『職業としての学問』

社会科学の巨人の一人マックス・ウェーバーの著作です。岩波文庫に昔から入っていて、私は今から45年ほど前に読みました。
この本は、マックス・ウェーバーが亡くなる一年前の1919年ミュンヘンの学生集会で行った講演を基にできています。
訳者の尾高邦雄さんの序に依れば、マックス・ウェーバーは、当時の大学を覆っていた政治的熱狂を批判し、学問と政策を区別し、とりわけ、
教師が学生の政治的指導者たるべきではない、自己の主観的な評価や個人的な世界観を学生に強いてはならないと警句を発するためにこの講演をしたと述べられています。自己の政治的立場がいかなるものであれ、それを学問の外の世界で、すなわち政治運動や、社会活動としてそれを表すのはかまわないが、それを学問の世界に持ち込んで、学問の論理性、客観性を歪めるようなことをしてはいけない。すなわち、学問は「価値から自由」でないといけないと彼は主張するわけです。さらに、彼の舌鋒が最も激しくなるのは、教壇で自己の政治的立場を学生に説くのは、正しくないし、卑怯だというくだりであります。学生は学問を教わりに大学へ来ているのだし、単位を得る等教師に従わざるを得ない立場にあるのであるから、そういう学生に対し教室で教壇から自己の政治的立場を説くのは言語道断だというのです。

私は、全く賛成です。世の中には、学問は社会改革のための実践的技術だと称えて、学問の中味の客観性などどこへやら、政治的プロパガンダを学問的なふりかけをかけて得々と披露している人がいます。昔はいっぱいいましたし、今もかなりいるのではないかと思います。また、そういう学者さんに限って、自分と政治的考えの合う「同志」を周囲に集め政治的意見に合う見解を学問の場で守り、伝えることに熱心です。大学生になったばかりの未熟な私はそういう雰囲気がいやでたまらなかったので、若気の過ちですが、大学を変わりました。そんな時にこの本に会って救われる思いでした。若気の過ちというのは、私は結局職業人としての学門の徒になることを断念してしまったからです。どうせ役人になるのだったら、少しばかり教室で不快に耐えていても良かったのではないかと思います。
また、学生に対する態度に加え、このようなマックス・ウェーバーが批判するような学者は、教室の外でも内でも「価値から自由」が効かない結果、結構いい加減な事を言う人が多いようです。例えば、政治的な対立案件になっている法案を激しく批判するにもかかわらず、明らかにその法案を読んでもいなければ、その意味をちゃんと分析してもいないなと思うようなことがいっぱいあるのです。我々は学生ではありませんから、そのような学者から単位をもらうために従属的立場に追いやられることはありません。だから、何をいい加減なこと言っておるかという事を分かる人は分かるからいいのですが、その道で多少とも知識のある人以外の人々は、その学者さんを肩書で判断し、○×大学の教授だから正しいことを言っているのではないかと信じてしまうこともあるでしょう。
したがってマックス・ウェーバーが許容している教室外の場合であっても、学者さんの言動は常に「価値から自由」を念頭に慎重であるべきだと思います。
教室で政治的立場を説くなと戒めた部分の一つを、岩波文庫版『職業としての学問』尾高邦雄訳 P.58~P.60より以下に勝手に引用します。

「満堂の学生諸君!諸君はこのように我々に指導者の性質を求めつつ我々の講義に出席される。そしてその際諸君は、百人の教師の中で99人は少なくとも人生におけるフットボールの先生ではないということ、否、そればかりではなく如何なる人生問題に関しても「指導者」たることを許されていないということ、これを忘れておられる。然し考えてもみられよ、人間の価値は何も指導者としての性質を持つかどうかできまる訳ではない。また、それは兎も角としても、或る人を偉い学者やまた大学教授たらしめる性質は、彼を実際生活上の、就中政治上の指導者たらしめる性質とは違うのである。それに、この指導者としての性質をもつかもたないかは全く偶然によることなのであって、若し誰か教壇に立つべき人が強いてこの性質をはたらかそうなどという不心得を起こすならば、それは極めて憂慮すべき事柄である。が、更に憂慮すべきは、教室で指導者振ることが一般に大学教授に放任されている場合である。蓋し自分で自分を指導者だと思っている人ほど実際にはそうではないのが普通であり、また特に教壇に立つ身としては、自分が実際指導者であるかどうかを証明すべき如何なる可能性も与えられておらないからである。或る大学教授が、自分の天職を学生らの助言者たることであると考えており、然も彼らの信頼を受けているような場合、勿論彼は彼らとの個人的な附合において力の限り彼らのために尽くしてやるがいい。他方また彼が世界観や党派的意見の争いに関係することを以て自分の天職と考えるならば、彼は教室の外へ出て人生の市場においてそうするがいい。つまり新聞紙の上でとか、集会の席でとか、または自分の属する団体の内でとか、どこででも自分の好きなところでそうするがいい。だが、聴手が、然も恐らくは自分と意見を異にするであろう聴手が、沈黙を余儀なくされているような席で、得意になって自分の意見を発表するのは、あまりに勝手すぎるというものである。」