金の時代

 私の好きな作家に、北杜夫さんがいます。最近お亡くなりになりました。何故好きかというと、雰囲気、趣味がとても感性に合うという事もありますが、北杜夫さんも昆虫少年だからと言う事もあります。
 傑作は「白きたおやかな峰」とか「楡家の人びと」とかたくさんありますが、「どくとるマンボウ」シリーズもとても良い作品だと思います。その昆虫記か青春記か忘れましたが、「銅の時代」というタイトルの章がありました。北杜夫さんは旧制松本高校の学生で、今以上に昆虫の宝庫であった上高地の入口の島々谷や美ヶ原などがよく出てきて、昆虫少年である私が胸をときめかせたものですが、確か、旧制高校の時代を、銅の時代と称していたと記憶しています。人は赤ちゃんの時代から物心が付いた頃は、心に迷いが無く、これを幸せな金の時代というのだそうです。段々と成長するにつれて、色々な思いにとらわれてきて銀の時代、さらには人生大いに悩む銅の時代を迎えるのだそうです。この頃は、私もそうでしたが、将来自分はどうなっていくのだろう。職業は?生活は?世の中は?家庭は?と様々なことがまだ゙形を成さず無限の可能性があるようでいて、何もないような底知れぬ不安の中に色々と考える頃なのでしょう。
 だから、既に金や銀ではなく、銅の時代だというわけです。その後北杜夫さんも、私も鉄の時代をずっと生き延び、北さんは亡くなって土の時代を土に還って迎えておられると思います。私はもう少し、鉄さびを落としたり、油を差したりしつつ、和歌山のためにギシギシと働かねばなりますまい。

 その私達が最も力を入れなければならないのが子ども達を立派に育てるという事です。子ども達がその金の時代をのびのびと送り、銀の時代に大きく成長していけるように。しかし、昨今の子ども達を見ていると、語ることすら厭わしいような不幸な事件が起きて、命を落としたり、涙に暮れているような話がたくさんあります。
 子ども達がその輝かしい金の時代を謳歌できるように、私達がしなければならないことは多いと思います。