天知る、神知る、我知る、君知る

 今の教育に問題を唱える人がおっしゃる卓見は、教育ではリベラルアーツをもっと大事にしないといけないということです。私が尊敬している青葉学園の田村哲夫理事長が、そのことを強調しておられ、その主宰する渋谷学園渋谷中学高校と幕張中学高校の生徒さんに、自らこの神髄を語った校長講話を続けておられます。有名な「伝説の校長講話」で、中央公論新社から出版もされています。私も、長い人生を考えたら、受験勉強ばかりを脇目もふらず頑張って、その分少しだけ偏差値の高い大学に入るよりは、多くの分野の勉強をし、本を沢山読んで、それを元に自分で色々考えてみるという経験を積んだ方がずっと良い結果をもたらすのではないかと思っています。
 リベラルアーツということを考えますと、漢文の勉強は特に大事だと思います。昔の人は我々よりも圧倒的に漢文に対する教養程度が高いと思います。学校では漢文も習ったし、大学受験にも出たという私たちでさえ、少し昔の人の文章を読んでいると、その漢籍に対する知識と教養が、私など足下にも及ばないと思って、一種羨望の思いを持っていました。ところが聞くところによると、その後の教育の変遷で、(決して改革とは言いません。)漢文がさらに削られ、ほとんど履修をすることなく大学に来てしまう人も多いと聞きます。私の家内のお友達のご主人で、原子力安全委員会委員を務められた、東京大学生産技術研究所の故中桐滋名誉教授は、当然理科系の方ですが、生前、今時の学生はまったく文化的教養に欠ける、こういうのがないと良い研究も出来ないのではないかと奥様にこぼしておられたそうです。
 中でも、漢文は、単に中国の文字を日本人が読めるようにするというものではなくて、中国の古典時代からの教養や道徳を勉強が出来るというものであったと思います。だから、そういう漢文の素養のある人は、道徳的にも、優れたものを体得しており、そうなるが故に若い私などが羨望のまなざしで仰ぎ見たのではないかと思います。私の時ですら漢文の教科書には優れた人生の指針や、社会道徳が沢山盛られていたと思いますし、また、その言い方が簡潔明瞭で、いかにも歯切れが良いので、頭にすっと入るものがありました。私が今でも、よく覚えていて、折に触れて使っている言葉に、「恒産なくして恒心なし」とか、「惻隠の心なきは人にあらず、寛恕の心なきは人にあらず。」とかありますが、最近気に入っている言葉が、表題の、「天知る、神知る、我知る、君知る」という言葉です。調べると、後漢書の楊震列伝というところにあるそうで、楊震という清廉の士が、かつて自らが登用を推挙して職に就いた人が、その恩義に報いようと金銭を持ってきて、それを固辞する楊震に、私とあなたの二人だけの秘密だから良いではありませんかと言ったことに対して、楊震が言った言葉とのことです。正義に反するからとか、良心に悖るからとか言うよりは、このフレーズのほうが語呂が良いので気に入っています。我々の行為は世間にばれないから良いのだというわけにはいかない、天も見ているぞ、神様も見ているぞ、それに、私自身がそれはいけないということを知っているぞ、そもそもあなたがそれを知っているではないかということになって、けっこう深いものがあると思います。私は「天」と「神」は当然として、「我知る」と「君知る」が大事だと思います。人生を送るとき、頑張って良い人生を送ろうと思ったら、自分の心に悖るようなことをしてはいけないということがとても大事です。ここは心の持ちようの問題だと思います。これに対して、次の「君知る」は、ややプラグマティックに考えても言えるということだと思います。二人だけの秘密だよと言われても、いつ相手の心変わりがあるかもしれません。したがって、そういう心に反しないばかりか、処世のリスクも避けようと思ったらそういう秘密を作らなければ良いのです。
 行政や政治をやっていますと、そのような「ここだけよ、僕たちだけよ。」という話がけっこうあります。それにどう対処するかは、その人の人生観の問題だけれど、私は裏表なしで行こうと決めていました。たとえば処世訓的に考えても、ある有力者の所に行って、その人の気に入るようなことを言い、その人とは立場が違う別の有力者の所に行って反対のことを言ったとします。その場ではそれぞれの人が気に入ることを言うわけですから、受けはとても良いのですが、おそらくこの二枚舌はばれます。なぜならば、受けの良いことを聞かされた人は、嬉しくなって、世間に広くこのことをしゃべりまくるからです。すると、当然、違うことを言われていた人の耳にも入り、それが分かったときは、二枚舌を使った人が大変なダメージを受けかねないからです。ただし、相手の人や世間の人が、あいつはどうせそういう奴だと思っているようだったら、そんなにダメージにもならない時もあるかもしれません。でも、そういう状況というのは、「我」が見ても、「天」が見ても、「神」が見ても、情けないことだと思うのであります。したがって私は表裏を作ることを拒否して、知事の仕事をやってきました。はじめはリップサービスぐらい出来ないのかとよく言われましたが、そのうち、そういう秩序が定着してきて、あまり言われなくなりました。そのかわり、これまた、漢文に「綸言汗のごとし」という言葉がありますが、ちゃんと部内で検討をして論理的にGOということにならない限り、軽々しく「やります」とは言わないようにし、言ったからには断固実行するということにしていました。その点も、県民の皆さんは心得てくれていたと思います。およそ表面的にも目の前にいる人の意にに沿うようなことを言うのが政治家だと多くの人は思っておられるのではないかと私は思いますが、そうとすれば私はおよそ変わった政治家であったろうと苦笑しています。
 このような態度を堅持していないと危ないという世界が、私が知事になる前の駐ブルネイ大使時代にありました。国家のためには外交官はどこかで嘘をついたり、二枚舌を使ったりしなければならないときもあるでしょうが、日常的にそのようなことをしている外交官はどんどん人に信用されなくなって、良い仕事が出来ません。たとえば、どの国の人も、自分の国を誇りにし、相手の国になにがしかの嫌悪感や反感を持つものです。それが先進国と途上国との関係になると、もっと自国に対する優越感になったり、相手の国に対するさげすみの気持ちになったりしがちです。そして、仲間内でそのようなことを語らったり、自分たちの行動に秘密や表裏を作ったりすることもあるでしょう。しかし、こういうことはすぐにばれます。なぜかというと、たとえば大使館には、日本人職員だけでなく、現地採用の現地人がいます。そういう人たちは、今度の大使は自分たちの国を本当はどう思っているのかすごく気にしています。そういう中で、たとえ、表向きはきれい事を言いながら、日本人の派遣職員の中では相手国の悪口を言っていたとしたら、そんなことはすぐにばれてしまいます。現地採用職員はちゃんと聞いているのです。しかも、ブルネイのような国では、大使館の現地採用職員は、有力者の子女が多いのです。ばれたときの外交活動への影響は計り知れません。だから、出来るだけ現地に溶け込み、現地採用職員と仲良くし、表裏を作らないのが良いのです。大使公邸でも同じです。公邸の使用人は、ブルネイの場合、フィリピン人やマレーシア人です。彼らは長く勤めていますから日本語もかなり分かります。それに大使夫妻が実際どう考え、どう行動しているかを如実に見ています。そして彼らの出身国のネットワークがありますから、あっという間にそのルートで、表裏が分かってしまいます。だから、一番手っ取り早いのは表裏を作らないことです。一例を挙げると、わが公邸の調理場では豚肉を調理するのは一切やめました。中国系のブルネイ人が行く町のノンハラルレストランで私も豚肉も食べましたが、公邸には一切持ち込ませませんでした。私たち非イスラム教徒は別に豚肉を食べても良いのですが、ブルネイの要人を呼んで招宴をするときにだけ豚肉を使わなかったとしても、厳格なイスラム教徒はあそこの家では自分たちが豚肉を食べているから、まな板や包丁は汚れているからいやだということになるのです。したがって、私は我が公邸には豚肉は一切持ち込まないと宣言しました。でも、こっそり自分たちだけで食べていても分からないのではないかと思いがちですが、そうではありません。バトラーなど従業員が見ているのです。そして表裏はすぐに分かってしまいます。分かってしまったときのダメージは、そんな宣言をしなかったときよりももっと大きいでしょう。あの大使は嘘つきだということになります。実は、この手の情報はそれぞれのネットワークを通じてそれぞれの要所にたまります。したがって、その要所を攻略すれば、機微な情報が得られるのですが、それはまた別の話です。おかげで、私の時代の日本大使公邸は、ブルネイ人も、外国人も、政府要人も、外交団の人たちも、民間人もいっぱい来て下さって、楽しく、良い仕事をさせて貰いました。

 天は見ています。神様も見ています。何よりも自分の良心が見ているし、相手や関係者、そして世間が見ています。