4月21日から4月27日までメキシコシティのメキシコ和歌山県人会創立30周年記念式典、シアトルのシアトル紀州クラブ110周年記念式典、そしてカナダ・バンクーバーのバンクーバー州和歌山県人会創立50周年記念式典に出席するために北中米を訪問しました。ロサンジェルスの県人会の皆様にも、メキシコシティに行く途中で 4年前の100周年記念式典以来4年ぶりでお目にかかることができました。
和歌山県は海に面している地形からか、古来海外に出かける人がいて、全国でも有数の移民県になっています。海外に移住された方は、それは大変な苦労があったと思いますが、皆さん立派にやっておられて、現地日系人社会の中でも重きを置かれた人も大勢おられるし、ロサンジェルスで戦後古橋、橋爪の「フジヤマのとびうお」を親身になって世話をされたり、前回の東京オリンピックの招致に大いに尽力のあったフレッド和田勇さんのような有名な方々もいらっしゃいます。
「バンクーバーの朝日」という小説、映画になって有名になったバンクーバーの野球チームにも和歌山県出身者がいて、映画とはちょっと時代が違いますが、1921年バンクーバーの朝日軍は日本に遠征した時、和歌山にも寄って和歌山中学と野球の試合をしています。各地の県人会からは是非今度来てくれという要請がいっぱいあるのですが、身が1つしかないものですから、また他に仕事も山のようにあって中々伺えません。
今回は、そこで各地の県人会にお願いしてシリーズで訪問できるよう日程を工夫してもらったのです。それで4市5泊7日の旅となりましたが、前回のブラジル、ペルー2泊6日の旅や前回のブラジル4泊8日の旅に比べるとホテルで5日も寝られたので楽でした。
各地の方々はとても喜んでくれました。私達も同胞が元気に活躍しておられるのを見ると嬉しい限りでした。また、各地で(これは和歌山県関係だけではありませんが)、日系会館とか日系クラブとかも訪問させていただき、日系の方々の苦難の歴史の一端にも触れる事ができました。
日系の方々は戦前から米州大陸に渡り、一生懸命働いてかなりの程度生活の基盤を築いておられました。そこまでの苦労も並大抵のものではなかったと思います。(同じような御苦労は、小野知事時代に県が進めた戦後のブラジル移民の、ドラードス植民地の開拓の苦労話からも如実に伺えます。)ところが、そうして一生懸命誠実に働き、ようやく生活の基盤が出来たと思ったら、日米が戦争を始めてしまいました。日系の方々は米国はもちろん、連合国の一員であったカナダでもメキシコでも「敵国人」と見なされて財産を没収され、ほとんどの人は収容所に強制収容されて生活を奪われました。メキシコでは収容所とまではいかなかったようですが、自身の農場を追われ、メキシコシティやグアダラハラといった都会に強制移住させられたようです。そして戦争が終わってもカナダではすぐに元の町に帰ることは許されず、日本に帰るか東部に移住するかさせられました。従って、今のバンクーバーの和歌山県出身者(久野儀兵衛さんのお陰で圧倒的に美浜町三尾の方が多いのですが)は、日本で少年少女時代を過ごし、教育を受けてまた後でカナダに戻った人が多いのです。
戦後再び皆さんは、一からやり直して、今日の生活を作り上げたのですが、そういう意味では、他の国をルーツとするファミリーの人々に比べ2回も移民と開拓の苦労をされた方々であると言っても良いと思います。そういう方々がこれまでがんばれたのは、日本人、和歌山人の中に脈々と流れる人間としての誇りのお陰であると私は思います。昔々私はドウス昌代さんという人が書いた「ブリエアの解放者たち」という本を読んで涙が止まりませんでした。日本と米国という二つの祖国の間で引き裂かれた日系の若者が、日本人の誇りにかけて、他のどの民族の米国人よりも祖国米国に忠誠を誓える事を見せてやろうとして、ヨーロッパ戦線に志願し、誰よりも勇敢に戦い、そして他のどの部隊よりもたくさんの犠牲者を出した話です。
私はシアトルのさくら祭りで講演を頼まれましたので、和歌山を紹介するとともに、日本と和歌山とシアトルにまつわる3つのストーリーとして、この話も引きながらスピーチをしてきました。英語の原稿を以下に日本語に直して掲げます。
『改めまして、皆さんこんばんは。
シアトルさくら祭り実行委員会から、大変光栄なことに、和歌山県を紹介する機会を頂きました。
この地図を見ていただければお分かりいただけますが、和歌山県は大阪府の南にあります。気候は比較的温暖で、太平洋を挟んでシアトルに面しています。緑の山々が県全体に広がり、海岸や清流沿いには数多くの温泉があります。
和歌山県の温暖な気候を活かして、様々な果実が、農地の斜面で生産されています。和歌山県は、日本でも有数の果物の産地です。ミカン、柿、梅や桃など、色とりどりの様々な果実を生産しています。豊富な海産物にも恵まれており、マグロや様々な近海魚もたくさん水揚げされています。
和歌山県は、古くから豊かな文化が栄えてきた場所のため、歴史的な名勝が数多くあります。とりわけ、聖地高野や熊野の巡礼道は、私達がとても誇りに思う世界遺産です。世界遺産として登録された道は、世界でたった2例しかありません。特に開創1200年を迎える高野山は、ナショナルジオグラフィックトラベラーにより、日本でただ1箇所、2015年に訪れるべき20地域の1つに選ばれています。
今回は、シアトルと日本、特に和歌山県の関係について、3つのお話をお伝えしたい思います。
まず第1は、日本人の誇りについてです。
皆さんは日本と米国、2つの祖国をお持ちです。この2国は、お互いに第2次世界大戦で戦いました。シアトルの日系アメリカ人は、とても辛い経験をされたと思います。その上、皆様が愛するアメリカ政府は、日本人をルーツに持つというだけで、日系アメリカ人を収容所に送りました。収容された日系アメリカ人は、誇り高い日本人でした。
日系アメリカ人が持つ米国への祖国愛は、他のアメリカ人に劣りませんでした。そのため、彼らは志願して、米国のためにヨーロッパでナチスドイツと戦いました。彼らは、主に白人のアメリカ兵で構成される第141連隊がフランスのロレーヌ地方のブリエア周辺で孤立していた時、多大な犠牲を払って彼らを救出しました。このような勇敢な行動は、日本人の子孫であるという誇りに基づいたものだと、私は考えています。
皆さんも、日本人、そして、それぞれの故郷を誇りに思い、米国やシアトルのために一生懸命尽力されておられます。
私は和歌山県知事として任命される前、ブルネイ・ダルサラーム国の日本国大使を拝命していました。ブルネイで在職している間、日本人は尊敬され、外国人から好かれていることを目の当たりにしました。戦争に負けたことを反省し、日本は70年間、首尾一貫して平和を希求し、途上国への支援を行い、先進国の経済支援にも尽力してきました。日本は武器を紛争地域に輸出してお金を稼ぐことをしなかった唯一の国です。
私達は、戦争に負けたことで、これらを黙々と取り組んできました。私達は他国を脅かすことも、武力はもちろん言論でも他国を攻撃しておりません。
私達日本人は、誠実で、嘘偽りのない、思いやりのある、誇り高い人間です。
特に和歌山県人は、千年以上にわたり、温かいおもてなしの心を持って、世界遺産である高野山や熊野を巡礼する旅人を歓迎してきました。巡礼の長い歴史は、日本人の気質を証明しています。
125年前に、和歌山県串本町の沿岸で、トルコの軍艦が暴風により難破しました。串本町の人々は、自分たちの命の危険を顧みず、船員の救出を行いました。また、彼らは貧しいにも関わらず、気前よく食料や衣服を、傷ついた船員に提供しました。
トルコの人々が、現在もこの話を覚えており、教科書に載せて子ども達に教えていることを、私は大変嬉しく思います。この年末、この物語の映画が日本とトルコの合作として世界中で上映されることも喜びです。
第2は、津波と戦う話です。
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、シアトル郊外のビーコンヒルの第13消防署には、このような話が刻まれた石碑を見ることができます。
この話のモデルとなった濱口梧陵は、日本では津波防災の先駆者としてよく知られています。1700年のカスケード地震により悲劇的な経験をしたシアトルの人々は、防災意識が高く、また、津波と戦うために様々な努力をされていると記憶しています。
日本政府は、濱口梧陵が人々を津波から守った11月5日を「津波防災の日」として定めています。この日は、全国の至る所で、津波防災の重要性を喚起するための様々な行事が行われています。今日では、この日を世界の津波防災の日として選定する動きがあります。
第3は、シアトルが誇るボーイング社についての話です。
最新の航空機B-787は、日本と米国の共同開発でできました。B-787の機体には、日本の炭素繊維が多く使用されています。機体を形づくる炭素繊維には、和歌山県のセイカ(株)が製造する炭素繊維硬化剤と、小西化学(株)のエポキシ樹脂が使われています。
シアトルが誇るボーイング社の最新の航空機を見る際には、和歌山県がほんの少し貢献していることを、どうぞ皆さん思い出してください。
ご清聴ありがとうございました。』