和中魂と徳川頼宜

 私の母校桐蔭高校の前身は和歌山中学ですが、和歌山中学というと忘れてはならないのが和中魂であります。私が高校時代国語を教えていただいた多紀治子先生の父上で、やはり和歌山中学の漢文の先生として尊敬されていた多紀仁之助氏がお書きになったもので、もとは漢文で書かれていて、これを和中の学生が学んで世に出て行ったものであります。漢文で書かれているために、浅学非才なる私などは中々読めず、その後忘れられかけていたものを、多紀治子先生と新家兄璽さんが復刊を企画され、和歌山大学を始めとする先生方や県教育委員会の方々が助力されて、この度書き下ろし文と現代語訳が出来ました。関係者の皆さんに心から感謝申し上げたいと思います。

 さて、書き下ろされたものを改めて読んでみますと、多紀仁之助先生の学識と心意気さらには愛郷心に心から感動を覚えるとともに、ちょっぴり嬉しくなりました。
 というのは、この和中魂の中で、私がいつも言っている和歌山の輝かしい歴史の話、徳川頼宣に対する高い評価、紀州藩の洋式軍隊と新政府への影響、陸奥宗光の偉大さなど、全く同じ論法で和歌山の素晴らしさと誇りになるような人材の輩出などが強調されているところです。
 一方、紀伊国屋文左衛門の業績はあまり評価されていません。この地の人でありながらこのような自分をひけらかすような気風があるのは、とりもなおさず、紀文の心に軽薄な気風が根を張っているのだろうかと言って、和歌山県民の調子に乗る気風を戒めています。

 さらに徳川頼宣の話も興味深いものがあります。私はかつてこの欄で、『徳川頼宣と望遠鏡』(平成27年2月23日)というタイトルで、頼宣がこの望遠鏡を使って天守閣より城下を眺めていたのを、家老安藤直次が諌めたという話を、それは諌めた方が間違っていて、城下の実態を自分で見ようとするのは名君、そういうことは部下に任せて自分は上がってきたことだけを決裁するというのはバカ殿と書いたことがありましたが、多紀仁之助先生は、まったく同じ教訓をもう一つの例を使って書いています。
 徳川頼宣はやはり天守閣から部下の出仕ぶりを見ていて、雨の日簑傘に短い袴裸足で簡素に登城した者を良しとし、傘をさして下駄を履いて濡れぬように登城した者を悪しとしたと書いた上で、このように武士の気風を重んじる君主がいたので、天下の人士が紀州に集まったとしています。傘をさしたぐらいでたるんでいると言われるのは現在から考えると中々しんどい事でありますが、質実剛健を尊んだ頼宣らしいという話であります。

 一方、頼宣が部下の忠告に耳を傾けたという話も強調されています。多紀仁之助先生はいささか粗暴なところもあった頼宣が、名刀で自ら死刑囚を試し切りしたのに対し、部下の那波道園が君主たる者、そのような振る舞いをしてはいけません。「他者を殺して喜ぶのは桀紂(けつちゅう)のごとき君主です。」と諌めたのを、よく考えて「分かった。二度とそんな真似はしない。」と告げたことを高く評価しています。
 また、先の安藤直次についてもこんな話が紹介されています。安藤直次は力も強く、頼宣に粗暴の振る舞いがあった時は主君を押さえつけたので、頼宣の股に傷跡ができたが、後年これを治そうとする医師に「それには及ばない。自分が今あるのは直次が諌めてくれたお陰だ。この傷跡はそれを思い出させてくれるものだ」と言ったというのです。直次が君主たる者そんな天守閣から覗くようなことをするなと、遠めがねをポッキリ折ってしまったというのは、私は誤った諌め方だと思いますが、この話ならすっきりと共感できます。

 英雄は初めから常に英雄ではなく、部下の諌めを聞く度量が英雄を作っていくという事なのでしょう。また、主君がそうであるからこそ、部下も憚りなく、主君を諌めることが出来るというものであります。私も部下をよく叱りますが、諌めてくれる部下もいます。よく考えて諌め通りするか否かは場合によりますが、少なくとも諌めてくれた部下を疎んじたり、遠ざけたりすることはありません。
 
 和中魂により多紀仁之助先生の御遺徳偲ぶとともにそれを教訓として県政の舵取りを誤らぬよう改めて心いたしました。