前回からの続きです。(全2回中の②)
もう一つの例はメガソーラーです。ちょうど民主党政権への政権交代があったころ、メガソーラーが大ブームになりました。特にその推進のために、メガソーラーにより発電された電力の高額買い取り制度が出来ました。和歌山県には、釧路湿原のような平らな土地がほとんどないので、一攫千金を狙った業者さんが主として、和泉山脈のような傾斜地に大規模なメガソーラーを作ろうと考えました。ほとんどが民有林ですから、地主さんはあまり利用もできない山を買ってもらえるのはうれしいとどんどん売りましたから、土地手当ては簡単にできました。そこで、林地開発の許可がどんどん出てきて、そのころから住民が反対の声を上げ始めました。対象地はかなり急峻な斜面で、びっしり生えている木を切ってしまうとがけ崩れなどを起こしやすそうな地形です。また、和泉山脈は和歌山市の市街地に面していますから、いったんがけ崩れが起こると、住宅地に大被害が生じる恐れがあります。これはいかん、と私もこれを阻止すべきだと思いました。そこで、林地開発の規制を調べますと、地元住民が同意するかどうかが重要な条件になっています。一見良さそうなのですが、地元住民というのはどこまで指すのかよくわからないし、地主さんが欲に目が眩んで本来してはいけない同意をしてしまうかもしれません。なぜこういう地元住民の同意を唯一と言ってよいほどの条件にしていたかと言うと、行政が自ら判断して訴訟でも起こされたらいやだという気持ちが根っこにあるからだと思いました。住民が常に合理的に判断するとは限りません。企業が住民を買収しようとするかもしれないし、逆にあらゆる開発行為は反対する人が出てきては進めるべき案件も進みません。そこで、制度を変えました。まず、企業が開発をしようとするときは県はそれを公開して、関係者の意見を聴取することにし、それを専門家からなる委員会でその是非について検討してもらうことにしました。そのほかにも住民の意見があるなしにかかわらず、いくつかの項目に関して客観的、理論的考察も行ってもらうことにしました。その遵守すべき項目も防災、景観保全などあらかじめ明示しました。もちろん審査の中身は公開です。また、メガソーラーの範囲も50平米とうんと小さくして、規制逃れの細切れの乱開発を防ごうと考えました。このようにメガソーラーの可否は行政が責任をもって詰めることにしたのです。念のために申し上げておきますが、人口構造物、すなわち、建物の屋上とかすでのコンクリートで固めた岸壁のようなところに、メガソーラーを作ることは対象外で、自由です。
行政は何でもできるわけではありませんが、そこで発生する様々な不都合を未然に防ぐ責任があります。それを果たすために、今申しました林地開発の許可とか、環境アセスメント規制とか様々な権限があります。条例の不整備で、我々には権限がないので止められませんと言って言い訳をするのではなくて、なければ作ればいいのです。だって、自然環境が無茶苦茶になったら、観光などの面で地元の利益は大いに毀損されるでしょう。災害が起こってしまったら取り返しがつきません。今手元に手を下すべき法的手段として何があるかではなくて、地域の不都合を防ぐためには何をしなければならないかです。
釧路湿原の真ん中に自然を壊してメガソーラーがどんどん出来ていますという記事を見て私も野口健さんのように怒りを覚えました。そうして、いったい行政は何をしているんだろうと、記事にはありませんでしたが、そう思いました。記事からの情報だけなので間違っているかもしれませんが、大いに疑問を感じました。
まず、このようなプロジェクトを規制するために建築基準法しか適用が出来ないと書いてあったくだりですが、何を言っているんだろうと思いました。環境アセスメントでも、林地開発の規制でもなんでも使えるものはあるはずです。なければ作ればよい。国が先占していない領域なら地方は自らの責任でかなりのことが出来ます。記事によれば、釧路市は、「ノーモアメガソーラー宣言」をしたそうです。ああ、またあれかと思いました。法的責任を取らなければならないことは何もしないけれど、自分は心の中ではやってほしくないと思っているのだということを世間に言っておくという、「やったふり行政」です。記事の一部に福島市でも同じ宣言をしたそうです。おそらくこの記事の記者はこういうのを評価しているのでしょう。しかし、行政が背負うのがつらい責任を放棄して、このようななよなよとした「やったふり行政」で済ませてしまうという手法が流行ってしまったら、救われないのは住民であり、その地の環境であり、究極的には日本国民であると信じます。
もっと問題なのは、記事によれば環境省の釧路湿原野生生物保護センターのすぐ隣で大規模な伐採が行われ、釧路湿原が失われていると報じられていることです。それが事実であれば、本来自然環境を守るために存在しているはずの環境省の意義はどこにあるのでしょう。何のためにわざわざ釧路湿原に保護センターを設けているのでしょう。そこに駐在しているレンジャーの人からすると、自分たちにはそれを抑制する権限がないというかもしれません。それはそうでしょう。制度は組織の中枢で作られるのだから。でも、事実を発見して、これはおかしい、このままでは自分たちの使命である自然環境の保護が遂行できないと思ったら、その思いを霞が関の環境省本省に伝えて、制度整備を働きかけるべきでしょう。また、少なくともとりえず地元自治体に働きかけて、何らかの行動を起こすように促すべきでしょう。その地の自然環境を守るのが使命の人が、ましてやそこにいながら、すぐ周りで自然環境が壊されていくのを座して見ているというのはとんでもない懈怠です。少なくともそういう風に見えます。見えるのが間違いであってほしいと心から思います。
最後に、記事の中に、またお定まりのステレオタイプが出てきました。私から見ると立派な鳥類の保護を志している人のお話として、この地はタンチョウのつがいや親子の姿が確認されているところだと指摘していると紹介されていて、それをこの地の自然環境を守らなければならないことの根拠のように扱っているところです。環境アセスメントなどのプロの仕事ではすぐに、猛禽類の営巣などが特別に問題にされるのですが、自然はそれに尽きるものではありません。特に釧路湿原のようなところは、それこそそこにある植物相全体が、他では見られないようなものであり、そにの上で生きているすべての動植物の食物連鎖が特異な発展を遂げているところだと思います。猛禽類は食物連鎖の頂点にあるし、タンチョウはこの地に生きる有名な鳥ですので、それを考えることも必要ですが、それだけが保護されればいいやと言うものではありません。すべての環境アセスメントでこのようなステレオタイプが幅を利かせていますが、もっと広い視点で環境を考える必要があると思います。猛禽類などには目もくれず、小さい虫を追いかけている「昆虫少年」だったらこのような環境アセスメント手法がすべてではないとわかるでしょう。そして、釧路湿原にメガソーラーなど建てることはとんでもないことだとわかるでしょう。