「教条主義」という言葉は今やあまり使われなくなったように思います。昔私が学生の頃、学生運動や左翼系の政治社会運動の中でよく使われた言葉だと思います。
例えば、社会主義革命をやろうとする時、偉い人の著作や何やら教科書のような読本で得た知識だけで、社会に接しようとして誤った考えに達する事を言うのですが、あるグループの人々の考えを異なるグループの人々が批判して言う時によく使われたように思います。曰く、現実を知らない人が振りかざしている、現実と背馳した間違った考えだというわけです。
今はもうこの教条主義という言葉は流行りませんが、昔と同じく教条主義的現象はこの世を覆っていると思います。すなわち、現実を見つめ、そこから付き動かされるものを形にしていくのではなく、こういう世界ではこういう考えが相場だ、だから、それに従っていれば、間違いはないのだというわけです。
最近の例で言うと、米軍のオスプレイはすぐ落ちる危ないものだ、という話です。皆そうだと思い込んでしまったため、オスプレイ反対と言っとくと大体無難だなということになってマスコミもそれを問題視するし、特に人気や選挙が気になる政治家は、ことさらオスプレイだけに拒否反応を示します。しかし、本当にそんなに危ないものか、それを知って反対している人はたぶん皆無でしょう。いろいろなデータはヘリコプターの重大事故発生率はオスプレイのそれをはるかに上回っているという事実を示しています。しかし、現実よりも「教条」の方が、優先されています。少しは皆目が覚めてきたとは言えまだまだのようです。
私はこの教条主義は、自然とか環境とかいった分野で特に多いと思います。現代の人々は、昔よりもはるかに、本物の自然に接する事が少なくなり、テレビやネット情報や識者と言われる人々の賢そうな物言いにより、自然や環境を理解しています。
人間生活で、このように現実と接する機会が少ない分野こそ、教条主義がまかり通るのです。先の例でも軍事技術に日頃触れている人があまりにも少ないが故に、体で感じる健全な常識がない分だけ、教条主義に取り込まれるのです。昔の人々は自然の中に住んでいたので、○×の動物が極端に少なくなったとか、△△が異様に減ったのはおかしいとか、体で自然や環境を理解していたと思います。だから現実は知らないが、何かの教条主義にとりつかれた人が、□□は大事だから天然記念物にして採ったり、殺したり、譲ったりしてはいけないと決めようと言っても、「何を言っとるか。頭でっかちの馬鹿。そんな□□なんか裏山のどこそこの谷にいっぱい居るわい。」と言ったチェックがかけられたと思います。
しかし、本物の自然に接する事がなくなった人々はそれができません。当局がそうですからと言うと体の奥から批判ができないのです。かくて、この自然や環境といった分野ではとりわけ教条主義がはびこっています。そして、この教条主義は、生物や生態についての十分な知識によるチェックもないまま、自然保護や種の保全なら採集禁止にすればよいという方に短絡してしまうのです。
その最も典型的な例は、環境省が最近行った「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律(種の保存法)」における「国内希少野生動植物種の指定」です。これによりゴマシジミ本州中部亜種とアサマシジミ北海道亜種が指定され、捕獲はおろか、標本の譲渡譲受も学術目的の博物館以外すべてできなくなりました。
例えばゴマシジミは比較的大きな青かったり黒かったり色々変異のある魅力的なシジミチョウで、北海道、東北から中部、中国地方、そして九州の一部に棲んでいます。
主たる生息環境は食草であるワレモコウの生えているような明るい草原で、主として8月に成虫が発生し、また、幼虫はアリの巣に引っ張り込まれて、アリの幼虫を食べて成長するという特異な習性を持っています。
日本では近年上記草原環境が大いに失われました。ゴルフ場や農地、空地もそうですが、焚付用の柴目的の草刈りやのどかな自然牧畜などが廃れたため木々が成長したのが一番大きいと思います。
当然のことながら昔は各地にいっぱいいたゴマシジミも随分減りました。しかし、今でも自衛隊演習地とかスキー場とか高原の湿原のような所ではいっぱいいます。何らかの保護は必要であると私も思いますが、広い地域全体で「国内希少野生動植物種の指定」の希少動植物にしてしまうのは、どうでしょうか。まず減少した主因な何でしょう。採集圧もすべての地でまったくないかというと、そうでもないでしょうが、主因は生息環境の減少です。現実がそうであるならば、各地で、草原を残す活動からまず始め、そこでのみ当分の間採集を規制すればよいのです。ところが環境省は、採集と譲渡譲受全部ダメ、それでおしまい、です。生息地の保全と一体となった保護ならば他にやりようがあるはずです。他の法手段を使うなりすれば、法律的にもそれは可能です。
次にこの指定によって、今までに採集されたそれなりに貴重な標本が宙に浮きます。譲渡譲受が禁止ですから。博物館だってそんなに引き取ってくれません。愛好家が昔採った標本の中には今は絶滅した産地のものもたくさんあるでしょう。また、今は随分個体数が少なくなっているので、採集は止めてもらって、どうしても自分が欲しい人は過去の採集品を手に入れて下さいという道が封じられます。経済学のイロハによれば、こうして供給が制限されると、価格が上がって、不健全な密猟インセンティブが高まることになります。実は私が昔手がけていた、象牙などワシントン条約の御禁制品の取締については、新たな輸出入は一切禁止だが、この条約のできるずっと前から既に入手され、工芸品などになっているものについては、それを証明して、取締の対象外とするという健全な工夫がされていましたが、今の環境省にはそのセンスもありません。
為政者たるもの、本当に現実を知っているのか、教条主義に陥っていないか、もう一度柔軟な頭に戻って考えて見るべきでしょう。
現実といえば、このゴマシジミ、本州中部亜種といいまして、亜種名kazamotoが記されていますが、私のような少しは蝶を知っている者にとっては、一体それは何を指しているのですかという感があります。本州中部においても、ゴマシジミは産地によって大きいのから小さいの、青が広がるもの、黒となるもの、ゴマ粒状紋様の分布など千差万別。亜種命名が流行った頃には軽く二桁を超えるような亜種名が付けられているのです。環境省の人は規制対象は中部地方に産するゴマシジミ全部と言いたいのだろうと思いますが、本部中部の亜種と言って惑わない人はいません。
本当にこのような教条主義的行政には困ったものです。これを防ぐには、私たちは国民一人一人が本当に真実を見極める目を持たないといけません。自然で言えば、昆虫や鳥や植物をもっと愛でてその違いを感じとるだけの知識を持たねばなりません。
と言いつつ、実は和歌山県も県の文化財保護条例で、この度2種の昆虫を県の天然記念物にして採集を禁止しました。あれ、言ってることとやってることが矛盾しているではないかと言われそうですが、違います。
禁止いたしましたのは、日置川の河口部の中州に住むヨドシロヘリハンミョウと大塔山の山頂部のブナ林に棲むナンキセダカコブヤハズカミキリ(セダカコブヤハズカミキリの紀南亜種)です。採集制限については場所限定をしているのです。そして生息地は他の手法も動員して断固守ろうとしているのです。特に後者は南紀一体に広く分布します。他の所では探して採ってもよろしいが、一番集中して棲んでいて、かつ場所が狭いのでたくさん採ったら絶滅してしまうおそれがある大塔山山頂部ブナ林にだけ採集を禁止したのです。
環境省にもこのくらいの知恵を出してもらいたいと思います。そのためには愛好家たちの言うことも「ただの民間人、金儲けとか採集欲しか考えない変人達」などと考えないで、よく聞いてあげることが大事です。(この法規制のパブリックコメントについては、そういうオープンな姿勢があったとは思えません。)そして一緒にフィールドに出て現実を見る。そうすれば、教条主義に陥らないはずなのですが。