和歌山県もようやく高速道路が次々と完成し、4車線化も進んでまいりました。地域の発展には、その条件として、その地域がどれだけ便利かが問われ、この車時代に高速道路が未完成で不便という地は、企業誘致でも投資でも観光でもどんどん不利に扱われます。それが分かっていたからこそ、あの民主党政権時代の「コンクリートから人へ」の大合唱で足を引っ張られながら、その一日も早い完成に努力し、先日最後の新宮道路の用地幅杭設置式を挙行するに至りました。その式の来賓としてご出席の二階俊博衆議院議員が、遅れた理由の一つは、用地取得に時間がかかり、それは行政が嫌われるのをいやがって法律で定められた取得手続を逡(しゅん)巡(じゅん)するからだと指摘されました。私はその通りだと思います。
公共事業の場合でも、必要な用地を地主さんから売っていただかなくてはなりません。そのために交渉するのです。昔々は高度成長の中で土地の価格もどんどん上がる時代でした。用地取得に時間がかかると、土地がその間値上がりし、結局取得費が高くつくことも考えられますし、買う方の役人が杓子定規のことを言っていたら嫌われますから、時の公示価格などよりも高い価格を提示して合意してもらうというようなことも結構あったやに聞きます。このような昔のことを覚えている人の中には、簡単に合意しないで頑張っているともっと高く買ってくれるのではないかと思う人もいたと思います。しかし、今は地価も下がり気味の時代ですし、全国的に公示価格などの標準的な価格で取得するという原則が徹底されています。したがって、この辺のところを説明して粘り強く説得するしかないのです。
公共事業の場合、それでも話し合いで用地取得が合意できないときは、一定の条件下で収用手続が執れるのですが、行政も政治もなかなかそういう手荒なことはしたがりません。嫌われるのはいやだから、行政の対応は遅れがちになるし、選挙で選ばれる首長は、特に人に嫌われることはしたくないと思われます。
しかし、それでは進みません。地域の未来の発展のためには、嫌われても我々行政は必要な手続を進めないといけません。私は知事に就任以来、責任は取るから、私の評判が落ちてもいいから話はどんどん進めよう、それが地域と大勢の人の未来に繋がるのだからと職員に言って頑張ってもらいました。トップが波風を立てて嫌われるのがいやで消極的だったら熱心な職員も立つ瀬がありません。
このような覚悟を持って、県政のかじを切ったところ、各地で住民の方々の理解も進み、公共用地の取得も進み始めました。地域の有力な住民の方々が土地売却に逡巡している方に地域のため、皆のために協力してくれないかと説得してくださった場合もありました。もちろん公共事業のためとはいえ、民主主義国家日本で、理不尽に乱暴な土地取得が許されるはずがありません。そのために法律で厳密な手続き、条件が定められていて、この「事業認定」という手続きをきちんと踏んで最後の最後に収用が可能なのです。
また、嫌われるといえば、先ほどの「コンクリートから人へ」のように、ある時代の支配的な世論(「風」)になっていることは、それに逆らうことは勇気がいります。多くの人に嫌われるからです。しかし、県の未来のためには、勇気をもって主張することも知事の務めだと思ってやってまいりました。あの時、勇気のある政治家も風に逆らってくれました。そして高速道路の建設は進みました。
今はこのように淡々と書いていますし、多くの方々は、「コンクリートから人への」大合唱のもと和歌山県の公共事業の多くが危殆(きたい)に瀕し、せっかくついた高速道路の4車線化の予算が取り上げられてしまったことがあったことなど忘れているのではないでしょうか。しかも有田-南紀田辺間の片側1車線の高速道路は、全国の中でも有田-御坊間の交通量は日本一、御坊-南紀田辺間は第3位という状態ですから、この4車線化の予算を取り上げるのは道理に反します。それを声高に主張する私に対して、世論に反して時の政権に逆らうのは「空気を読まない」愚かな知事だ、という批判も、地方のジャーナリズムなどにかなり載せられました。こういうのを「KY」というのだということを初めて知りました。空気(K)を読まない(Y)なのだそうです。日本の社会は同調圧力が強い社会だなあとつくづく思います。一度ある意見が主流になりそうになり、有力マスコミがそれをフォローすると、ほかのマスコミも容易にその論調に和するようになり、世論なるものが形成されます。そうすると、多くの人々もそれが客観的に正しいと思い込んでしまって、「空気」とか「風」とかができてしまいます。そうすると、これに逆らうと波風が立ち、時には人々に嫌われるからです。したがって人に嫌われないようにするには、このような「空気」とか「風」とかに乗っていることが安全であるのです。選挙で選ばれる知事のような職業に就いている人は特に気を遣うようになるでしょう。
しかし、風ばかり読んでいては、自分はよくても県勢が回復しません。したがって、それが必要だと思ったら、そしてそれが論理的に正しいと思ったら、嫌われても勇気をもって敢えて「KY」を演じなければならないことがあると思います。そして実際にいつもそう行動してきました。
そして「風」は、道理に合わない場合、いつかは変わります。「コンクリートから人へ」という一時日本中を覆った「風」も覚えている人もだんだんと少なくなりつつあると思います。そうなると、それまで声高にそれを唱え、「KY知事」と言って批判をしていた人々は、声を潜めます。「どうもあれは誤りだった。」と反省の弁を述べ、「あのように行動して申し訳なかった。」と謝る人はまずいません。風が過ぎ去り、空気が変わると、今までの主張と逆のことを言い出す人がいるように思います。
このように同調圧力の高い日本ですが、嫌われても正しいと思うことを主張する勇気は誰かが奮い起こさなければなりません。特に、地域の未来のために責任を持つ立場の人は。