涙静かに流れてやまず ~我が友島村不二夫君を悼む~

10月18日未明、子どもの頃からの親友にして、当後援会資金管理者にもなってもらっていた島村不二夫君が亡くなりました。
痛恨の極みです。最近私は泣いてばかり、涙流れてやまぬ事も多くありましたが、他はすべて感動の涙でした。島村君を失くした事は、悲しくて悔しい、自分の心の中の涙です。

最近体調がとても悪いと言う事を、ちょうど国体が始まる頃に聞きました。島村君は倫理的にもとても厳しい人でしたし、精神的に己を律することで人生を生きてきたような人だったのですが、ちょっとそれが嵩じて近代医学を敬遠する傾向があり、その故かとても健康面で不安だというのです。他の友から仁坂君から早く忠告してやってくれとのお願いを受けたのですが、国体その他あまりにも忙しく、かつそれに熱中していて、アドバイスが遅れました。

国体が終わって、トルコ、スペインに行くため10日間ぐらいまたブランクが生じるので、これは早く手を打たねばいかんと八方手を尽くして、お医者様にもお願いをし、本人にもこういう手を打ったからすぐ病院に行ってねとお願いをして、幸い島村君も快く応じてくれたので安心して外遊に出かけました。そして長い飛行機の旅の後、関空へようやく辿り着いたとき島村君の訃報に接したのでした。訃報を聞いた時「えっ!そんなはずはない。」というのが始めに浮かんだ言葉でしたが、段々分かってくると、もっと早く手を打てなかったのが悔やまれてなりません。忙しさにかまけて、世話になっている親友の体調を気遣うことも出来ず、大変な状況になっているという事を発見も出来ず、アドバイスも手を尽くすことも後手に回ってしまいました。島村君に申し訳ないという気持ちでいっぱいです。残された会社や島村君がリーダーとして支えてきた組織は、弟君である辰彦君を始め後継者がいるから心配はないとして、一人で残されたみどり夫人には、かける言葉も見つかりません。心からお悔やみ申し上げます。
10月20日にあった葬儀には、県の大事な会議を少々時間を変えてもらって出席し、友として弔辞を読ませてもらいました。以下に掲げます。

『本日、ここに、故 島村不二夫 君の告別式が厳かに執り行われるにあたり、謹んでご仏前に哀悼の誠をお捧げいたします。

島村不二夫君、あなたは江戸時代から続く老舗企業を率いた優秀な経営者であり、また、和歌山県の企業倫理の向上や和歌山県民の道徳心の涵養に類い希なる指導力を発揮された活動家でありました。
そして、何よりも私にとっては、小学校時代からの親友であり、家族ぐるみのつきあいをさせていただいた、とても大切な存在でありました。

そのあなたの訃報に、私は言葉を失い、運命の厳しさを嘆かずにはおられませんでした。
あなたが体調を崩されているということは、存じていましたが、よほどお悪くなる最近まで、多忙にかこつけて、あんまりかまうこともせず、お命を救えなかったことは慚愧に堪えません。
今、このように惜別の辞を申さねばならないのは、残念でなりません。

あなたは、小学生の頃からクラスのリーダーで、明るく気はやさしくて人徳があり、皆からは「シンマイ」と呼ばれる人気者でありました。そして、小学校が始まってすぐ病気で長欠児童であった仁坂少年を守ってくれるなど、昔からずっと弱きを助け、強きをくじく正義感の持ち主でありました。

あなたは、大学院修士課程を修了後もアメリカのロードアイランド州立大学薬学部大学院に留学され、医薬品になる種(シーズ)の研究などに熱心に取り組んでおられました。しかし、留学中に父上がお亡くなりになり、社長を継がれた母上を助けるために、ドクター号の取得を断念され、帰国されました。

帰国後、あなたは天保13年創業の老舗企業を母上、弟君とともに盛り立て、平成16年からは社長を引き継がれました。あなたは、持ち前の研究熱心さで、新たに水の研究にも取り組まれ、水活性器を使い自然の水を化粧品に応用されたり、オリーブ油にも活性装置を応用されるなどして、次々と新しい商品の開発を行いました。こうしたあなたの情熱により、株式会社シマムラは今日までその歴史を積み重ねておられます。和歌山県では、その業績を讃え、平成19年に百年企業表彰をお贈りいたしました。

あなたは、企業経営に携わる一方で、その人望の厚さから、和歌山県製薬協会でも重きをなされ、協会の運営、活動に献身的に参画され、協会の発展にご尽力されました。温厚で柔和そして責任感が強い人柄や優れた判断力、決断力から、会員から絶大な信頼が寄せられていました。県では、その御功績をお讃えし、平成23年に知事表彰をお贈りしたところです。

正義感に富むあなたは、御自身も非常に厳しく身を律せられ、企業活動においても、倫理を追求することを宗とする倫理法人会のリーダーとして、その活動を推進されました。また、このような活動の一環として、トルコと日本の時空と民族を超えた相互協力の精神をテーマとした映画製作に、牽引役として取り組まれ、串本とトルコでの撮影時には、御自身もエキストラとして出演されるなど、映画の完成に向け、並々ならぬ思いを込められました。
その映画「海難1890」の試写会を目前に控え、完成を誰よりも心待ちにしていたあなたが、作品を目にすることができないことは、誠に無念であろうかと思います。

個人的にも、私は島村君に本当にお世話になりました。私に知事として和歌山へ帰ってくるよう熱心に働きかけてくれ、その高潔な人格から私の後援会の会計責任者として、私を支え続けてくれました。私が大使として赴任中のブルネイに奥様と今は亡き母上様とともに激励に来てくださったのも、今となってはよい思い出であります。

あなたが和歌山県の多方面において残された御功績を思い起こしますと枚挙にいとまがありません。すべての御功労に対しまして、親友として、そして県民を代表して改めて心から感謝申し上げる次第であります。

そして、このお別れの時に際し、あなたとめぐり逢った者一人ひとりが、その出会いに感謝し、思い出を深く胸に刻んでおります。

あなたが精魂を込めて築き上げられた事業は、あなたが立派に育てられた後継者によって、今後も営々と引き継がれていくことでしょう。あなたのいないこの和歌山も、これからは、残された私たちが力を尽くして、ふるさとを盛り立てていくことをここにお誓い申し上げる次第です。

どうか、私たちが、希望を持って未来を切り拓いていけるよう、天上より見守ってください。

お名残は尽きません。
今はただ御遺徳を偲びつつ、心から御冥福をお祈り申し上げ、お別れの言葉といたします。
島村君、子どもの頃から今の今まで本当にありがとう。
どうか安らかにお眠りください。

平成27年10月20日                               和歌山県知事 仁 坂 吉 伸』

 

島村君は何よりもエルトゥールル号事件に感銘し、映画を作ることにNPOのリーダーとして心血を捧げていました。
あの映画「海難1890」が出来るのを一番喜んでいる人の一人だったはずです。しかし、まさにその最初の試写会の日が島村君の葬儀の日になるとは。彼もどれほど見たかったことでしょう。そう思ったのでしょうか、みどり夫人が彼の遺影を掲げて試写会場に見えました。彼はエキストラとして串本の場面にも、トルコの場面にも出演をしています。
私は上映式に先立って挨拶を求められたので、その中で島村君のことを紹介し、あそこに彼の遺影を持って奥様がいらっしゃると披露しました。そのせいか、マスコミ各社がこのことを取り上げてくれ、奥様に抱かれた島村君の遺影が各紙をかざり、彼の善意に満ちた人生の一端が紹介されました。島村君から受けた大恩にはとても及びもつきませんが、私も少しだけ彼に良い事をしたかなと思います。