絶対か確率か -ワクチンをうちましょう-

 コロナとの闘いの天王山と目されるのがワクチンであります。諸外国では接種が既に始まっていますが、日本ではこれからまずファイザー社のワクチンの日本における承認があって、すぐ政府が決めた特定医療従事者を対象にして先行接種が始まりますが、これはいわばテスト試行で、対象者は全国で一万人くらいを相手にしますが、和歌山県で選ばれた対象者はありません。次が医療従事者約300万人を対象とする優先接種で、3月中旬から4月中旬にかけて、和歌山県では約3万人が対象です。その次が65歳以上の人を対象とする優先接種で全国で3600万人、和歌山県では約30万人います。時期は4月から5月、その次が基礎疾患のある人と高齢者施設の従業者、更に60歳から64歳までの人という風に続きますが、時期は5月からということになっています。

 諸外国では、どんどん接種が進んでいますが、イスラエルからデータがどんどん公表されているほかは、報道を見ている限り、効くか、どんな点で効くか、副反応は現実にどうだったかというデータは余り見てはいません。一方、個々の不都合な事実はメディアを飾っていて、こんな副反応があったとか、変異株には効かないのではないかとか、接種の準備のための行政がもたもたしていて心配事がこんなにあるとか、そんな記事ばかりが世に溢れています。
 それでかどうか分かりませんが、これまた報道に拠ればワクチンは打ちたくないという人が、何十パーセントもいるということも言われています。

 私は、これはおかしいと思います。ワクチンはまったくかほとんど効かないということがわかったときや、深刻な副反応が出る人がものすごくたくさんいてコロナにかかって死ぬ人よりずっと上だというときや、もうコロナなんかかかってもいいや、かかって死ぬ人が出てもいいことにしようとほとんどの人が思うようになったときは、ワクチンは打たないというのが正しいと思いますが、現状はこのいずれでもありません。
 コロナを早く鎮めろという世論は大変強く、中々手を打たなかったと言って菅内閣の支持率が下がってしまうほどであります。データの出てくるイスラエルの例で見る限り、十分効果があるようだし、強い副反応を起こした人も少ないようです。だから、なにがしかは効くと分かっているワクチンは、多くの人が副反応で苦しむという事でなければ打つべきです。打たなかったらどうなるかも考えるべきです。保健医療行政が鉄壁の守りをしている(今のところですが)和歌山県でも、感染者累計は1100人を超えていますし、残念ながら16人の方が命を亡くされています。(2月10日時点)治られた人も、程度の差はあれ後遺症で苦しまれている人も何割かはおられるでしょう。

 では何故、コロナの脅威には敏感でいる日本人が、少なくともなにがしかは効果があると分かっていて、副反応はものすごいものがあると必ずしも分かっていないのに、ワクチンは打ちたくないなどという気持ちを持つのでしょうか。私はここに日本人の持つ「絶対」というものへのこだわりがあるように思います。絶対に副反応などないのだとちゃんと証明しろ、説明しろ、そうでないと不安で動けないという気持ちです。言い換えると、日本人は完全性とか絶対性とかにこだわる気持ちが強いということです。それが世に類い稀なメイドインジャパン製品の品質に繋がるといったいい面もありますが、色々あるけどどちらかというと、こっちへ行った方が得だろうといって素早く行動できる諸外国に比べ、後れをとることもあるような気がします。日本人のこのような白か黒かという絶対基準に比べ、欧米、特にアングロサクソンの考えは相対主義、もっといえば確率に基づく比較考量と言えるようなものだと思います。

 日本人は、安全か否かを考える時、絶対安全かにとことんこだわります。ちょっとでも「絶対に」を説明できないようなものは許容しませんし、「絶対に」を説明しようとしない人々を激しく非難します。そのような100%安全と言えないものでも、それを許容することによって他に大きなメリットが得られるのではないかという議論は中々受け入れません。現実には、無意識にそのメリットを享受しながらも、そのメリットをもたらした100%完全とは言えないものに対しては断固許容しないのであります。
 
 私はその代表的なものが原子力だと思います。もちろん原子力の平和利用の方ですが、そんな言葉が死語になるほどアレルギーが強くなっています。原子力の安全規制が100%完全だという神話が東日本大震災でもろくも崩れ去ったとたんに、とにかくその利用は絶対反対になってしまいました。もとより、現実の世界には、絶対的に安全、即ちリスクが0という数学のような世界はあり得ず、そのリスクをどのくらい小さくするか、そしてそれが現実にどれくらいの社会的、経済的コストでなされるか、を考えた上で、現実にそれが導入されたときのメリットとどちらが大きいかを比較して是非を考えるべきものだと思いますが、こういう冷静な議論は余り好まれません。そして、仮に電力が本当に足りなくて、停電が頻発するとか、地球環境問題で国際社会から日本がサンクションを受けるようになって、生活が持たなくなって『大変』と言う時にでもならないと、中々日本人はこの絶対主義を捨てないような気がします。
 
 実は、安全規制などは、全て、リスクをどの程度まで少なくするかという確率の世界で動いています。その典型が原子力で、元々原子力の利用もそのための安全規制も、米国から最近、と言っても随分前ですが導入されたものだから、典型的リスク確率の世界になっています。私は今から40年以上前に科学技術庁の原子力安全課に居て、原子力規制のチームの一員でしたが、その時このようなリスク確率の世界に触れてびっくりしたことがあります。それは、もちろん今でもあると思いますが、原子力立地指針というものを勉強したときのことです。これに拠れば、原子力発電所のような大きな原子力施設は福島第1、第2原子力発電所のような人口の少ないところには立地しても良いが、東京湾のような人口密集地には造ってはいけないとされています。最大限安全に気をつけた設計をして、入念に建造したとしても田舎には良いが都会にはダメというのです。その理由は、原子力施設というのは××の確率でしか事故を起こさないように設計しなければならないが、その確率で万一事故が起きたとき人口密集地だと多くの犠牲者が出るので、その人口×確率で計算される損失は原子力発電によって得られる利益を超えてしまうからダメというのです。そして、人口が少ない地域では人口×事故確率の値がそう高くないので、損失は原子力発電によって得られる利益より小さいのでOKと言われています。私はこれを知ったとき、これはとんでもない世界で、倫理的に許されるべき事ではないのではないかと思いました。それまでは、様々な規制法は閾値を定めて、そこまではOK、それ以上はダメという構造になっているのですが、これにあまりにも慣れているので、これは絶対水準であるかのように信じていたからです。しかし、よくよく考えてみたら、人類は、全ての文明の利器をこの考えで利害得失を考えながら使いこなすことによって、今日の生活を得ているということに気がつきました。また、先述の規制法の閾値も、それぞれどのくらいまではリスクに耐えられるかを計算して決めている、いわば相対的なものであることにも気がつきました。そんなものか、でも、我々が生きていくことは大変だなと思ったのでした。
 もちろん原子力に限ったことではありませんが、絶対の安全というものは科学的に考えたらあり得ず、我々人間は、それをどのくらいのレベルまで安全を高めると、一応の(絶対のではなく)安心も得られ、他の便益もほどほど得られるかということを考えながら生きているのだと思います。
 考えてみたら、自動車だって便利この上ないけれど日本だけで何千人もの人が交通事故で亡くなっているが、だからといって一切使うなという議論はありません。どうやって事故を減らすか、ハードの改良をし、社会のシステムの工夫をして、利便性との比較で折り合って生きているのです。私が原子力の問題がホットだった10年近く前、『原子力だってリスクは当然あるが、自動車だってリスクはあって毎年何千人もの人が死んでいる。でも誰も自動車を止めよとは言わない。原子力もどうやってリスクを皆が納得するぐらいに下げるかと言うことが課題で、絶対に止めよというのは論理的ではない。』と記者会見で発言したら、批判がいっぱい来て筋違いのたとえ話をするなと言われましたが、昔も今も筋違いだとは思っていない理由は上記の通りです。
 しかし、原子力に関しては、私が原子力立地指針を読んでびっくりしたことを尻目に、ずっと当局が絶対安全を標榜したような気はします。あの福島の事故の前にかけて、この絶対を信じさせるような傾向は段々と強まっていたのではないでしょうか。おそらく絶対安全を求める日本人の気持ちに忖度して、『絶対安全』を訴えたのだと思います。それが今や絶対安全と聞かされていたのに違ったじゃないかという裏切られた気持ちが湧いてきて、反感が沸騰しているのではないかと思います。原子力は絶対安全ではないのです。危ないのです。だから、その危なさ=リスクをどんどん小さくする工夫をして実行して、このくらい小さいのなら、利用した時に日本が得られるメリットの方が大きいのではないでしょうかと考えることが正しいと思います。絶対安全だと主張することもおかしければ、一方、化石燃料でおこした電化製品で文明的な生活を送りながら、リスクが少しでもあるんだから絶対反対と言って心の痛痒を感じない人も少々おかしいと思います。太陽光や風力発電でいけばいいじゃないかと軽く言う人もいますが、大規模な太陽光発電や風力発電が現に環境破壊の源だと反対の大合唱であることを忘れるわけにもいきません。しかし、そうしている国もあります。デンマークは原子力を拒絶してやっています。でも訪問すると国土中、陸も海も風車だらけ、景観も何もあったものではない状態です。そして、えらく高い電気代も含めて、デンマーク国民はこのパッケージを良しとしているのだと思います。これなら論理的だし、フェアだし、何より実行可能だと私は思います。日本人の大好きな、何でも「絶対に」という考え方は、中々現実が難しいものがあります。

 コロナのワクチンでは、特に「絶対に」ということを求めるのは好ましくありません。ワクチンは、当然多くの人が居て、その人の体質も体調も違うわけですから、効果も人により違ってくるでしょう。中には副反応が出る人もいるかも知れません。でもおそらく、段々データで明らかになってくると思いますが、全く効かない確率はとても低く、重大な副反応が出る確率もとても低いと思います。(これが違えばすぐ国家ぐるみで方針転換をすれば良いのです。)
 一方、ワクチンのリスクに比べるとコロナに感染する確率はかなり高く、死んでしまったり、重症化する確率もとても低いとは言えません。また、万一かかったときに入院をしたり、仕事を休んだりしなければならず、そのロスは大きなものです。更に家族、親類、知り合いにうつしてしまうリスクも大いに考えられます。だから、副反応が絶対無いと証明されない限り打たないぞ、効き目が必ずあると証明されない限り打たないぞという考えは止めるべきであります。
 
 私も打ちます。
 みなさんもワクチンは必ず打ちましょう。
 国も県も市町村も、円滑に皆さんに打ってもらえるように全力を挙げます。