10月26日、岡崎久彦さんの命日に岡崎久彦さんのお墓である和歌山市寺町の護念寺を訪ね、墓前で手を合わせてきました。
このお墓には、岡崎久彦さんの祖父にあたる岡崎邦輔さんも祀られています。岡崎邦輔さんは、和歌山が生んだ大政治家の一人で、政友会総裁として、戦前の政党政治のリーダーとして活躍された人ですが、大変な学識と立派な人柄で知られた人であるにもかかわらず、誇るところ無く、政友会総裁も苦衷にあった政友会の立て直しのため火中の栗を拾ったという人でありました。その岡崎邦輔さんは、これまた和歌山の生んだ大政治家陸奥宗光のいとこにあたる人で、若い頃は陸奥の秘書的な存在として、陸奥から多くのことを学んだ人であります。
岡崎久彦さんは、あのカミソリ陸奥の血を受け継ぐ人であるだけに、ものすごく頭が良く、教養も有り、かつ憂国の士で、絶えず日本の置かれた国際環境を透視し、日本の行く末を憂慮して、優れたリアリズムに立った外交政策を立案し、自らの外交活動に生かすとともにまた多くの方々に提言をしてきました。
また大変な文筆家で、外交政策を数々のメディアで発表するとともに、我が国の外交史に関する分析を「幣原喜重郎とその時代」といった形で次々と発表してきました。しかし何と言ってもその秀眉は「陸奥宗光とその時代」「陸奥宗光」という著作を通じて発表した、陸奥宗光の事跡であります。
私にとっては、四重の意味で岡崎さんは恩人であります。
第一は岡崎さんがまだ若い頃お書きになった「戦略的思考とは何か」で、世界を見る眼、日本の国益の守り方、特に東西対立を踏まえたリアリストとしてのそれらのあり方を学びました。
第二は、私がブルネイに大使として赴任することになったとき、たまたま岡崎さんに懇意にしていただいていた友人から紹介してもらって、外交官のあり方、大使としての行動を懇切に教えていただきました。
第三は、帰国してすぐ和歌山県知事になってから、これまでのお礼とご挨拶に伺って、あらためて岡崎さんのふるさとも和歌山ということを教えていただき、そこから岡崎さんの陸奥宗光研究を通じて、私が郷土の偉人陸奥宗光に心酔し、語れるようになる道を開いてくれたのでした。
そして第四は、陸奥宗光を通じて、和歌山県が近代日本にどのような主導的役割を果たしてきたかという和歌山発信をリードして下さった事であります。中でも平成24年12月1日に東京の明治大学で行った「陸奥宗光シンポジウム~和歌山県が生んだカミソリ大臣、陸奥宗光と日本外交~」は、岡崎さんの知識とアイデアと人脈でできたようなもので、岡崎さんこそ、あのシンポジウムのプロデューサー兼主役だったのです。
その岡崎久彦さんが亡くなってからはや4年。我々日本人は、岡崎さんがいつも考えていた日本のあるべき道を、岡崎さんなしに考えなければいけない岐路に立っています。岡崎さんのあの類まれなくシャープな、そして類まれなく慈味にあふれたお姿を脳裏によぎらせながら、私もまた、和歌山の舵取りを必死でせねばならぬと思っています。そう墓前に申し上げて参りました。
なお、このお墓についてのもう一つの立派なお話があります。二階俊博自民党幹事長、門三佐博元県議などが登場する心温まるお話ですが、前に一度書きましたので、省略します。(後援会HP平成29年8月21日、県庁HP平成29年8月掲載)