岡崎邦輔さんのお墓

 最近ようやっと和歌山で陸奥宗光ブームが起きて、県庁以外にも、もっと端的に言うと、私以外にも陸奥宗光はえらいといってくれる人があちこちに出てきて、まことに喜ばしい限りだと思っています。

 何度かこの場でも他の機会でも語っていますが、私が陸奥宗光に傾倒するようになったきっかけは、知事就任後しばらくしてから訪問した和歌山県立博物館にある明治初年の紀州藩の洋式軍隊の絵であります。映画のラストサムライに出てくる官軍のような近代軍隊が紀州藩にあったのだなあとの思いから、それが忽然と現れたのは何故かという事を調べていくにつれ、出るわ出るわ、明治維新における和歌山県の占めた重要な役割が次々と出て参りました。版籍奉還、俸禄返還、地租改正、四民平等、洋式軍隊、坂本龍馬、近代的兵器購入、ケッペン、津田出、北畠道龍、濱口梧陵、自由民権運動、星亨、原敬、自由党、政友会等々、明治近代化のプロセスに和歌山がどう関わったかがどんどん明らかになって参りました。そしてそのすべての中心に陸奥宗光がいるのであります。

 陸奥の活躍は、明治初期にとどまりません。我が国がもう少しで西洋列強の植民地にされかけた名残として明治期の日本の対外関係で唯一残った桎梏であった治外法権と関税自主権の2つの問題を解決し、対清政略を指導して日清戦争を勝利に導かせたのは、陸奥宗光の大変な功績であります。近代外交ここに始まるといった感があります。それかあらぬか、霞が関の外務省構内に唯一建っている銅像は陸奥宗光のそれであります。

 実は以上の見解に達したのは、件の絵を見てショックを受けた私が岡崎久彦さんの「陸奥宗光」、「陸奥宗光とその時代」を読んで勉強したからです。そういう意味で、私の見解はほとんど岡崎さんの受け売りであると言っても差し支えがありません。惜しくも平成26年にお亡くなりになった岡崎久彦さんは、その見識の深さと世界情勢に関する怜悧な洞察力において戦後我が国外務省が産んだ最高の外交家の一人であると私は思っていますし、ブルネイに赴任する前ごろから、私は何かと御指導を受けていました。さらに遡ると、岡崎さんの「戦略的思考とは何か」(昭和58年 中公新書)は、私が最も感銘を受けた本の1つです。

 平成24年に東京の明治大学で行われた陸奥宗光シンポジウムは、その岡崎さんと私とがすっかり意気投合して、岡崎さんの人脈で最高の論者を集めて行われたものと今だに自負しています。(ご興味のある方はその記録集「陸奥宗光シンポジウム」がありますので県文化学術課にお問い合わせ下さい。)

 実はその岡崎久彦さんは、陸奥宗光の親戚でもあるのです。岡崎さんのおじい様の岡崎邦輔さんは、陸奥宗光のいとこであり、常に陸奥と行動を共にし、特に自由民権運動から自由党や政友会の守護者としての陸奥をずっと補佐し続けてきた人であります。同じ政党領袖として高名な大隈重信のように、「我が輩でなければ」と常に出てくる「乃公(だいこう)」(※「乃公(だいこう)出(い)でずんば蒼生(そうせい)を如何(いかん)せん」という故事)とは全く趣の違う謙虚にして控え目な人であったようですが、それでも農林大臣を引き受けさせられ、苦境期の政友会党首も勤めた人であります。その性格の立派さ故か、現在では政治史上それほど人口に膾炙してはいないけれど、実に重要な位置にあった立派な人であります。

 その岡崎邦輔さんのお墓が和歌山市寺町の護念寺にあります。そのお墓を、この間県議を辞された門三佐博さんをはじめとする立派な和歌山の人達が守って来てくれました。それもこういう事に大変な造詣があり、人情に厚い二階俊博自由民主党幹事長が、はるか昔、和歌山の同志、門さんたちに頼んでくれたのだそうです。岡崎久彦さんは、生前、「この事があるので私は二階さんには一生頭が上がらないのですよ。」とよく言っておられました。ものすごく久し振りですが、私も岡崎邦輔さんのお墓にお参りし、最近の和歌山における陸奥宗光に対する関心の高まりをご報告しておきました。