少し旧聞になりますが、8月15日の読売新聞に小泉信三さんの次女小泉妙さんの筆になる小泉信三さんについての記事が出ていました。色々思い、すぐこの文を書こうと思いながら多忙に紛れてしまいました。
4年前私の父が亡くなった時大勢の方々に悼んでいただきました。そのお礼をこの場でお書きした時にも触れたのですが、私の父の仁坂幸夫は慶應義塾大学経済学部昭和18年繰り上げ卒業で、しかもテニス一筋の学生生活であったのですが、時のテニス部長が小泉信三先生であったのです。その時代の慶應テニス部は強豪揃いで、中々正選手になれず、それでも熱心であった父は主務(マネージャー)として、逆に小泉信三先生と接する機会が多かったようです。先生のご長男の小泉信吉海軍主計大尉が戦死された時、訪問した父達に、「まあ上がってお参りしてやってくれ」と招かれた二階のお部屋は白菊で埋められていたそうで、その話が、全く家庭的でなくあんまり息子にものを言わなかった父の数少ない言葉として残っています。父の小泉信三先生への心酔は並大抵のものではなく、先生の「練習は不可能を可能にする」というお言葉を仙石康盛さんの書家であったお祖父様に書いてもらった額を車庫前の自宅の応接室にずっと飾ってありました。今でも掛かっています。
小泉妙さんは、その小泉信三先生と小泉家の家庭についてこの記事の中で静かに淡々と語っておられますが、小泉信三先生が、息子の死を、塾長として学生を戦地に送り出し、慶應だけで800人もの若者を死なせてしまったことに対する贖罪と考えていたのではないかと語っておられるところは特に感銘を覚えました。それ以上にあらためて感銘を覚えたのは「海軍主計大尉小泉信吉」に所収の信吉の出征に際して送った手紙のことです。
『君の出征に臨んで言って置く。
我々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。僕は若し生れ替わって妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、我々二人は必ず君を択ぶ』
浅学非才の私が小泉信三先生の思いと比べて自分を語るのもおこがましいのですが、私
も何度生まれかわってもわが妻を択び、わが子を択ぶと思います。
と同時に、ずっと仲良くしてくれた我が友を択び、私の活動を陰になり、日向になり
助けて下さっている仲間を択ぶと思います。