自由民主党総務会長二階俊博先生がよく言われます。
シンポジウムとか講演会とか道路の開通式とかで、スピーチを頼まれた人が非常によく言うことの一つに、我々はこんなに遅れているとか、他と比べてこんなに劣っているとか、○×はビリから数えて何番目だとかという「自分たちはだめだ」というのがあります。その内の何割かの人は、「だめだ」を過去形で言って、ここにようやく改善をみたのだという演説をして、例えば道路の開通を祝すというレトリックを使う人もいます。しかし、多くの人は、延々と「だめだ」を続けます。そうすると聞いている人がそうだなあと初めは共感を覚えていても、あんまり言うものだから聞く方がそのうち、元気がなくなってくるのです。
これは、日本人の特有の謙譲の精神から来ている所もあるのではないかと思うのですが、「だめだ、だめだ」と話す人に、何か同調してしまう精神的傾向が我々にあるのではないかという気がします。さらに、弁士の方はだめな所を自分はこれだけ分かっているのだぞという自慢をしているのではないかと思う時もあります。聞く方は同調したり、共感したりしてしまうのですから、そういう事を狙いたい人は、「だめだ」を強調する話をよくするのではないでしょうか。政治家とか地元の自治会の会長さんとかの名士、挨拶に来ている県や市町村の幹部なんかが好んでこの「だめだ」論を強調するのも少し分かるような気がします。しかし、「だめだ」と言うと、聞く人に「あの人は分かっている」と感心され、「やっぱりだめだなあ」と共感をしてもらえるかもしれませんが、そこからは何も建設的な策は出てきません。聞く人は、「やっぱりなー」と元気をなくすかもしれません。もっと悪いことは、「だめだ」と言った人が言ったことで一種のカタルシス効果があって、すっきりしてしまうのではないかという事であります。すなわち、だめな事を克服して初めて意味があるのに、だめなままで終わる方に力が働いてしまう傾向があるのではないでしょうか。
要人の話を聞いていて、だめな事を強調して嘆いてみせるが、ならばこうしようという対策を唱えない人に限って、何もしないで任期を終えてしまうような人が多いような気がします。挨拶は常に嘆き節です。したがって二階先生の「だめなところばかりあげつらうな」という言葉が生きてきます。
すべての人が嘆いていてはいかんというのは酷ですが、少なくとも人のために尽くす事を運命づけられている私のような首長や政治家、それに公務員の幹部は、嘆くからには対策を必死で考え、必死で実行して将来はもう嘆く必要がなくなるという事態を実現してみせなければなりません。少なくともそのために努力して行動を起こさなければなりません。
私は和歌山県のどこがためかという分析では、人後に落ちませんが、それを言い立てて、人の共感を得るつもりはありません。一つでも二つでもだめな所を解決して、「もうだめな所などないぞ」という社会を作っていきたいと思います。