何になりたいか、何をしたいか

 「末は博士か大臣か」、今の若い人には死語となっているかも知れませんが、私の子供の頃にはよく聞かれました。この言葉は既に少しおちゃらけた感じで使われていましたが、どんな人だって、自分は何になって生計を立てていこうかということは真面目に考えるものだと思います。そうして、若い頃に考えていたことと同じかどうかは別として、皆何かになって、働き、暮らしています。
 この間、経済企画庁のOBの会合がありました。最近お誘いを頂いて参加させて頂いていますが、主として私よりも先輩のOBと、その方々とおなじみであったジャーナリストの方が出席されています。そのうちの一人が、最近の政治の不祥事を憤って、「大体政治家たるもの、自分の地位を守ることばかり考えている人ばかりで、自分を選んでくれた人々に尽くすという人は見当たらない。けしからん。」と仰るので、「私は少なくとも自分の地位を守るという気持ちで知事の仕事をやっていたということはありません。折角知事にならせて頂いたのですから、県民の幸せのために尽くすことだけを考えることにして、自分が再選されたいと思う気持ちで政治行政をするのはやめようといつも思っていました。政治家としては少し変わっているのかも知れませんが。したがって、やめる時も私の方では抵抗はなかったのですが、県民の皆さんからは、まだまだ選挙で落ちることはないのに、やめるとは何事かと、叱られたり、泣かれたりしました。」と申し上げました。ただ、100%県民の幸せのために尽くすという気持ちで知事の仕事をしていたことは事実ですが、結果として、県の勢いを急によくして、県民を幸せにしましたとはなかなか言いにくいなあという気持ちもあります。この辺の評価はずっと先に誰かがなさることでしょう。 ただ、ジャーナリストの方の言葉はとても重くて、よく考えると、博士や大臣が出てくる冒頭の昔の言葉も、今日的に考えると、何になりたいかが一番大事なことではなくて、なって何をするか、何が出来るかが大事だということなのだろうと思います。最近もっぱら話題が集中している政治団体の記載漏れもよくありませんが、私がもっといけないと思うのは国会議員やその他の政治的要職に就いている人で、政治家として仕事の上で一生懸命努力していることなどがまるで見えないまま、様々なつまらない不祥事を起こす人がいて、この人は一体何のためにこの大事な職に就いているのだろうと思うことです。
 不祥事ではありませんが、この間和歌山県で行われた衆議院の補選の際にあらあらということがありました。元は現在の知事の岸本さんがずっと議席を守っていて、これに挑戦したAさんはいつも比例復活でしたが、最後はそれもかなわずという状況でした。その選挙区が岸本さんの知事就任に伴って空いたので、Aさんが再度挑戦し、これに対して別の党のBさんなどが立候補ということになって、結果的にはBさんが当選したのです。私は知事を辞める時に、「自分は選挙には出ないし、人の応援もしない」と宣言してしまったので、和歌山県政に関して随分貢献して下さったAさんの応援には行けなかったのですが、まあ知名度も高いからAさんが落選することはないかなと思っていました。しかし、結果はBさんがかなりの差を付けて当選されました。Bさんはなかなか感じのよい方だから、県民がそういう判断をされたのだろうと思いましたが、当選後の記者会見を見てびっくりしました。Bさんは、当選後の抱負を聞かれて、第一声で、「身を切る改革をするのです。」とおっしゃったのですが、記者が、「身を切る改革で具体的に何をなさりたいですか」と聞くと、もう一度、「身を切る改革です。」とお答えになったのです。誤解していたら陳謝しますが、私はこの人はあんまり考えていないのだろうなと思いました。国会議員になる、なりたいというのも大事ですが、なって何をするのだ、したいのだということはとても大事で、立候補するからには、そのことを考えておくのは第一に必要なことです。もっというと、具体的に何をしたいかに加えて、さらに、どうしたらそのしたいことを実現できるのだということを、知識としても、覚悟としても、選挙に出る人は持っている必要があると私は思っています。もっともこの議員は若い方だから、当選後速やかに勉強されて今や具体策がたっぷり頭に入っていることはあり得ることですし、そう期待もします。

 私は通産省(今の経済産業省)で職員の採用の担当をしていました。1883年から1985年にかけてであります。次席の課長補佐でしたが、実質的な職員採用は主席の課長補佐とそれを補佐する次席に任されていました。もちろん形式的にはもっと遙かに上の人達が責任者なのですが、より若い人を信頼して任せようというのが当時の通産省の姿だったのです。その代わり、いい人を採れるかどうかは二人にかかっているのですから、責任重大、必死で頑張るのです。当時は今よりも上級職国家公務員の人気も高かったし、通産省はその中でも、志望者の数からいったら断然一番の存在だったので、沢山の学生さんにお会いしました。2年に亘って毎年大体400人ぐらいの学生さん達が来て、その中から事務職で25人から30人ぐらいを選ばなければいけないので大変です。この数字だけからいうと、採用担当者は選り取り見取りで楽なものだと思われるかも知れませんが、そういうものではありません。優秀な学生さん達ばかりですから、学生さん達も、どこを選ぼうかと真剣に考えています。自分に合った雰囲気の職場はどこか、ここに入ったらそもそも自分で考えているような内容の国への奉仕が出来るのだろうか、そういった思いに当方が応えられないと、潮が引くように学生さん達は目の前からいなくなり、通産省の人気は凋落してしまうでしょう。採用担当者は、学生さんを選んでいると同時に、学生さんに選ばれているのです。したがって、毎日緊張感いっぱいで過ごしていました。
 この期間は主として学生さんと、面と向かってお話をします。その時は当然、当省への志望動機を聞きます。皆さん一様にもっともらしく、なかなか格好よく答えるわけです。大変な数の学生さんですから、一日に沢山の学生さんとお会いします。というようなことをしているうちに分かって来たことは、皆同じような答だなということです。先の例でいうと、何を聞かれても「身を切る改革」と答えると言うようなことです。当時は公務員試験が人気があり、中でも面接がキーだということが分かって来たので、学生さんはどうしたら面接者に気に入ってもらえるかを勉強してきているようなのです。中には公務員試験用の予備校に通っている人がいて、なんと一部の大学には公務員クラブなるものがあって、ここで皆でテクニックを磨いているというようなことも分かりました。それで、皆判で押したような同じ答が返ってくるのです。しかも、それは自分で考え出したというものではなくて、人に教えられたものだから、心がこもっていません。面接者の私のハートには届きません。こんな答を聞いていても、受験生の評価は出来ません。そこで、私は知恵を絞りました。面接に来た学生さんに、いきなりあなたのライフヒストリーを語って下さいと言ってみました。そうしたら、その人がどういう人生を歩んできたかがよく分かります。そこまで行かなくてもその人がどういう人生を歩んできたと自分で思っているかが分かります。それはその人をよく理解して評価することに繋がります。
 また、よくあるステレオタイプの志望動機は、「企業は利潤を追求するため私的な利益ばかりに目が行っているから、感心しない。通産省は国全体の利益を考えて国民に奉仕しているのだからやりがいがある」というものですが、私はこう言われたときに「でも、通産省の目的は国富の増進で、その担い手は企業なんだよ。つまり、企業は我々のお相手であり、パートナーなんだけど、君みたいに企業を汚らしいもののように思っている人は通産省にいると面白くないんじゃないの」などと混ぜ返してみることにしていました。そうすると、学生さん達はえらいことだとばったり倒れてしまうのです。こちらはその中からこの人はどう立ち直るか、どう陣形を回復するかということを期待しているのですが、受験指導でこう言うのだぞと教え込まれて丸暗記して、自分の頭で考えていない学生さんに限って、倒れたまま立ち直れなくて、評価が上がらないということになります。実はそういう学生さんだって、本当は、面接試験指導の変なテクニックなどに毒されていなければ、もっといい対応が出来たのかも知れません。大学生活は時間も機会もたっぷりあるのだから、社会のためにこういうことをしたい、そのためなら何々省に入ってこういう仕事をしたいなどと自分で考えていれば、もっと素直にはつらつと面接に臨めたのにと思います。

 時は流れて、私は和歌山県知事になり、県の様々な制度の改革を行いました。その一つが採用制度の改革です。採用試験には、大別すると、学科試験と面接がありますが、私が学生の頃の和歌山県は採用の可否はほとんど学科試験で決めていまして、その試験の成績順に採用をしていたようです。さすがにどこかの時点で反省があったのでしょうか、私が知事になったときは両方が併用されていましたが、まず学科試験をして受験生を定員の1.5倍まで絞り、後は面接点を少し加味して合否を決めるという方法でした。まだまだ学科試験重視です。県庁は公の機関ですから採用に情実が入ってはいけませんので、それが入りにくい学科試験の成績が重んじられていたのでしょう。しかし、県が使っていた学科試験の問題は人事院の外郭団体から購入してくるもので、国家公務員試験の一次試験にとても近いものですから、あんなものでこれからの県庁を担ってもらう有為な人材の判定など出来るはずはない、と私は思いました。そこで、一次試験として行う学科試験による裾切りを定員の3倍まで広げ、その後行う面接試験の点数配分をうんと大きくしました。そのほか公務員試験の勉強が何らかの事情で出来なかった学生のために、受験勉強の代わりに何かに打ち込んだ結果得られた自らの成長を説明した作文を提出すれば、学科試験の配点をうんと小さくして、この作文の評価点を加えて救済を図るという「特別枠」の創設もいたしました。海外留学から帰ったばかりだとか、最後まで運動部の中心として頑張って、仲間と日本一を勝ち取ったとか、受験勉強の代わりに得た貴重な人生経験をこれからの県庁職員としても仕事にどういかせると思うかを書いてもらえればいいと言うことにしたのです。
 ただ、その時私がやりたかったが出来なかったことが2つありました。一つは学科試験全廃です。これは余程そうしようかと思いましたが、10倍以上の志望者が押しかけてきたら、とても面接が実施できないと思ったので、定員の3倍まで1次試験の合格者を増やすということで妥協しました。
 もう一つは、自分が面接をすることをしないと決めたことです。本当は前に述べたような通産省の時の経験もあり、面接には自信があり、採用は県庁にとっての一番大きな「設備投資」ですから自分でやろうかとも思いましたが、踏みとどまりました。理由は、自分は情実で採用などしないという確信はありますが、いつまでも知事の職にいるわけではありません。後世の知事が採用を悪用しないとも限りません。だから、そのような可能性を残す制度を作ったら、後世に禍根を残すかも知れないと思ったからです。したがって、実際の面接は、人事委員長以下の優秀で厳格な面接者が毎年採用面接をしてくれているのです。
 ただし、一つだけ心配があります。面接官は余程だまされないようにしなければいけません。何にだまされるかというと、先述のような教え込まれた優等生答弁にです。こういうことに慣れていない、公務員によくあるきれい事の好きな人が面接をすると、教え込まれた優等生答弁に感動してしまう恐れがあります。そうならないように、面接官には、いわゆる官僚タイプではなく、何をして県民を幸せにするかをいつも考えているような熱血漢を当てることが必要でしょう。県庁にどうしても入りたいという人ではなく、県庁でこういうことをして頑張るぞという人が見分けられるように。「何になりたいかではなくて、何をしたいか」の人を選べるように。

 政治家も同じだと思います。どうもつまらないスキャンダルに巻き込まれているような人についての報道を見ていると、この人は国会議員とかの政治家になりたいということだけで生きているのではないかとよく感じます。どう考えても政治家としてこれこれをしたいという情熱が感じられないと思う人ばかりです。そういうしたいことがあるのなら、つまらないスキャンダルにうつつを抜かしている暇はないはずではないでしょうか。しかし、どこどこの役所に入りたいだけという人をチェックして、この役所で何をしたいかという情熱を持っている人を選別する役割を果たすのが採用というものであるとしたら、単になりたいというだけの候補者をチェックして、なってもらったらこういういい仕事をしてもらえるだろうという人を選ぶのは、選挙です。したがって、よからぬ政治家があらわになった時、責任があるのは、そういう人を選挙で選んだ有権者であります。色んな問題を起こした人が実は正しい目標も持っていて、ものすごく有能で、たまたま世間で指弾されるような問題に巻き込まれてしまったというのなら、その人を選んだ有権者に問題はありませんが、男前(美人)だとか、感じがよかったとかしか見ていなかったり、この辺でとにかくガラガラポンだと言うことしか考えないで、その候補者が何をしたいと言っているのか、それをこの人がやる能力がありそうかとかなどはあまり考えずに投票しているとしたら、その有権者は、公務員試験用の予備校で教えられた決まり切った答弁をしているのに感心して、その人を採用してしまう試験官のようなものではないでしょうか。そういう採用担当者が漫然と新規職員をとり続けているような組織はいずれ崩壊していくように、選挙で、この候補者は何をしたいのか、その能力はあるのかというチェックをしないで、ただなりたいとしか考えていない候補者を選び続ける有権者は、政治の無軌道を招き、国や地方の停滞や瓦解を覚悟しなければなりますまい。