pass away

 英語で人が亡くなるのを、dieと言う代わりによくpass awayと言います。亡くなった人は、私達の回りを通り過ぎて行ったということでしょうか、実感のわく言葉だと思います。日本語では逝去という言葉がそれに近いと思います。
今年は春先から知人、恩人の御逝去が続きました。後援会においても、築野政次 築野食品工業(株)代表取締役会長、谷為義継 富士化学工業(株)会長が亡くなられ、お二人とも御高齢とは言え、直前までお元気でいらっしゃったので、大変さびしい思いがしました。

 さらに、高校時代から私に目をかけて下さった名教育者 志賀義雄先生が5月4日に亡くなられました。病気が分かってからわずか2カ月くらいの急な御逝去でした。
  実はその少し前に、志賀先生から桐友会という会合に出てほしいので頼みに行きたいという御連絡が来ていますという報告を受け、わざわざお越しにならなくてももちろん出ますが、お越しになることも歓迎ですよとお伝えしておいて下さいと指示を出した覚えがありました。そうしたら突然志賀先生が癌で重症です。申し上げたいことがあるのでできたら近いうちに病院に来てほしいとのお話がありましたとの報告を受けました。こりゃ大変、すぐ行きますと時間の都合をつけてその日のうちに病院にすぐ飛んで行きました。
 おそらく病状もすべて御存知のうえで、私に遺言をなさりたいとのお考えであったろうと思います。
 志賀先生は横になっておられて看護の方に足をさすってもらっておいででしたが、お話の様子など、まったくお元気な頃と同じで、まずは一安心をいたしました。
 先生は、「よく来てくれました。ありがとう」とおっしゃった上で、大略次のように、私に「遺言」をして下さいました。
 「貴方は、とてもよくやっている。歴代の知事の中でもおそらく一番だろう。是非長くやって下さい。その上で3つ言いたいことがあるので聞いてほしい。
 第1は、貴方は、頭がよいので何でも分かってしまうと思うが、職員の意見にも耳を傾けてやって下さい。
 第2は、教育は教育委員会だけに委せてはいけない。教員は行政がそんなに出来ない。委員の方々も行政がしっかりしていないと機能しない。だから知事も教育問題については、教育委員会をしっかり指導してほしい。
 第3は、桐蔭高校の校長として学校の校舎等の充実に苦労して来た時にPTAとして協力してくれた仲間の会があります。この桐友会に私が行けなくても是非行ってやってほしい。」
 私は次のようにお答えしました。
 「3点とも御教えと思って心に留め、そのとおりします。ただ第1の点は職員の意見は聞くだけは割とよく聞いています。ただし、いつもそのとおりするわけではなく、納得するまで議論をしますが。最近の問題は、何でも白紙で知事の意見を聞いて来る事で、自分でも考えて提案するくせをつけようと言っています。
 第2の点は、教育委員会も知事部局と同じようにどんどん何でも言っていますのでご安心下さい。
 第3の点は、承知しました。何が何でも参ります。」
  先生は、ご満足の様子でした。
 存外お元気なご様子だったし、何とかご快癒できないものかと、私は後で旧知の国立がんセンターの専門の先生にも聞いてみましたが、それはかなわぬというお話でした。
 せめて、ご生前にもう一度お会いしようと5月5日に面会を申し込んでいたのですが、5月4日に急にご容態が悪くなり、亡くなられました。
 5月19日桐友会の総会にお招きを受け、先生のご盟友の方々とゆっくりお話が出来ました。素晴らしいお仲間だと思います。

 そして5月6日、島和代さんがお亡くなりになりました。まだ75歳という若さで、しかも突然だったので、訃報に接し、茫然自失になりました。
 島和代さんのご病気、ご入院を知ったのは、「ラ・フェスタ・プリマヴェラ2013」の白浜での歓迎会の席上でした。世話役の早稲田大学教授の小畑さんと島さんのお嬢さんから、膝の感染症で島さんがご入院中であるが、いたって元気なので心配なくと言うお話を伺いました。それでも心配なのでしばらくして、お見舞いに行きたいがと打診してもらったのですが、感染症なのでばい菌が入らないように面会はご遠慮いただいていますが元気でご心配には及びません、とのお返事でした。それで、またまた安心していたのですが、5月6日、これから豪州、タイへプロモーションのため出張という朝、ふと島和代さんのことを思い出し、空港に着いたら島正博社長に電話して様子をお聞きしてみようと思いつつ関空行きの車に乗ったのです。そして車中での訃報でした。後から考えると、ちょうど私がふと思ったあの頃、島和代さんの魂が天国に召されたものと思われます。ご病気のお悪い時のご様子を全く知らないもので、まだ島和代さんが、あの笑顔であのきれいな特徴のある声で、すぐそこにいらっしゃるような気がします。大恩ある島和代さんの密葬にはお通夜もお葬式にも外国出張中なので参列出来ませんでしたが、社葬の際には万感の思いを込めて弔辞を読ませていただきました。以下に掲げます。

 皆さん本当にありがとうございました。そしてさようなら。

 『本日、ここに、故 島 和代 様の株式会社島精機製作所及び和島興産株式会社による合同社葬が厳粛に執り行われるにあたり、謹んで御霊前に哀悼の誠をお捧げいたします。
 島 和代さん お元気であったあなたが、体調を崩し入院されたと伺ったのは、つい先日のことでした。お見舞は遠慮いたしましたが、お元気だとお聞きして安心はしていたものの、一抹の不安を感じつつオーストラリア、タイへの出張に出かけようとしたその車中での突然の訃報に、私は言葉を失いました。
 75歳というあまりにも早すぎるお別れに、運命の厳しさを嘆かずにはおられず、今、このように惜別の辞を申さねばならないのは、本当に残念なことであります。

 あなたは、和歌山が世界に誇る企業「株式会社島精機製作所」の創業者 島 正博 代表取締役社長を支え続けた妻であり、4人のお子さんと6人のお孫さんの成長を温かく見守り続けた母であり、そして卓越した先見性と強力なリーダーシップを兼ね備えた優れた企業経営者でありました。明朗闊達で誰からも愛される人柄で各界から広く信望を集められるとともに、社会公共に奉仕する念厚く、地域の発展に情熱を注がれ、地域活性化に大きく貢献する類い希なる人徳者でもありました。

 昭和12年9月15日に、あなたは、この世に生を受けられました。昭和31年に和歌山県立那賀高等学校をご卒業後、姉上様のような美容師を目指す中で、島 正博さんとの運命的な出会いをなされました。
 昭和34年に島正博さんとご成婚されて以来、仕事一筋の若かりしご夫君をしっかりと支えられ、お二人で会社の危急存亡の秋を何度も切り抜けられたと伺っております。
 夏場にはうだるような暑さの中での作業で疲れた社員の皆さんのために、幼いお嬢さんを背負いながら、費用を抑えつつもボリュームのある昼食を作ることに粉骨砕身され、社員の皆さんからは、もう一人の母としてたいへん慕われていました。社長が機械の開発にのみ没頭する中で、家計のやりくりは、決して楽なものではありませんでした。着付けの助手や内職などをしながら懸命に家族を養い、献身的に、時には叱咤激励しながら社長を支えてこられました。
 大変なご苦労の中、あなたの前向きな姿勢と持ち前の明るさ、周囲に感謝する心があったからこそ、社長が編機の開発に没頭し、会社の経営を軌道に乗せることができ、世界の企業家 島正博さんと世界に冠たる「株式会社島精機製作所」の今があるのだと感じます。

 妻として母として歩んでこられたあなたが、企業経営者として、新たな第一歩を踏み出されたのは昭和62年のことでした。和島興産株式会社の代表取締役社長に就任され、島精機製作所が開発したオンリーワン技術である「ホールガーメント横編機」をはじめ、独自の技術を最大限に活かしたオーダーメイド製品のニット製品販売を全国に先駆けて行うなど、時代の要請に応えた最先端のビジネスモデルを構築してこられました。

 同じ頃、戦前・戦後を通じ、県下最大の商業集積地であり、和歌山市の中心街であった「ぶらくり丁」が百貨店の相次ぐ閉店などにより、元気がなくなりつつありましたが、あなたは、旧丸正百貨店ビルを購入され、新たに「ニットミュージアム」やカルチャー教室、健康関連施設、食料品販売エリアを備える複合施設として再生を図られました。人口の減少や高齢化など平坦な道ではないことを重々承知の上、地域に貢献したいというあなたの飽くなき情熱は、現在、地域の中心施設として、ぶらくり丁一帯の衰退を食い止める役割を立派に果てしてくれています。

 あなたの活躍は本業だけにとどまりません。
和歌山商工会議所女性会の会長として、働く女性の先頭に立って女性経営者の活躍をリードしてこられました。国立大学法人和歌山大学観光学部の設置に向けた要望活動、近畿商工会議所女性会総会・和歌山大会誘致、中国山東省女性企業家との懇談会開催など、あなたが商工会議所女性会会長として、経営者・女性の視点から残した功績は枚挙にいとまがなく、地域経済の活性化に残された業績は計り知れません。
 それだけでなく、「わかやま商工まつり」に際して、女性会ブースで華やかに、かつ、優しく心配りされているあなたのお姿は決して忘れられません。
 また、毎年楽しみにしておりました、女性会の新年会における、あなたのあの可憐な舞台姿をもう二度と見ることができないと思うと涙がわいてまいります。

 一方で、和歌山放送のラジオ番組のパーソナリティとしても活躍されました。「ホエール和代」として毎週多彩なゲストと楽しい会話で場を盛り上げ県民に元気を与えるとともに、社会のマナーが守られていない風潮に警鐘を鳴らすなど、あなたは、率直にかつ温かく教育問題や和歌山県の活性化について提言し続けられました。6年間300回にもわたり続けてこられたのは、あなたの魅力的な人柄に尽きるのではないでしょうか。

 こうした数々の功績は、広く県民の模範となるべきものであり、昨年5月には和歌山県知事表彰をお贈りしたところでございます。
 今、こうして、お別れの時に際し、あなたの永年にわたる本県産業振興への御貢献と県行政への御協力、県民福祉の増進、地域の活性化など、すべてのご功労に対しまして、県民を代表し、改めて心から感謝を申し上げます。

 私は、今、あなたの温かい笑顔を思い出し、あなたとの語らいに思いを馳せ、あなたのお人柄を心から懐かしく思っているところでございます。あなたがいなくなってから1か月近く経ちますが、あなたの存在が大きすぎて心にぽっかり穴が開いたような日々を過ごしている方はたくさんいらっしゃると思います。何事もなかったかのように、私たちの前に元気なお姿を見せてくれ、あの笑顔で、あの美しい声で気さくに語りかけてくれるのではないかと、そんな思いさえしてやみません。

 あなたは、人を包み込むような大きな包容力とともに、和歌山を想い、我々をご指導いただいた、文字どおり「リーダー」と呼べる方でございました。 
 あなたが精魂を込めて築き上げられた事業は、あなたが育てられた後継の皆様によって、今後も営々と引き継がれていくことでしょう。これからは、残された私たちがあなたの志、想いを大切にし、この故郷を素晴らしいものとするため、一層力を入れて取り組んでいかねばならないと思います。どうか天上より「和歌山県」の発展をお見守り下さい。

 お名残は尽きません。
 島 和代さん 本当にありがとうございました。
 どうか安らかにお眠りください。 

                                            平成25年6月5日 』