村上世彰さんとの思い出

 村上ファンドの創始者で一世を風靡し、そしてインサイダー取引の罪に問われて、当時天下の大悪人のように思われ、ひょっとすると今でも思われている村上世彰さんが本を書きました。「生涯投資家」といって文藝春秋から出版されました。
 村上さんとは通産省時代から親交のある私としては、早速買って読んでみました。村上さんのものの考え方がよく分かり、件のインサイダー取引の罪に関する無念の思いが伝わってきて、とても良い本だと思いました。 
 私は法律家ではありませんし、実際の事実をどれほども知っていないのですから、村上さんの行為が罪に問われるべきものか否か、全く定見はありません。しかし、ずっと私は村上さんが極悪非道の大悪人であるとは思えないし、嫌いになったかと言われるとそんなことはないと答えてきました。
 自分で知っている限りで、その理由や、あるいは私が経験した村上さんとの出来事を述べます。

 村上さんは通産省の昭和58年の入省組、ちょうどその時入省10年目の私は経産省秘書課の研修班長に任ぜられ、その夏から始まる学生の採用に備えて勉強をしていました。当時大学の4年生の夏は卒業後の進路を決める大事な時期で、採用する方の各省庁も、自らの将来を託せる優秀な学生をできるだけどっさり採用しようと構えて、採用担当者の私としては、いくら人気NO1の通産省と言っても、よりどりみどりに学生を選べるわけではなく、いい学生の心をつかむにはどうしたらよいのかと腐心するわけです。そこで入省したての昭和58年組に何人か集まってもらって、学生さんの揺れ動く心理などを色々教えてもらいました。そのうちの一人が村上世彰さんで、くりくりと輝く目を持った元気いっぱいの若者という印象でした。とりわけ話をしていて分かったことは、村上さんは、既成の考えに流されることなく、すべて自分の頭で考えて、評価をして、発言し、行動しているということでした。なかなかの奴だわいというのが第一印象です。

 そして時はずいぶん過ぎ、平成10(1998)年、私は今はもうない生活産業局の総務課長になり、生活用品産業や関連サービス産業の所管局の何でも総括責任者になったわけです。何しろ多種多様の業種を所管しているわけですから、昔からの政策が今や時代遅れになったり、問題を起こしたりしているものもたくさんあります。その中の一つが、生活用品課の所管している雑貨産業の振興機関であった財団法人雑貨センターの財務問題でありました。このセンターは、ずっと昔から何かしかの基金を持っていて、その運用益で、雑貨産業にかかる産業調査や、ちょっとした助成政策を行っていたわけです。お役所の外郭団体が運用している基金ですから、従来は堅く安全な運用を行っていて、その代わり、ごくローリターンであったのですが、少し前の責任者がハイリターンを夢見て、リスクマネーの運用を始めてしまったのです。まさに世は大不況に突入する直前、これが発覚して担当課長から泣きを入れられた、何でも総括責任者の私は大いに頭を抱えていたのです。その時私が問題解決のため白羽の矢を立てたのが、課長になる一歩前の企画官という若い管理職として生活用品課と文化関連産業課に配属されていた村上さんでした。もとより資産運用とか投資とか金融に明るいということは知っていたので、特命事項としてこの団体の再建を命じようとしました。
 しかしながら、時あたかも、彼は経産省を辞めて投資家としての第二の人生に乗り出そうとしていたところだったのです。村上さんは、滔々と今回の「生涯投資家」に述べられているような事業についての抱負を語り、近く、通産省を辞めて、投資ビジネスを始めたい。ついては、家族にはこれまで通産省の激職の中で満足に家族サービスも出来なかったので、早く退職して、ビジネスを始める9月までは、皆でハワイに行って英気を養いたいと語るのです。私は、退職理由が実に周到に考え抜かれたものであったので、慰留は無理と判断し、快く前途を祝福してあげようと思ったのですが、そうすると、団体の再建はまったく目途が立たなくなってしまいます。
 そこで、私は「考えはよく分かったが、雑貨センターの再建という仕事が終わるまでは退職することを許さん」と言ったわけです。もちろん村上さんは、「それはひどい。そんなことを命ずる権利は誰にもない。やめるのは自由のはずだ。」と抗弁するのですが、「まことに理屈はそのとおりだが、君もこれまで通産省で働いてきて、色々学んだこともあるだろう。その恩義を忘れて、今ここで仕事を放って辞めては男が廃るのではないか。頼む。」と、考えてみると極めて理不尽なことを私は頼んだのです。
 結果は、彼は、私の願いを聞き入れてくれ、ぐちゃぐちゃになった団体の再建を夏の間全力を挙げて達成し、夏のハワイでの家族サービスのないまま転職したのです。
 私はこのような村上さんの男気を世間はもっと評価してあげてほしいと思いました。

 彼は、何度も私に、村上ファンドの方法論をとうとうと語りました。理想とか正義とかに一脈通ずる彼の方法論を一言で紹介するのは気が引けますが、私なりの理解で言えば、「世の中には、まっとうに利用していない資産をいっぱい眠らせている上場企業がたくさんある。そこでは経営者は会社の所有者である株主に対する利益還元を行わず、株主は得べかりし利益を不当に奪われている。したがって、そのような会社の株を買って経営支配権を手に入れ、資産の最適利用を図り、株主に利益を還元する。仮に、経営支配権が手に入らず、経営者がどうしても経営改革が嫌だと言うのなら、経営者に自分たちの株を買ってもらって撤退する。」というようなものだと思います。
 私は、「それは賢い。多くの場合、社会正義にも経済の活性化にも繋がるだろうし、仮にうまくいかない時は、値上がりしているはずの株を買い戻してもらうのだから、君が損することはないし、絶対に成功するビジネスのような気がする。」と言いつつ、「しかし、私は、その方法論は個人的には好きではない。なぜなら、会社の中に蓄えられた資産は、会社の次の展開のための原資になると思うからだ。君のやり方で、スリムになってしまった会社は、自社の中から成長のためのリスクマネーを出しにくい。だから日本全体がスリムになった会社ばかりになるのは、日本経済のポテンシャリティを考えたら、少し危ない気がする。だから好きではない。しかしビジネスとしての戦略は賢いので、多分君は成功すると思う。まあがんばれ。」とか何とか言って送り出したのです。
 私は、雑貨センター再建に見せた村上さんの男気に深く感謝しています。

 私は、そういう思いを彼に対して持っていたので、その後も親しくしてもらい、時々彼からビジネスの様子を聞いていたのですが、彼が繰り返し言っていたのは、「こういうビジネスは司法などは大嫌いですから、違法として捕まらないように最大限気を使っているのです。少しでも疑念があれば、実際に行動に移す前に規制当局に伺いを立てているのです。」とのことでありました。それほどまでに気を使っていたのに、彼が罪に問われるとは、いうのがあの事件の当時の私の驚きでした。
 先にも述べたように、私は村上さんが罪を犯したかどうか法律的に評価する能力はありません。しかし、ひとたび罪に問われそうになったときの彼の出処進退は、中々のものだと思います。特に同時に司直のお世話になったライブドアの堀江貴文さんとの対比でそう思います。ライブドアでは、堀江さんなど幹部の間で、誰に責任があるのか、押し付け合いが報じられました。更には、役員のひとりに自殺者まで出しました。一方村上ファンドは、村上世彰さん1人が罪に向き合って、司直と戦い、責任は一人で被って、社員が誰一人罪に問われることはありませんでした。その点やはり男気のある出処進退であったと思います。村上さんが退職に際して、私の無体な願いを聞き届け、退職時期を遅らせて一文の得にもならぬ、嫌な仕事を見事にやりきってくれたあの勇気と通ずるものがあると私はその時思いました。
まだインサイダー疑惑に捕えられていない2004年の4月、村上さんは奥様とお子さん達を連れて、私の赴任先ブルネイに訪ねてきてくれました。大学の頃からの盟友であり、村上さんが村上ファンドに引っ張り込んだT氏御一家も一緒であります。皆でブルネイの奥地に探検ツアーに行ったことが良い思い出であります。あの事件の頃、罪に問われ、マスコミなどの指弾を一身に浴びたのは村上さん一人で、このT氏など社員一同の名誉は完全に守られたと思います。
 
 現職のような生活をしている私は、最近は村上さんとお会いできていません。もらっていた日本の連絡場所もいつか繋がらなくなりました。しかし、私は、村上さんに対しては、いつも同じ気持ちでおります。それに、その後の日本経済の動きを見て、時々起こる立派なはずの大企業の転落ぶりを見るにつけ、かつて私が村上さんの方法論は好きではないと言ったあの考えは、果たして正しかったのかよく分からなくなります。著作の中で彼の無念の声も感じることができました。金儲け自体に一生懸命努力する姿を許しがたい不道徳と断じた裁判官の言葉は、日本の世の中ではさもありなんと思うものの、村上さんの方に同情と理を私は感じます。再度マスコミの攻撃でお嬢さんが流産をしてしまったことなど、深い悲しみと同情と世間に対する怒りを感じます。

 村上さんの「生涯投資家」を読んで私の思い出を書きました。