、あの紀伊半島大水害で阿鼻叫喚の地獄を経験し、関西広域連合各県、九州知事会の各県の支援を得て、復旧復興を急ぎ、その中で多くのノウハウを蓄積している和歌山県こそ今回は恩返しをするときであると思います。