徳川頼宜と望遠鏡

 紀州徳川家の開祖は徳川頼宣です。家康の十男で英明、豪胆をうたわれ、家康が晩年最も可愛がった子どもです。家康は将軍職を秀忠に譲ってから江戸を離れ駿府に移り、そこで、まあいわば院政のような事をしますが、その駿府の領主が徳川頼宣で、家康の死後、駿府から浅野家が封じられていた和歌山に所領替えで移封されます。
 頼宣は、私は大変な名君であると思っています。八代将軍吉宗がすっかり有名になったので影に隠れてあまり有名ではありませんが、その吉宗がとても尊敬し、あこがれていたのが祖父の頼宣でした。
 今から考えると、県下の至る所にその足跡が見られます。

 まず和歌浦に紀州東照宮と妹背山の海禅院があります。前者は父家康に捧げた神社で、後者は母お万の方に捧げるために多宝塔を造った寺院ですが、紀州東照宮は家康の孫家光が造った日光東照宮と並ぶ由緒正しい神社で、有名な左甚五郎作の彫刻や狩野探幽の襖絵などがこちらにもいっぱいあります。
 また、海禅院の多宝塔の下に埋められていた石室からは、身分に隔てなく衆生の慰霊救済と天下静謐の祈りを込めた15万個以上の経石が出てきて、これはとても貴重な文化財なのですと、この道の大家菅原正明さんに現地で教えてもらいました。このように父母に対する孝もなかなかです。
 殖産興業にも熱心で、みなべ・田辺の梅生産は安藤直次が奨励したと言われていますが、私はここにも藩主頼宣の影を見ます。南紀の山中には、所々ウバメガシの純林が見られるのですが、これはエネルギーとしての炭の需要を見越して、頼宣の時代に植林がなされたことによるようです。灌漑技術の振興、駿河屋、左甚五郎、紀州漆器、保田紙などの和紙、いくつかの陶磁器などの工芸、工業の振興など多方面に亘る経済政策も見事です。吉宗がいわば米作による農本主義と緊縮財政一本槍であったのに対し、経済学が分かっている人という印象です。
 この時代熊野古道の整備もしています。紀北から出土する緑泥片岩道標が要所要所に立っているという事を、語り部のカリスマ坂本勲さんに古道を歩きながら教えてもらいました。観光客を呼ぶには、まずインフラ整備からという現代にも通じる方法論をちゃんと心得ていたのでしょう。

 また、信長、秀吉の時代に破壊された文化財の修復を積極的に行ったのも頼宣の時代です。文化芸術の守護神としての機能も十分に果たしています。

 何よりうーんと唸ったのは、頼宣が景観の重要性と都市計画の観念を持っていたという事です。上記菅原さんにお聞きしたところでは、頼宣は和歌浦雑賀崎の線の北側は、大規模な灌漑と水田整備からなる開発を大々的にやっているのに対し、この線の南側は一切の開発を許さず名勝として残したというのです。近代の和歌山市も尾花市長のもと、ついに都市計画をもう一度強化して、街を再興していくようですが、頼宣は400年も昔からこれがわかっていた稀有の人であったと思うのです。
 頼宣はまた、大変なきかん気で、勇気と胆力を兼ね備えた人であったと思います。大阪夏の陣の時、まだ幼少の頼宣は、その身の安全を慮った幕臣によって前線に出してもらえなかったようですが、それに抗議して家康の幕下に現れ、「若殿はまだお若いですから、今後まだまだ活躍される機会がおありでしょう」とたしなめた幕臣の誰かに対して「十四の春は二度とあるまじ」と一喝したそうです。見事な名文句です。
 力もあり、気力もあり、かつ頭脳も戦略もあった頼宣ですが、晩年は由比正雪の乱に関係したとの疑いで、事実上の蟄居処分を受けます。全くの私の憶測ですが、それほど能力の高い頼宣にとって、自分の身内である将軍とその当時の幕閣が余りにも頼りなく見えたのではないでしょうか。

 紀州藩は御三家、家格の高い御三家ですから、付家老として身分は大名の名士が陪臣として脇を固めています。新宮の水野氏、尾鷲の久野氏、田辺の安藤氏、そして三浦氏です。このうち田辺藩主でもあった安藤直次と頼宣の間に南蛮渡来の望遠鏡をめぐって次のような興味津々のお話があったと、前の和歌山市長の大橋建一さんが紹介しておられます。頼宣はこの望遠鏡をもって天守閣に登り、城下町を覗いては、見た事を言いふらしたので、城下の人間は、戦々恐々、町から笑い声が消えてしまったというのです。このままでは殿様の評判がガタガタになると危ぶんだ安藤直次が、望遠鏡をへし折り、「この望遠鏡で殿に見られていると思って、城下町の人間たちは今思うような暮らしもできないのです」と諫めたという事です。
 大橋さんは、安藤直次の名家老ぶりを評価しているようですが、私の感想はちょっと違います。頼宣が望遠鏡で見た事を人に言いふらしたりした事が事実なら、それは当然諫められるべき事と思いますが、殿様が民の暮らしを見る事自体を、望遠鏡をへし折る事で止めたというのはいかがなものでしょうか。民の暮らしを見る事をやめて、どうして最高責任者として民のための政治ができるのでしょうか。殿はご覧にならなくても、安藤直次たち家臣が必要な事は全部教えますからというのは、殿が馬鹿殿であることを前提とした行為です。安藤直次も中々の人物ですから、その忠勤に期待し諫言には耳を傾ける事はもちろんですが、場合によっては、自分の眼で直接民の暮らしを見つめる事も君主としては必要であったのではないかというのが私の意見です。
 さらに私の推測を付け加えるならば、頼宣は安藤直次の諫言を実は受け入れなかったのではないかと思います。望遠鏡をへし折られたぐらいで、ああそうですかと黙って家臣の言う事を聞いてしまう君主にしては、紀州藩の治政の歴史の中で頼宣の姿があまりにも大きいのです。もっと穿った見方をすれば、殿にあまりにも多くの事を知られている事に閉口していた家臣たちが、南蛮渡来の珍しい望遠鏡という道具にかこつけて、安藤直次諫言話を創造して、さらには、頼宣が見た事を言いふらして、人々がそれを恐れて町が暗くなったなどという事を捏造して、溜飲を下げたというのが真相であったのではないかとも想像できます。今和歌山城に備えられている最新の望遠鏡を以てしても、そんなに細かいことまでは見えません。まして当時の望遠鏡では誰と誰が手を取り合って料理屋に入っていったなどはとてもわからないのではないでしょうか。

 いずれにしても、政治や行政はできるだけ多くの人々の暮らしを見知って理解する事から始まります。望遠鏡による覗き趣味で終わる事なく、実態の理解から始まって、必要な対策を考え、実行して人々の暮らしをより良くしていく事が政治や行政です。取り巻きや側近の言いなりになっているのでは馬鹿殿です。
 昔習ったではありませんか、仁徳天皇の「民のかまど」の話を。