尾身幸次大臣の思い出

 尾身幸次元財務大臣が今年4月14日逝去されました。通産省の大先輩ですが、とりわけ私にとって、というよりも、和歌山県にとって恩人のような政治家であった方ですから、感慨深いものがあります。
 去る5月20日尾身大臣の故郷の群馬県前橋市で葬儀が営まれ、葬儀委員長を務められた安倍晋三元首相が委員長あいさつで、尾身氏のライフワークであった「科学技術立国・日本」の実現について、「国の基本戦略の中心に置き、困難な壁を突破し成果を挙げた。まさに情熱の政治家だった。」と振り返ったと報じられました。(2022.5.20 THE SANKEI NEWS)私は本当にその通りだと思います。

 私が尾身大臣に親しく接しさせていただいたのは、尾身大臣が、科学技術庁の官房総務課長の時でした。私も科学技術庁に出向して原子力安全局原子力安全課の総括係長をしていましたので、しょっちゅう尾身官房総務課長のところに伺って、原子力政策についての報告をしたり、ご指示を承ったりしていました。
 尾身大臣は当時からすでに情熱の人で、私のような軽輩に対しても科学技術をもって日本が生きる道を探していかねばならぬという目標を熱く語ってくれたように思います。情熱というと、思い出すのは「僕は念力でこれを動かせる」と言われて、ひもに結び付けた5円玉を「えーい」と動かしておられたことです。
 
 その後衆議院に転じ、当選を重ねられるにつけ、一貫して科学技術の振興に情熱を傾けられました。キャリアも、1992年商工部会長、1993年科学技術部会長、1997年経済企画庁長官を挟んで、再び1998年党の科学技術創造立国・情報通信研究開発推進調査会会長代理、2001年科学技術政策担当大臣、そして、2006年から2007年まで第1次安倍内閣で財務大臣も務められました。
 私の理解では尾身大臣は科学技術の振興に一生をかけて尽くされたのに加え、特に地方における科学技術を通じた産業・地域おこしのための政策を作ることに献身された方であると思います。

 その甲斐があり、私が知事にならせていただいた時には和歌山県のような地方が地域の産業界の力を結集し、産学官の科学技術開発プロジェクトを起こそうとした時、助成してもらえるような助成金が経済産業省・NEDOと文部科学省・JSTのそれぞれに、全体で数100億円ぐらい用意されていたと理解しています。
 さらに素晴らしいことはそれらが競争的技術開発スキームになっていることです。すなわちこれらのプロジェクトの合否判定は、それぞれの省庁等に置かれた斯界の専門家からなる判定委員会によって行われ、専門的見地から、その地域や日本の発展に一番つながると思われるプロジェクトから順番に選ばれていくというシステムになっています。ということは、この助成を勝ち取るためには、各地方の産学官がその地域の資源に立脚しつつ、最も先進的で効果的なプロジェクトを考案する競争に勝ち残らなければならないのですから、それぞれの地方で、知恵比べが行われるというメカニズムになっていたということです。
 私は知事就任後すぐ技術開発をてことした産業振興を大々的に取り上げることとし、そのための政策の体系を作りました。まず、企業に経営革新のアイデアがあったら、何でもありで助成することにして、県に申請をすれば、県の任命した専門家が最も有望なプロジェクトから順番をつけて助成をする「和歌山元気ファンド」を第1ステージとしました(規模は数十万円から数百万円)。次はよりレベルの高い技術開発を目指す企業に同じように競争的に助成をする「先駆的産業技術研究開発支援事業」を配しました(規模は3年間2000万円程度)。さらに、資金的に県の財力では助成がつらいような大型の技術開発を和歌山企業にやってもらうために、尾身大臣が作られたいくつかの国の競争的技術開発スキームを利用して、企業のコンソーシアムを組織し、これに県内外の有力大学や県外の支援してくれる大企業も配してプロジェクトを作ってどんどん産業発展をさせるんだと張り切っていました。現に2007年には和歌山県で特に力のある中堅化学業界の力をさらに伸ばすためにナノケミカルプロジェクトを京大や阪大、それにユーザー企業としての大企業にも参加してもらって組成し、幸いにも3年間4億円の助成金を獲得することに成功しました。そして次は何をしようか、どの分野で、産業界の発展につながるような大型科学技術プロジェクトを作ろうかと考えているときあの事件が起こったのでした。

 それは、2009年に起きた政権交代によって政権を担うことになった民主党政権による事業仕分けであります。もちろん事業仕分けで行われた行革すべてを否定することは間違っていると思いますが、人口ボーナスが消え、下手をすると衰退のプロセスが始まるかもしれない日本で、唯一の成長要因であった科学技術振興費を部分的にはほとんどゼロに近いところまで切ってしまったというのは、私は愚行だったと思います。当初民主党政権はおよそ科学技術振興費など全部切ってしまう勢いで、蓮舫さんの有名な言葉「2番じゃダメなんですか」が飛び出したのですが、さすがに野依さんのようなノーベル賞級の立派な科学者の方々が猛反発をしたために、オール日本の大型科学技術プロジェクトを切り飛ばしに行くことは断念したようです。ところが、野依さんのような知名度の高いスポークスマンのなかった地方の科学技術を振興するための予算は完膚なきまでに叩き切られてしまいました。

 かくして尾身大臣が人生をかけて作り上げてきた科学技術政策、特に和歌山県のような地方において、知恵を絞り、資源をかき集め、皆が力を合わせて技術開発で地域を興そうとすることに対する国の助成はほとんどなくなってしまいました。これでは、地方は楽しみがない。頑張って科学技術の力で産業を盛んにし、地域を伸ばそうとしても、国に助けてもらえる術がなくなったのです。もはやナノケミカルプロジェクトのような構想は叶えられない夢となってしまいました。尾身大臣もさぞや悔しかったことでしょう。その後再び政権交代がありましたが、復活した自公政権も、この科学技術政策だけは元の水準までは戻してはくれていません。一度叩き潰された政策の復元がいかに難しいかの証左であります。昨今地方の力の減退が叫ばれるのですが、その要因の少なくとも一つは、地方の科学技術振興を長い長い努力で積み上げてくれた尾身大臣の努力を、一気に叩き潰したあの事業仕分けのせいであったと私は思います。

 尾身大臣が和歌山県にとって恩人であるという理由はもう一つあります。それは2006年12月の財務大臣室にさかのぼります。

 私の当時の目標は、和歌山県の地域医療を崩壊させないために、地域の拠点病院やへき地医療に従事してくれる医師を確保することでした。当時医局改革という国の政策の結果、各地の病院で医師が不足するようになって救急が崩壊するといったことが大都市ですら起きていましたが、県内では医師の派遣は偏差値の高い医療系大学である県立医大が大変頑張ってくれて、当時の医局改革の中で、地域の病院からどんどん引き上げられる他大学出身の医師を代替するために、医大の医局の若手医師をどんどん派遣してくれていました。しかしながら当時の医大は、全国の中でも例外的に医学部の定員が60人しかありませんでした。このままでいくと、いずれ派遣すべき医療人材が払底するに違いない、したがってここは何とか医大の定員の増加を勝ち取らねばならないという目標を持っていました。しかし、これは絶望的に難しいことでした。なんとなれば、当時の政府は医者の養成数を一人たりとも増やしてはいけないという閣議決定をしていたからです。
 なぜにこのような決定がなされていたかというと、医者が増えると余計な医療行為をするので、国全体の医療費が増えるからだと考えられていたからです。私はそれは少々違うのではないか、医療行為の総量は、医者が「余計なこと」をする、すなわち医療の供給だけで決まるのではなく、国民の医療需要によっても左右されるので、供給だけで量が決まるというのは間違いだと思っていました。そのことを、私は各省に説きまわり、特に旧知の和歌山県出身の財務省主計局の大幹部M氏と大激論に及んだこともありました。その直後、私は旧知の尾身大臣にこのことを要望に伺ったのです。私の説明に尾身大臣は「財務省がそれに反対しているわけではないよ」とおっしゃったので、「それは違います。文科省や厚労省にタガをはめているのは財務省です。」と言ってしまってから、旧知のM氏が大臣のご不興を買ったら大変だと、少々かばい立てをしたのです。そうしたら、大臣は烈火のごとく怒られて、「君はどっちの味方だ。」と言われてたので、「もちろん和歌山県の味方です。」とお答えしたのですが、その日以来、この医学部定員に関する政府の姿勢が完璧に変わりました。私は、おそらく尾身大臣が大局的に判断されて、全国の医師不足を放置してはいけないというお考えから軌道修正をされたのだと確信しています。その後、あっという間に和歌山県立医大の定員は増え、現在はいろいろな制度が加わって100人を数えるまでになっていて、その時できた県民枠や地域枠の制度を利用して和歌山県の地域拠点病院や地方の診療所に医療人材を送れるような体制がとれるようになっています。それも私は、あの日の財務大臣室がきっかけになっていると信じていて、尾身大臣にはいつも心の中で感謝していました。
 今は天国にいらして、直接感謝の気持ちを申し上げることができなくなりましたが、天国の尾身大臣に心の中で心から感謝を申し上げたいと思います。