召命

 ドイツ語に「Beruf」という言葉があります。社会科学の固い本では「召命」という聞き慣れない訳がついています。他に職業という意味もありますが、何故このような二つの意味があるのでしょう。
 マックス・ウェーバーによると、キリスト教のプロテスタントの教えでは、我々は神によってあらかじめ救われる者は決まっていて、それぞれの人の現世の職業生活の中でそれが証明されていくから、人々は、神に見捨てられないように勤勉に、懸命に働いて成功を求めないといけないが、それが近代資本主義発達の原動力になったのだというのです。だから「職業」と「召命」は同じ「Beruf」なのです。
 プロテスタンティズムの助けなんぞ借りなくても、昔からこつこつと清く正しく働いて資本主義も民主主義も自分達で発達させてきた日本人からすると、何か違和感のある学説なのですが、その中で、我々の職業というものは、神様が我々に励めと命じたもの(召命)なのだという考えは共感を覚えるところがあります。
 私の例で見ると、6年前の和歌山県の不祥事の後、多くの方々のお薦めにより知事という職業を県民が与えて下さったので、計らずもそうなったとは言え、生まれ故郷のために尽くさせていただくと言うことは何と有り難いことであるかと思うのです。だから今の仕事は私にとっての「召命」なのです。誰のどんな仕事も、いい事より辛い事の方が多いと思うのですが、そのように思う事によって、張り切って仕事に励む事が出来ます。県の行為がすべての人に気に入ってもらえることは多分ないのでしょうが、常によく考えて、さぼることなく県民全体のためにはこれしかないという事を見つけて実行していくことが、神ならぬ県民の召命であるといつも思っています。