八紘一宇の精神と日本の現地人教育

 産経新聞のずっと続いている特集に「南と北の島物語」というのがあります。私もずっと読んでいるわけではないのですが、12月20日の記事に「私財で学校を作った男」という記事がありました。第一次大戦の結果、日本は旧ドイツ領の南洋諸島を植民地として獲得するのですが、その時パラオ諸島でビジネスで成功した森小弁という人が、彼のビジネスの根拠地であって、パラオ諸島の中でも人口も少ない東島に現地人の子供が通う小学校を建設したという話です。これは一人の人の美談ですが、同じような話は、私は他国の植民地経営で、キリスト教の修道院が現地の子供達に教育を授けているという話以外は聞いた事はありません。意地悪く言えば、その修道院の活動も布教の手段だと言えばそうとも言える話で、森小弁のように、自分のビジネスの成功の社会還元が現地人の教育というのは、日本人特有の発想ではないかとも思います。
 そう言えば、同じ日本人同士、しかも同じ故郷の若者に対してですが、和歌山にはかの有名な日本育英会よりも歴史の古い、竹中養源会という奨学機関があります。最近ではスーパーのオークワが作った大桑文化教育振興財団による育英奨学金という制度や、古くは紀州徳川家が中心になって基金造成をして今日に至る南葵育英会という制度もあります。成功した人は、これから成功するかもしれない若者が教育を受けられないことによってその芽を摘まれないように、教育だけは受けさせてやろうという発想を持っていたと思います。これが植民地という民族が民族を支配し、差別する制度の中にあっても、現地の子供達には自分たちと同じような教育を受ける機会だけは与えてやろうというのが、日本人の少なからぬ人々の発想であったのではないでしょうか。教育制度の話ではありませんが、私は経済産業省の役人をしていましたから、多くの国において、日本の進出企業と現地の従業員の関係と、他の国の進出企業と従業員の関係の違いをよく聞きました。日本の企業の経営者は現地の従業員を仲間として遇しようとするが、他の国の進出企業はそうではない。その国が自分の国よりは貧しいと思ったら、その従業員に対して思い切り暴君として望む某国の幹部社員や、自分たち本国からの派遣社員と現地の従業員の間は契約による義務を遂行することを求めるのみで交流などしようともしない他の国の企業人とは、日本企業はどうも違う関係を結んでいる様に思えました。この日本的企業経営が、一時の日本企業の海外展開の成功の要素であったし、一方、規律の弛緩やノウハウや技術の従業員を通じての流失による経営破綻に繋がる失敗の原因でもあったと、私は思うところもあります。しかし、同時にこれらから、日本人は本当の意味で人を差別できない国民ではないかと思うところもあるのであります。
 日本の戦前の戦争と、海外雄飛という名の侵略と海外進出は多くの失敗をもたらし、我々の戦後の苦難を呼び、我々の心に大きな傷を与えています。私の子供の頃は今よりもっと大きかったと思いますが、我々はいけない国家のいけない国民と教えられ、多くの賢そうに見える人がマスコミや学界でそう語っていました。しかし、その後の多くの経験や知識から、それもそうだが、日本だけが言われることではないなあと多くの人が段々分かって来たのが現代のような気がします。とはいえ、まだまだ、テレビなどを見ていますと、そう言わないと出してもらえないし、生きていけないのかなあと思えるような人の発言が飛び交っていますが。
 とりわけ、支配者と被支配者で差別が生まれる大きな原因は、教育の機会均等の欠如です。世界の国が、植民地や合併をした国に対して、教育面で何をしたかを見てみると、日本は極めて特異です。日本は植民地にも合併をした国にも、内地でも数少ない帝国大学を作っています。台北帝大と京城帝大であります。また、強引に傀儡政権を作った満州、中国東北部には建国大学を作っています。その大学は日本生まれの日本人だけが行けるのではなく、現地に育った若者にも開放されています。もっと言えば、小学校から、中等教育に至るまで、現地に育った子供達には、そこで学べる機会は日本人の子供と同じく与えられています。私の岳父は台湾に赴任した現地人向けの学校の教員の息子として育ち、現地の学校から最後は旧制台北高校から東大の法学部に進み、大蔵省で働きましたが、子供の頃はずっと台湾人の家庭に育った子供達と一緒の教育を受けています。私はその後の経験で、こんなことは当時の他の国の植民地には存在しなかったということが分かっています。インドのガンジーはインドで教育は受けていますが、進むべき大学はインドにはなく、大学は英国本土です。英国政府がインドに国立大学を作ったなんて話は聞いた事もありません。初等中等教育の機会は幾ばくかの子供達に与えられていたインドと違って、オランダが支配するインドネシアでは、現地人教育など植民政府は考慮すらしなかったのではないかと、スカルノやハッタの事績を勉強してみるとよく分かります。逆に言うと、日本の敗戦の後オランダが何故インドネシアに戻れなかったのか、それは日本の占領統治がそれまでのオランダといかに違うかが圧倒的に多くのインドネシアの人々に分かったからではないでしょうか。小学生の時、私は読書好き少年でしたので、太平洋戦史とか、現代の世界の歴史とか子供向けの本をよく読んでいました。そこには、戦前からの知識人が書いた、学校で教えてくれないような話が沢山載っていたような気がします。その一つが日本の進出によってアジア諸国の独立運動に火が付いた、だから、太平洋戦争は日本が敗けたけれど、アジアの反植民地運動と独立には意義があったのだという話です。その後この手の話は、語るべき人が十分に「民主化」されたためか、ほとんど目に触れなくなりましたが、事実としてはその通りだと私は今でも思っています。(ヘンリー・ストークスさんが日本が太平洋戦争で負けたのはアメリカだけで、ヨーロッパの国には負けていないし、あの戦争の結果ヨーロッパの国々は植民地を失って完敗したのだと本に書いていました。)しかし、だからといって、あの戦争を評価する気持ちは私にはありません。反植民地運動に火を付けたと言うのは、あくまでも結果であって目的ではありません。
 以上のように私は評価していますが、どこまでが建前で会ったのか、どこまでが本心だったのか知りませんが、当時の日本政府は、占領した、あるいはこれから占領するアジアの国は、日本と対等の一つの共同体だという主張をしていました。戦争の名前も大東亜戦争、地域は大東亜共栄圏、そして戦争末期になってからチャンドラ・ボーズなどの各国要人を糾合して大東亜会議を東京で開いています。アジアから欧米の支配者を追い出してアジア人の国を打ち立てるのだという主張です。そして、この考え方のスローガンが「八紘一宇」です。日本書紀の「八紘を掩ひて宇にせん」から取った言葉らしく、すべての天下である八紘を一つの宇すなわち家のようにするということらしく、人種、民族などに関わりなく皆が一つの家の元に平和に暮らすことを目論むとした言葉です。当時の人の言説を聴しても、当時の日本人はやはり日本人の優越意識が強く、アジア人は皆対等の同胞という気持ちにあふれていた人がどれほどいたかという点についてはいささか疑問ではありますが、この考えが当時の幾ばくかの日本人の心に影響を与えていたのではないかと言う例を各地で発見します。はじめに述べた森小弁さんもそうでしょう。また、日本占領下のブルネイに知事として赴任した少壮の木村強氏は、ブルネイ人に対して、おそらくこの精神を体現して接し、ブルネイ人の自尊心を傷つけぬように、かつブルネイの後の発展に資するような施政に努めた結果、戦後ブルネイ王からブルネイで望みの地位を保証するのでブルネイにもう一度来て尽くしてくれないかという誘いを受けています。ブルネイに赴任したおそらく日本の高級官僚であった木村強さんも、パラオ諸島で小学校を建てて島民を教育しようとした森小弁さんも、心のどこかにこういった八紘一宇の精神を持っていたと私は思いますし、もっと言えば、政府が戦意高揚にこのようなプロパガンダを唱えるずっと前から、日本人の心には「八紘一宇」のような考えと優しさが根付いていた、だからこそ、あの戦争の最中でもこのような行動を示す木村さんや森さんのような人々がいっぱい出てきたのではないかと私は思います。戦争に負けたから、戦前の日本と日本人がすべて悪で、その中に善や美徳を認めないような主張をする人は、虚心坦懐にアジアの人の心を見てきてから言ってもらいたいと私は思います。