紀州学研究会

 先日、家内とともに、八ヶ岳の山の家に行ってきました。病身とはいえ、家の中ばかりにいると気が滅入ってしまうので、思い切って連れ出して、電車とレンタカーを使って行ってきました。知事の時は運転を禁じられていましたので、久し振りに運転をしましたが、慎重に田舎道を走っている限り、まず何とかなりそうです。なにせ車が無いと食料品も買えないし、食事にも行けません。
 天気は悪かったのですが、新緑がきれいで、二人で気分よく過ごしました。

 半日だけ、古くからの現地の友人に御案内いただいて、昆虫採集にも行きました。天気も良くなくて貧果でしたが、友人(A氏とします。)のお話をお聞きして、昆虫や植物といった自然のみならず、考古学や文化人類学、それに郷土の歴史についての造詣が深いことにあらためて驚かされました。A氏は学者でもなく、板金加工業をしたり、農業を手伝ったり、今は地元の保養施設の夜間管理をしている、失礼な言い方をお許し願えれば市井の人なのですが、この深さです。A氏がリードされた結果かもしれませんが、地元の1つ南相木村には考古学の博物館あるそうですし、上川村にも、今は保管だけらしいのですが、考古学の博物館があったそうです。おそるべき長野県です。さすがは長野県、県庁所在地や大きな都市からうんと離れたこの南佐久郡にもこんなに文化の香りがします。しかも、同じ文化でも、有名人の住居を保存してあるといったものではなくて、地元の土の中から出てきた遺物を勉強して、その成果を万人に分かるように展示したもので、また、それを支える人も、大都市の大学の教授といった人ではなく、A氏のような地元の人というもので、文化の根付きを感じました。

 私は、地域の究極の力を見るには、教育と文化とスポーツが、どれだけレベルが高くて、盛んであるかによると常々言ってきました。(なぜならば、それができるのは、経済力が伴い、医療や福祉、治安といった行政がきちんとしていることが前提なので、文化活動などが盛んであるというのは、色々な面で地域がうまくいっているということなのです。)
 文化、歴史という面で、和歌山県のレベルを上げようという試みは、私が任期末に始めた「紀州学研究会」です。和歌山を中心とする紀伊半島を対象に、その地理、歴史、人類学、考古学、さらにはそのバックとなる紀伊半島の自然に関する知見をこの研究会が受皿になって集積しようというものです。そのためには、そういう方面に興味と見識を持っている人々をどんどん糾合しようという運動です。組織には、根城がいりますので、和歌山県立博物館に間借りすることにし、見識のある世話役がいりますので、県庁きってのその道の達人、山東良朗君に事務局をしてもらうことにしました。和歌山県庁には、普通の行政官をこえた様々な異能の士がいますが、山東君は特に文化、歴史に関してはものすごい知識をもっていまして、私も随分と話のタネを探してきてもらったものです。

 この紀州学研究会を思いついたのは、きっかけは忘れましたが、「世界史とつながる日本史…紀伊半島からの視座」というおもしろいタイトルの本を見つけたからです。私が高校生の時、英語の勉強のつもりで読んだサムソンの「世界史における日本」(Japan in World History)とそっくりなタイトルの本で、学者、作家、在野の研究者といった人が、様々な面でりっぱな見識を披露している本でした。
私はそれが「紀伊半島からの視座」で語られていることに、大いに興味をもって読んだのですが、世界史を語るのに紀伊半島からというのはいかにも魅力的な視点でした。
 内容もすばらしく、オムニバス方式ですから、色々な人が色々な側面から語っているのですが、その色々な側面の話を1つにまとめて、編纂するという営みがまた地域の文化という側面からすばらしいことだと思いました。

 また、「熊野から読み解く記紀神話 日本書紀1300年記」という本も立派な内容で、熊野を語っていて、心を打たれました。しかし、熊野古道といえば、本家は和歌山だ、特に熊野の文化においてはと思っている私にとって少々ショックだったのは、この本にかかわっている人が、中心人物こそ早稲田大学の名誉教授の先生なのですが、ほとんどが三重県のどこかの組織の人であったり、三重県ゆかりの人であったことです。本の内容の材料は和歌山にあるものも多いのですが、三重県の方々の大変なご努力で作られたようです。さらに、著者の方々のタイトルを見ていますと、「みえ熊野学研究所運営委員長」とか、「三重県立熊野古道センター理事」といったバックになる組織があることが分かります。同じような関心を持った人が集まって切磋琢磨出来るような組織が三重県にはあると言うことです。三重県はえらいと思うとともに、文化の和歌山を標榜しようというのであれば、和歌山県もこのままではいけないと思いました。
 そこで、紀州学研究会を作って、ここに紀伊半島の文化に関心のある人が集まって、切磋琢磨していける環境を作るのだというのが私の発想でした。 新宮市の文化センターには熊野学の発展に寄与するような組織を作りましたが、和歌山県も熊野だけでなく紀中も紀北も立派な研究素材と「世界史とつながる日本史・・・紀伊半島からの視座」に登場されるような郷土の研究者がたくさんおられます。高野山には高野山大学という学の塔がそびえたっていますし、最近は東大先端研と金剛峯寺と組んで高野山会議も開いています。そういうものが、それぞれ独立して動きながら、どこかで異なる学識を持つ人達と集える場所があることが、地域の文化を守り育てようとする人々の励みになるのだと私は信じています。

 和歌山は高野、熊野というものすごい世界遺産を有する県で、今でこそ高野山も熊野古道も日本でも世界でも広く人々に膾炙しています。
 熊野古道が世界遺産になったのも、西口元知事や後藤元高野町長の熱意、小関元教育長率いる和歌山県教育委員会の努力やそれに和した多くの人々の尽力があったからです。明らかに和歌山県のリードで始まった話です。熊野古道の構造も、何といっても最終目的地は熊野三山で全部和歌山県ですから、和歌山県が中心といってもいいでしょう。私はそう思っていました。ところが、世界遺産認定から二年半たって知事に就任してすぐ、あれれと思うことがたくさんありました。
 近くのスーパーで「熊野古道の水」というミネラルウォーターを売っているので買って帰ったら三重県尾鷲市産でした。三重県で開かれた紀伊半島知事会に行ってみると、尾鷲市にはものすごく立派な熊野古道センターがあり、熊野市の中心には、熊野古道をもりたてようとするボランティアのための立派な施設がありました。最後に時の野呂知事からレスピーギの「ローマの松」のような「熊野古道~神々の道~」というCDをもらいました。野呂さんが熊野古道のPRために有名な作曲家の加古隆さんに頼んで作ってもらったそうです。ぎゃふんです。
 こういった経験から、和歌山県の観光PRが始まりました。
 毎年アクションプランを作って、内外に世界遺産をはじめとする和歌山のコンデンツを売り出す運動を始めました。そして16年が経ち、今では、もう高野、熊野が和歌山だということを疑う人はおりますまい。

 文化も、このような観光のひそみにならい、田舎だけど、和歌山の文化レベルはすごいぞといわれるような和歌山に向けて、皆さん、それぞれ得意な分野の勉強をし、人の学識を讃え、よってもって郷土を誇りにしようではありませんか。この「紀州学研究会」に集って切磋琢磨しようではありませんか。山東君達の努力で、6月24日、紀州学研究会は、顔見せ発足式とも言うべき第1回の会合を持つに至りました。