令和4年3月25日、都市計画道路西脇山口線が完成し、近々お祝い会を開こうと準備を進めているところです。
この西脇山口線は、和歌山市の紀の川北岸を東西に貫く4車線の道路で、和歌山市の磯の浦から国道24号線にタッチする和歌山市里まで全長約17kmの道路ですが、急激に人口が増加してきた紀の川北岸の一番の幹線道路として1965年に計画ができ1972年に工事が始まりました。
しかし、なかなか工事が進まず、私が知事に就任した時には工事開始から34年が経っているにもかかわらず49%しか完成していませんでした。
和歌山市は昔は、多くの人が紀の川の南の旧市街地に住んでいたのが、どんどん北岸の人口が増えたのですが、インフラはこれに追い付かず、片側一車線の県道粉河加太線が唯一の東西をつなぐ道路で、朝夕の通勤時をピークに、いつも慢性的に渋滞に悩まされていたのです。
もちろん私の就任の前も、今よりもいささか少ないとはいえ、公共事業も予算化され、西脇山口線の建設には、県当局も熱心だったのですが、なにぶん建設のための土地取得が進まず、このためなかなか進捗がはかどらないというのが私が就任後すぐに受けた説明でありました。こんな誰が見ても絶対必要な道路の建設に何で土地取得が進まないかというと、土地を売ってくれない人に対して、土地取得にあたる県の担当者がなかなか強く出られないということがあったと思います。制度的には、公共事業におけるいわゆる強制収用の制度があり、そのための収用事業の事業認定という手続きがあるのですが、土地取得担当職員からすると、そんな強引なことをして、騒ぎになり、それが知事に対して、いろいろ文句、攻撃が来て「ご迷惑になる」のではないかとの思いがあったようなのです。私からすると、事なかれ主義で今の地位が安泰、波風なしというよりも、和歌山県が血流障害で沈滞してしまうほうがずっと困りますから、そのことを担当部局に説明した上で、「そんなことは気にしないで、責任は取るからどんどん手続きを進めよ。」という指令を発しました。
それでうまくいったのは、同じく和歌山市の北島橋の耐震改修工事です。この古くからある紀の川に架かる橋には高架橋の下に昔から多くの不法占拠の方が住んでいました。そうすると、その方々に出て行ってもらわないと工事ができないのです。これも結構長く滞っていましたが、先の「責任はとるからどんどん行政代執行手続きを進める」という方針を出したところ、瞬くうちにすべての不法占拠者が出て行ってくれたのでした。
西脇山口線も、もちろん我々はこの方針で臨むことにしていたのです。しかし、こちらの場合、もう1つ別の問題があります。それは、土地の所有者にあたる時、少しこじれると県の職員はその住民から「権力の犬が来たな」と思われるということです。そうすると、いくら公益を説いても、このままいくといずれ行政代執行になって不利益を受けますよと言っても、聞く耳を持ってくれません。事業認定もかなり多くの人が反対しているときは使えません。
そういう中、紀の川北岸の連合自治会の会長さんたちがこぞって、西脇山口線の建設促進の陳情に来られました。そのリーダーが川端秀和さんでした。川端さんは県庁のOBで企画部長などの要職を務めた重鎮ですが、現役の時も大変な仕事師でいろいろな泥もかぶりながら、素晴らしい業績を上げられた人です。しかし、それゆえに県の行政に対する注文は厳しく、在野の論客として名が轟いている方でした。
川端さんたちは「西脇山口線促進期成同盟」という組織を作っていて、その会長が川端さんだったのです。陳情の場で川端さんたちは、この道路の早期完成を熱っぽく説かれました。それによって得られる経済効果や生活環境の改善を語られました。それまでは、「わかりました。努力します。」で終わっていたようですが、その時は違いました。私は「まったく同感で、この道は一刻も早く完成させないと和歌山市の発展も阻害され、ひいては和歌山県の発展もありません。だからまったく賛成ですが、そのために皆さんに私の方からお願いがあります。今の阻害要因は用地取得です。中々売ってくれない人に県がいくら働きかけても、権力の犬の話は聞かないと言われがちです。でもそういう人でも近所づきあいがあります。近所の方に、皆が完成を待ち望んでいるのに、あなたが協力しないと、皆がうまくいかない。どうぞ皆のためを思って売ってやってくれないかとその土地所有者に頼んでいただけませんでしょうか」とこちらからお願いしたのです。川端さん達は頼みに来たのに頼まれてしまったのであっけにとられていましたが、皆その道理に賛成して下さって、連合自治会長さんが号令をかけて、町ぐるみ、近所ぐるみの協力運動が始まったのです。その効果は如実に現れました。今まで絶対売らないと言っていた人達がどんどん売却に協力して下さることになったのです。
こうして、地域の皆さんと県当局の協力で、この西脇山口線の建設はどんどん進行していったのです。それでも15年間かかったのですが、それまでのスピードと比べると格段に速くこの西脇山口線は完成に至ったのです。
県は完成したものからどんどん供用していきましたので、今回の東端に近い川永工区の歩道の整備という最終工程の前から随分交通の便はよくなったと思います。川端さんをはじめ協力して下さった連合自治会の皆さんとは、まるで同志のような関係になった気がします。西脇山口線が完成に至ったのもこのような同志の方々のおかげです。その完成を見ることもなく、令和2年12月、川端さんはこの世を去られました。完成のスケジュールが報告された時、私は心の中で、川端さんにそのニュースを献じ、感謝の気持ちを捧げました。