災害を語り継ぐ

 最近は大災害が頻発して、各地に甚大な被害が出ています。不幸にも犠牲者が出たり、そうでなくても大変な物的損害を被り、被災地では悲しみの中、人命救助、不明者の捜索、インフラ等復旧、瓦礫の処理、被災家屋の後片付け、復興など大変な苦労が待っています。しかし、いつしか、このような努力も実を結び、早く、遅くの差はあっても、被災地に再び生活の息吹が感じられるようになるというのが通例です。

 しかし、人々の悲しみは消えることはありません。お亡くなりになった方は二度と帰ってこないし、家族や友人を失われた方々の喪失感は一生消えることは無いと思います。マスコミも被災の同日には、人々の悲しみを報じ災害の記憶を呼び覚ますような悲惨な状況を再現して見せます。そして、ちょっとステレオタイプですが、いつしかこの悲惨な災害の記憶も失せてしまう。災害を語り継ぐ事が大事だという現地の方々の意見を紹介して記事を終わるのであります。
 私も災害の記憶の風化はいけないと思いますし、その記憶を失わぬようにしないといけないし、そのためには後世の人々にこの災害のことを語り継がなければならないと思います。そのために、マスコミの特集も有意義だし、各地で行われる慰霊の行事も亡くなった方を悼むだけでなく、後世の人々への戒めとしても価値があることだと思います。最近はなかなか実際には参加できなくて心苦しいのですが、いつも心の中で手を合わせています。

 しかし、我々行政に携わる人間にとっては、犠牲者を悼み災害を語り継ぐだけでは不十分と言わざるを得ません。我々行政は人々の命を守り、財産を守ることが務めですから、それが叶わず、犠牲や損害を生じてしまったことは、「失敗」の歴史と言わざるを得ません。従って、せめてこの「失敗」から何を学び、出来ることなら、もう二度と「失敗」をしないように備えをしておくことが我々の責務だと思うわけです。

 和歌山県では災害の救急対応が終わったら、すぐ反省会をします。どこが不備で、どこが間違っていたかを徹底的に検証して、次には同じような状況で同じことを繰り返さないように、対応策を改め、新しい装備を蓄え、制度の改変を行います。私はそれが行政が行うべき本当の仕事だと思っています。災害を語り継ぐのも大事だけれど、行政が行うべき事は、その災害がまた来そうな時に同じ被害を出さず、犠牲を出さずに済ます方法を確立することであります。

 和歌山県の防災対策のツール(道具)は、こうやって積み重ねてきた結果、今や、自分で言うとちょっと偉そうですが、日本一のレベルに達していると思います。(もう一つの要因はIT技術を中心とするハイテク装備を積極的に取り入れたからです。)しかし、何故それが出来たかは、紀伊半島大水害を頂点とする大災害の犠牲と大損害の結果であります。もちろん他地域の災害とその対応を助勢に行ったり、観測、分析したりして改善した対応もありますが、全ては、災害の犠牲者の涙の結晶であります。(次に示すのは、最近における災害対策の改善、充実の結果です。)ところが、昨年の台風21号の際は停電の復旧がはかばかしくなかったということが起こりました。そうなるとこれが二度と起きないように、また、直さなければならないことを見つけ、対策を追加したり、改めたりする必要もできてきます。実際にこのため、電力、通信業者と協力協定を結ぶという対策を積み重ねました。更に言えば、人間は想像力があるのだから、「失敗」をして初めて気付くというのも誉められたことではありません。どこが弱点か想像をして、予め改善をしておくというのが一番良いでしょう。心しなければなりません。

 しかしながら、もう一つ心しなければならないことがあります。それは、せっかく出来上がった制度、対策もその意義をしっかりと認識している人々によって運用されなければならないということです。特に被害に遭って苦しんで、必死で対応をしてきた歴戦の勇者がその場を去った時が危険です。このために訓練や、不断の勉強が必要となってくるでしょう。もう一つは、いつしか以上に述べたように行政として災害から学び、行動しなければならないのだ、それが我々の使命だという考え方を頭の中から失ってしまってはいけないということです。もしそうなれば、いつしか和歌山県が災害から学ぶことのない地域となり、犠牲や損害が何度も何度も起こるという原因になるでしょう。ここに再び、我々行政の中でも災害を語り継ぐという意義があるのだと思います。