教育、特に芸術教育について-高野山会議から

 高野山会議(2023.7.13~16)触発シリーズの第3弾です。
 高野山会議を主催する東京大学先端科学技術研究センターは、名前からすると科学技術の研究専門機関のような印象ですが、政治学なども含めて、大変幅広い学際的(インターディシプリナー)な研究を得意としています。したがって、私のような行政の経験者もフェローで参加させてもらっているのだと思います。その中で特にアートとデザインにウィングを広く伸ばしていて、和歌山県出身で、世界を股にかけてデザイナーとして活躍中の吉本秀樹さんや、自ら病におそわれながらもデザイン分野でインクルーシブデザインの研究を進めている並木重宏さんが活躍中ですし、ミラノを舞台に活躍中のデザイナー、伊藤節さんと伊藤志信さんが、今回はそれぞれ1つのセッションのMCをつとめておられました。
 デザイン、アートの研究は、若い世代の育成に当然つながります。高野山会議では、特別のセッションとして「次世代育成~STEAM教育と芸術環境創造~」を設け(必ずもアート、デザインの分野には限っていませんが)教育の問題を議論しました。その中で火力発電を中心とする東電と中電の電源部門を統合した新会社JERAの新しい社長奥田久栄さんも登場し、さすがと思われるような発言をされていたのがものすごく印象的で、日本経済も長い低迷期を脱して、新しい動きができつつあるのではないかという希望をもつにいたりました。
 ここでSTEAM教育というのはオバマ米大統領が唱えたSTEM教育にアート(Art)を入れてSTEAM教育というものですが、STEM教育とはScience、Technology、Engineering、Mathematicsに力をそそいで国際競争を高めようとするものであって、その方法としては「自分で学び自分で理解していく子供」を育てよう、先生が教えたことを覚えるだけではだめだぞというものだそうです。日本でもそうですが、世界中で創造力(Creativity)のある人材を育てないといけないということが大事になってきていることの延長でしょう。創造力は、こうやってSTEM教育の方法で高めることはできるかもしれないが、もっと突き抜けた知性を育てるには「STEM」では足りなくて「Art」の力を借りなければならないというのがSTEAM教育の考え方です。
 実は私は、このArtが創造性にビシッといい効果を与えて、STEM教育を受けた人より格段の創造性を発揮するのだということを論理的に説明する力はありません。しかし、芸術が直接右脳に影響を与えて、ともすれば論理だけの人の思考がこんがらがったり、沈滞したりしている時のブレークスルーとして絶対役に立つという確信はあります。現に「この人は頭がいいなあ」と思う人が、音楽や、視覚芸術、時には囲碁や将棋の達人という場合がたくさんありました。

 芸術の力をかん養する芸術教育は、先述の教育の創造力のかん養という問題では、最も先鋭化した問題を投げかけます。日本は特にSTEM教育やSTEAM教育が不得意と言われますが、その最大の問題点は芸術教育において顕在化していると思います。
 このセッションでは講演者の1人、東京音楽大学教授で、東京音楽大学附属中学校高等学校校長の小森輝彦先生が、至言の名句をたくさん語ってくれました。

 最初のスピーチのタイトルが「自然の公然の秘密」への関与というもので、この言葉だけでぞくぞくとします。順序立てて御紹介する力は私にはありませんので、先生の至言の名句を順不同で紹介します。

○STEAM教育の本質は、芸術を学ぶではなく、芸術で学ぶだ。音楽を主軸に自分らしさを解き放ってクリエイティブに生きよう。これは東京音楽大学の学是だ。

○人間はもとより誰でもアーティストだ。もともとあるものから引き出すのが教育だ。教育はティーチングではなくコーチングでなければならない。

○日本の音楽の闇は「音符どおり」に演奏せよと教えることだ。「何」を弾くかではなく「いかに」弾くかが大事だ。音符はその窓だ。

と語った上、小森先生は谷川俊太郎さんの詩「木を植える」を美しい声で朗読されました。「木を植える」のリフレインの中に「よみがえる自然の無限の教え」を感じることが大事だという頂点につながっていきます。またゲーテも引用されました。「自然の公然の秘密を打ち明けられた者は芸術に抗いがたいあこがれを覚える。」これらも解説はできませんが、心にしみこんでくる言葉だと思います。
 日本の教育は、明らかにつめこみ主義です。岡潔のように、読み書き算術をきちんと覚え込ますことがまずは大事な事だという人もいますし、私は、人の生きる道も含めて、師たる教師が生徒に教え込むことも、ある程度というより、かなり大事で必要な事だと信じている方です(従ってティーチングも大事。)が、芸術の面では、明らかに読み書き算術を教えるがごとき芸術教育には違和感を覚えます。

 私の娘は、小さい頃鈴木メソードで表彰されたりしているうちに、6才で現地のジェトロ勤務になった私とともにミラノに行きましたが、そこで、コンセルバトーリオの(偉いのでしょうが、性格がとても強引でおもしろい)老先生に見出され、各地の子供のコンクールを総なめし、帰国する1~2年前には、ミラノのチャリティー音楽会やTVに出て、ある意味では活躍していました。音楽のまるで分っていなかった父親の私も、コンクールへ娘と先生を送迎する「アッシー君」をやっているうちに、段々と音楽の世界が見えてきました。先生は、モーツァルトの幻想曲を娘にはじめて弾かす時、曲のもつ意味をここで「お化けが出て…」といってピアノを弾きながら語るところから始めるのです。
 けっして「音符を見て」などとは言いません。私達の出向の任期は約3年と決まっているので、離任の時期が近づくと、先生は「娘を置いていけ、お前なんぞが日本なんぞに連れて帰るとこの子の才能を消してしまう。」と言うのですが、身内に音楽家など一人もいない私達は一人娘を置いていくなんてとんでもないと連れて帰りました。そうしたら、日本にはまさに、小森先生がお話になった世界が待っていました。「この年令ならこの練習集を順にマスターしてから云々」というような先生ばかりに行き当たり、子供でもいかに表現するかということを重んじていたイタリアの世界とは天と地ほどの差がありました。
 そのうち自らも演奏家として頑張っていた先生とめぐりあい、お友達のように接してもらってピアノを続けていたのですが、高2の終わりの頃、受験勉強に本腰を入れるためということで、最後の記念に個人コンサートを開こうということにしまして、今はなきヴォ―リスホールでそれを開催して、ピアノをやめました。

 今は、日本でも芸術の世界も随分と分かってきたと思います。澤和樹先生ひきいる芸大でも、皆思い思いに自ら才能を伸ばすような教育がなされるようになったと思います。1.2、1.2、という数学や体操のような音楽教育はもはや主流ではないような気がします。しかし今でも、芸術の世界でなくても同調圧力が強く、いいという声価が確立した芸術家は皆が信奉し、支配的になった意見のみを無条件で信じるきらいがあるように思います。自分の目と耳で、すぐれた芸術家を発見しようという気風がまだまだ十分でなく、芸術以外の分野でも自分で考えて、道を切り拓いていくことについて、それほど力強くしないのが日本の社会のように思います。

 その意味でもう1人の登壇者、JERAの社長の奥田久栄さんの御指摘は、まことに刺激的でした。奥田さんに言わせると、ビジネスと芸術は同じ土俵の上のことで、第1に感性に響かない商品を買う人はいないのだから、感じる力のある人が「無言の自然の教え」を開いて経営をしていかないとダメだ。
 芸術はビジネスの20年の先を行っている。すなわち、昔芸術の世界では指揮者がカリスマだったが、今はフラットな関係の中で皆が価値をつくっていかなければならない。企業だって同じだ。先輩、上司の言うことに従うだけの人はもはや経営者たりえない。自ら考えて価値創造をする、そうすると失敗をする、その失敗が価値創造の原点だ。だから、若い人も自分の考えを先輩や上司とぶつけあわなければだめだ、人の育て方もそうしていかなければならない。芸術は、その際特に役に立つ。しかしその芸術との接し方も、単なる趣味、お稽古事では意味がない、芸術家が芸術を生み出す真剣な苦しみと同じような真剣さで芸術に取り組まないと、企業でも本当の役には立たないし、価値創造につながる仕事は出来ない。

 東京電力と中部電力の火力発電部門を統合して世界に伍するような産業を育てないと、産業も企業も国家もじり貧だと、組織の中で想像するだに困難な着想をずっと語り続け、多くの失敗を重ねながらついに実現させた人だけが語れる発言だったように思います。

 科学やビジネスの創造には、そしてそのための発想力のかん養には芸術を、このテーマが今、世界のあちこちでも注目を集めつつあります。